大きなスタジオを運営している人が売上が減少しているのは若者の雑誌離れが顕著でその煽りを受けているのだと言った。その時はなるほどそうなのかと思った。
その後知り合いのプロカメラマンのスタジオは震災で多少の落ち込みはあったがその後は順調に推移していると聞く。この違いが何故なのか分からなかった。そしてつい一昨日、仕事を一緒にしている設計士さんが大手の雑誌社のスタジオの回収を手がけているという話を聞いた。全体はコーディネイトするがスタジオの中味はその雑誌社の人たちが手作りで行うという。
このスタジオをつくるには理由があったそうだ。まず、既存のスタジオの中に自分達が使いたいスタジオがないということ。そしてとても高額な使用料に辟易していること。だから自分達で作ったという。
私は仕事をしていて同じようなことに遭遇する。それは物事をすぐ大局で済ませてしまう評論家のような人が多いことだ。こうした人達は自分の足元のことに気づかない。スタジオは箱だと思っている人がいたらそれは大間違いである。スタジオがただの箱の時代はもう終わったのだ。単純な写真ならばPCで好きな様に加工できる。どうしてもそこでないと撮れない写真は海外に出かけて撮ってくる。その間を埋めるときだけ必要なのだ。そしてカメラマンが劣悪な環境で作業する時代も終わったのだ。考えてみればスタジオに集うすべての人が酷い環境だと思っているのならばそのスタジオには明日はない。
つい最近テレビで大阪の有名ホテルがメニューの偽装をしたと報じられた。残念ながらあそこで出されていたジュースが搾りたてだとは私は思わなかったからいいのだが、本物を飲んでいたらすぐ分かるはずだ。この問題の芽は彼ら自身の経験のなさにつきる。前述のスタジオもそうだが運営している本人達にプロとしての自覚も興味も感じられない。だからこんなものでいいだろうと思ってしまう。
親戚筋に当たる人が長らくアパレルメーカーを経営している。昨今の経営環境を考えると驚きである。もっともその人は小売からの叩き上げの人でたとえ息子であっても好きでなければ続けられないと会社には二人の息子は入れていない。そして今も黙々とデザインを研究している。
これは人ごとではない。私のところも貸しホールを運営している。オーナーの懐具合や経営環境をつい考えてしまうと利用者側に立った助言が遠慮がちになってしまう。それではいけないのだ。絶えず利用者の目線に立たなければ明日はないのだ。自戒も込めて。