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2009年12月12日土曜日
JACQUES DERRIDA VOYOUS おサルの系譜学
Cape Cod brunch 森戸海岸
兄キィとここ湘南のケープ・コッドこと森戸海岸でブランチです。
お店は「かの高級店D」です。
特に冬場によく訪れます。富士山が綺麗だからです。
兄キィは有名人なので肖像権の問題がないのでそのままです。
サングラスをかけていますがGクルーニーでも、ブッシュ前大統領でもありません。
なにせCape Codなのでケネディ家の生まれであることは確かです。このスウェードのJKももちろんラルフローレンです。なにせケネディ家ですから。ちなみにハワイから買ってきたようです。似合ってます。
ブランチのメニューはクラブハウスサンド、コブサラダ、牡蠣のガーリック焼きとビールに白ワインです。
暖かくて直射日光の下では眩しすぎます。日に当たった顔が日焼けしました。
兄キィは1月にベガスにどうしてもと請われて同行されるそうです。ラスベガスも似合いそうです!!!!
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お留守番セプとさくらを暖かいうちにドッグランです。看板犬のラスタも迎えてくれます。
Indian summer 湘南 森戸海岸
兄キィとの合流までまだ時間があるので駐車場に車を止めて森戸海岸です。
富士山がくっきり見えます。森戸神社は参詣者用の駐車場もあり大きな神社です。
すぐとなりの鹿島建設が作った「The Condminiam MORITO」です。ひとつひとつのスパンが広く、事前に全戸完売していたようです。
とても綺麗な建物ですが、私のようなラフな人間にはチトモダンすぎます。
海岸でゴールデンのミックスちゃんが近づいてきました。可愛い子です。耳が小さく少し立っていて、尻尾が丸まっているのが愛嬌です。とても素直な可愛い子です。
このあたりはセプとさくらのために物件探しに何回か訪れていますが、森戸海岸を歩いたのは初めてです。
富士山が左に見えて、江の島、稲村ケ崎、逗子マリーナと続きます。逗子からみた風景とは違い、変な感覚になります。
葉山牛 旭屋牛肉店
昨日の氷雨が嘘のようにぽかぽかの土曜日です。
兄キィとブランチの約束をしたのでその前に葉山旭屋牛肉店でお正月のしゃぶしゃぶ用葉山牛をオーダーしました。牛肉4キロともち豚2キロです。これなら牛肉所望のT家も満足してくれることでしょう。
横浜高島屋でも扱っていると記載していたので確認したのですが今は取り扱いはないようです。ネットでも調べたのですがここ地元旭屋さんが一番リーズナブルでした。しゃぶしゃぶ用は3種類あって、グラム800円、グラム900円、グラム1000円です。そんなに高くありません。
地産地消を目指します。
お正月は親戚、スタッフ合わせて20人になります。もちろん喪中でお正月のないご家族も大歓迎です。(笑)
それにしても10時の開店間もないのにすごく混雑しています。隣のユニオンの駐車場に入れて後で買い物します。
葉山コロッケとレバーペーストも購入しました。
暖かい湘南です。
丸山眞男講義録 「葉隠」 「他者感覚」
マイスモールブームの丸山眞男です。今頃になって何故丸山眞男かというと、私たちが大学に入学したころにはやや過去の人といった感じがしていたからです。Rパパの学生時代にはアイドルそのものだったようです。そして彼の研究室や講義には行列が出来たほどと言っていましたが、残念ながら私はよく読んでいません。
後になって吉本隆明氏が批判した「上空飛行的思考」とか「理論的破綻」「ブルジョワジーの綺麗事」といった言葉のみが先行し、よく読んでいないからです。
読み返しながら思ったのは和辻哲郎氏や西田幾多郎氏の「場所」「間柄」の哲学が「主体性」を周りから考え定義するのに対して、真正面から「主体性」にぶつかっていったそんな真摯さをあらためて感じられました。そしていくつもの仮説を立てますがその都度理論的に崩壊し、自らを傷つけていく。そして「主体性を超えたものとの関わりでしか主体性は生まれない」という考えが生まれたのではないでしょうか。
彼は「葉隠」を武士道の能動的主体性としてとりあげ最終的には能動的個人主義=近代化をもたらすエートスとしてとらえていますが、「葉隠」が実用的手引書としてのハウツー本的性格(戦中は逆にその一部を利用した忠誠心を煽る)であると思っている私には受け入れることには抵抗がありました。
まだ講義録を俯瞰しているに過ぎませんが、さらに熟読し、「自己内対話」をしていきましょう。自己内対話が出来なければ多重人格障害ですから。
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京都学派の「間柄」「場所」からの主体性論も、丸山の主体性論も位相幾何学的にはドーナッツとコーヒーカップが同じであるように同じもののような感じがしてきました。
後になって吉本隆明氏が批判した「上空飛行的思考」とか「理論的破綻」「ブルジョワジーの綺麗事」といった言葉のみが先行し、よく読んでいないからです。
読み返しながら思ったのは和辻哲郎氏や西田幾多郎氏の「場所」「間柄」の哲学が「主体性」を周りから考え定義するのに対して、真正面から「主体性」にぶつかっていったそんな真摯さをあらためて感じられました。そしていくつもの仮説を立てますがその都度理論的に崩壊し、自らを傷つけていく。そして「主体性を超えたものとの関わりでしか主体性は生まれない」という考えが生まれたのではないでしょうか。
彼は「葉隠」を武士道の能動的主体性としてとりあげ最終的には能動的個人主義=近代化をもたらすエートスとしてとらえていますが、「葉隠」が実用的手引書としてのハウツー本的性格(戦中は逆にその一部を利用した忠誠心を煽る)であると思っている私には受け入れることには抵抗がありました。
まだ講義録を俯瞰しているに過ぎませんが、さらに熟読し、「自己内対話」をしていきましょう。自己内対話が出来なければ多重人格障害ですから。
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京都学派の「間柄」「場所」からの主体性論も、丸山の主体性論も位相幾何学的にはドーナッツとコーヒーカップが同じであるように同じもののような感じがしてきました。
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