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2014年1月28日火曜日

SURFACEな街

表題の英語は正しくないらしい。SUPERFICIALというのが正解らしいが何となくSURFACEという言葉が私の場合にはあっているのでご容赦戴きたい。

からっ風の上州から上京してはじめに目にしたのが上野ではなく、浅草だった。浅草まで鐘ヶ淵、曳舟、押上と続く。駅を囲む街の姿は田舎と何ら変わらず、人々の生活感が街に充填され、息苦しかった。先に友人の住む玉ノ井には遊郭の跡があり、その建物は銭湯になっていた。人々の生活と歴史が刻まれているそんな街では上京した意味が無かったのかもしれない。少なくとも当時の私には。私は西に、西に住むところを求めた。東京の西側は当時もそして今も新興の住宅地である。人々の生活感はなりを潜め、小綺麗な街並みが絵のように嘘臭く続く。今住んでいる横浜も同じだ。同じような家並みが続き、同じような年収、同じような嗜好性の人達が住んでいるのだろう。

息子がロサンゼルスに留学した時、息子の上司に当たる研究者がロサンゼルスはアメリカでも特異な表面的な街であると卑下していたそうだ。確かにSURFACEという言葉がぴったりくる。
アメリカでの生活の長かった友人が面白いことを言っていた。東海岸の人達はアジア人にも親切に言葉をかけてくるというのだ。一方、ロサンゼルスなど西海岸ではそうでもないという。理由は西海岸に集う人は人種の坩堝宜しく多民族で千差万別のため、隣人と言っても私たちと同じ異邦人ということらしい。だから特別扱いはされないのだ。そこ行くと東海岸はWASPルールが徹底し、その裏返しなのだと。

それが原因か分からないが、私にはSURFACEな街が快適である。歴史や文化が成熟していなくても、私には息苦しさがない。だから私はSURFACEな街が好きなのだ。