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2012年10月15日月曜日

ある家族のお話

皆さん、今になって娘は持つものじゃなかったと思います。こんなに辛いのは娘を持ったせいですから。
妻は生まれ来てくれただけでもう親に全ての恩を返しているといいますが、それを割り引いても本当に辛いものです。身を引き裂かれるというか、体の一部が無くなってしまったようなうつろな感覚です。もちろん娘の門出を祝福していない訳ではありません。

相手の男性にとやかく言う訳ではありません。でも、辛いのですよ。
妻がポロリと言った「家族は4人だよね」と言う一言が心に刺さります。ずっと4人で暮らせるはずはないのに、でも4人でいたいという思い。それは消し去る事は出来ません。

娘が生まれた時に私達は親になりました。それまで自分が中心だった世界が子供が生まれたときから優先順位がころっと入れ替わりました。辛いことも嬉しい事もこの4人で分けあってきました。全ての記憶に家族の姿がラップします。残像は厳しすぎる現実です。家の中には娘と暮らした27年の足跡があちこちにあります。柱の傷を見ても、娘の部屋を見ても娘が嫁いでいった事実を受け止めることなどまだ出来ません。

娘は結婚して自分の子供を持った時に、初めて親の気持ちを理解できるのでしょう。そして私達が味わっているこの深い悲しみもいつかは輪廻転生のごとく味わうことになるのです。私だって子離れや教育におけるキャッチ&リリースの重要さを理解しています。理解してはいるけれども心が言う事を聞かないだけです。

娘がこれから暮らす事になる駅前の写真を眺めながら、そこで暮らすと覚悟を決めた娘に驚くとともに、親とは違う考え方に賞賛を送りながらも寂寥感が重くのしかかります。私の信条として親と同じベクトルを持った子供に育てる事を良しとしなかったのですから、当然の帰結ではありましょうが心が言う事をききません。多様性こそが生物生存の原理だとすれば喜ぶべきことなのですが、それさえ上の空です。

感情と言うのは無理に抑えつけようとすればするほど膨張して最後に爆発します。そんな風にならないためにも日常の中で吐露しながら暮らす事になる訳でしょうが中々上手い塩梅にはいかないものです。

私達の人生は若い時に考えていた漠然とした自分の人生と同じだったでしょうか。私の場合は全く違っていました。横浜で暮らして20年になりますが、ここで暮らすなどと思ってもいませんでした。娘達もこれから先どんな人生が待っているか分かりません。その時々で親は子供達の港になり、暴風雨や荒れ狂う大波から小舟を守れる存在でいたいものです。人生良い時もあれば悪い時もあります。そんな子供達の人生の港であるべく老境の心構えとしたいものです。昔から言います。苦労は買ってでもしろと・・・