このブログを検索

2012年7月31日火曜日

情報の非対称性

先般、2冊の本を併読していると書きましたが、今日はそれに関しての私なりの考察です。

アメリカでは駄目な車の事を「LEMON CAR」といい、そんな中古車市場では一般の人々はそれがレモンなのかレモンでないのか見分けがつきません。一方、ディーラーはどれがレモンか分かっています。

こうした売り手や買い手の間の情報に差がある時に非対称性が存在するといいます。

インターネットがマスコミの持つ情報の非対称性を著しく改善させた事は自明であります。

このジョセフ・ユージン・スティグリッツ博士は以前にもブログで登場した「マルチスピード化する世界の中で」という本の著者であるマイケル・スペンス博士と共にこの分野の第一人者です。

グローバル化とはいわばこの情報の非対称性の解消が世界的に同時に起こっていることです。

スティグリッツはその行きすぎた非対称性の解消は危険であると述べているのです。

もう一冊の本は日本でもハーバード白熱教室でお馴染のマイケル・サンデル教授の本です。

経済学が規定する人間の合理的行動について辛辣な意見で同僚でもある経済学者さえ睥睨しているその自信は恐ろしい位ですが、彼の言う、市場に全てを完全に委ねることが良い事ではない事例を羅列しています。市場万能主義への警鐘です。

ユニバーサルスタジオの並ばない有料券に始まり、米議会公聴会に代理で並ぶアルバイト、代理母、生命保険の加入権の売買、臓器売買、お金で永住権を買う制度等々・・・・・・、

ホノルル空港にあるゴールドレーンだって出国手続きは同じ公的サービスであるのに料金によってこのサービスに差を付けている訳です。

需要と供給とのギャップをこうした手数料=対価によって解消し、経済的効率をあげる働きをしている訳ですが、何かこの手のサービスに釈然としないのは何故でしょう。

最近日本でもいくつかの航空会社がLCCに参入しました。安い航空運賃は魅力です。しかし、安さばかりに囚われれば最終的には安全もお金で買うと言うことにはなりませんでしょうか。

この釈然としない理由は事が「人間の根源的」のものになればなるほど感じます。

彼らの意見をリバタリアンはどういうか分かりませんが、スティグリッツは「小さな政府」は危険である述べています。

我々が人間としての根源的サービス受ける権利それが人権です。その人権に関わるような事までビジネスの対象とすることには誰しも不安に思い反対しているのです。

情報の非対称性の解消はグローバル化の一側面かもしれませんが、我々がグローバル化を考えるときにその反対側にこの問題が起こっている事を理解すべきだと思います。

それは少なからず単なるフリーライド論ではなく、マルチスピード化する多元世界においてどう考え所作を説くのか一考すべきなのかと思いました。だって実際には「既に起こっている」のですから・・・








2012年7月26日木曜日

適正なコスト



テレビで飲食業界の革命児として格安でフレンチを提供するお店を経営している会社を取り上げていました。

銀座に一号店を出して、私のお膝元(笑・・元)の恵比寿にも出店したと言っていました。

要するに居抜きの内装で出店コストを抑えて、立ち食いにすることて回転率をあげて利益を出すと言う事です。

もともと飲食店で企画の優先する店は信じてないのですが、それ以上に妙な気持悪さを感じるのです。

この会社の社長はBOOK OFFを立ち上げた人のようです。

社長は大衆に今まで食べられなかったような美味しい食材を提供したいと言っていました。

私にとってはうどんの立ち食いだってNGなのですから、このフレンチの立ち食いでは胃袋に入って行きません。それは別としてもBOOK OFFもこの飲食業界も何かを減らして利益を出しているのです。

内装や設計にお金をかけたくないというのは分かります。しかし、それによって生計を立てている人もいるのです。空間は全く関係ないのでしょうか・・・・・

BOOK OFFだって高価に本を購入してくれる訳ではありませんし、これによって倒産に追い込まれた書店の数は計り知りません。

何かを提供するにはそれなりのコストが掛ります。それを無視してただ安く仕上げたいという気持ちは下流化した人の考え方ではないでしょうか。いや下流化した人を対象にしようと考えているのか定かではありませんが・・・・・

産業界でも人件費を抑えるためにただ海外移転した製造業の脆弱な事を述べました。自転車産業しかり、家電業界しかりです。

「コアコンビタンス」という言葉があります。唯一無二、他では真似できないような技術やノウハウのことです。もっとも、経営学的にはコアコンピタンスであればあるほど他から真似られ平準化するという理論がありますのでこれを継続していくということが如何に難しいか分かります。


先日、30年ぶりの大学の同窓会で友人はAという会社の専務取締役になっていました。この会社はある分野で抜きんでており、例えばF1の制動装置も供給しているし、新幹線などの鉄道用の制動装置も提供しています。この分野の第一人者なのです。

では何故、第一人者として継続できるのか、それはその会社が業界でトップになった事にあぐらをかかず、絶えず研究し、自己変革しようとする前向きな姿勢を持ち続けていることです。

話を元の飲食業界に戻します。三国さんというフレンチのシェフがいます。かれこれ20年近く前に日曜日に自由が丘のシェルガーデンで奥様と買物をしている姿を目撃しました。

彼は奥様の2.3歩後ろから、食材を手に取りながらじっくりと眺めてはもとの棚に戻していました。

そんな彼は常に新しい食材を研究しています。四ツ谷の彼の店はもとより、札幌の彼の店も素晴らしい料理を提供します。先日、私が焼尻島から仕入れた羊肉も彼の店で使っています。私は例えその金額が前述の飲食店の3.4倍でも構いません。それなりの空間と食材を使っているのですから仕方ないと思います。

閑話休題

以前フランスに仕事で毎年行っていた頃に一度、エルメスの本店に行ったことがあります。もちろん好学のためですよ。

その時は日本人の多さにも驚いたのですが、パリ在住の友達がこっそり教えてくれたことに、本当は商品があっても日本人には売らないとの事です。

別に差別している訳ではなく、その店の商品は「そうした人達」が買うべきものと考えているとのことでした。確かにお店にフランス人は多くありません。

パリでここの商品を持っているということは、「そうした人」を象徴する訳です。「そうした人」は必然的にそれなりのコストを払える人ということになるようです。

日本ではどうでしょう。こうしたブランド品は年収や生活とは切り離され所有される傾向にあります。

資質流れでこうした商品を買う人も多く、とても「それなりの人」が持っているとは言えません。

考えてみれば日本人はこうした当然のコストを負担する事を嫌う傾向にあるのです。

今巷に「フリーライド」という言葉が使われています。自己責任を持たずに単に他人を批判する精神はこうした傾向とも重なる気がします。

ノブリス・オブリージとは遠くかけ離れた島国の様子です。





2012年7月24日火曜日

児島惟謙 ER

児島惟謙と言う人は大津事件で政府の関与を退け、司法の独立を守ったと言われるこの人なので知っている人も多いと思います。後には冤罪を押しつけられ辞する事になる訳ですが・・・

今日、この人の事を取り上げたのは欧州列強の仲間入りを果たしたいと思っていた当時の日本がこの人の公正さに助けられ、それらの国から一目置かれるようになった、つまり2等国から1.5等国に進んだ訳です。

それはそれは今と違う大日本帝国憲法のもとですから、政治や軍部の影響も強かったでしょう。それでも公正さにおいて、この人は司法を守った訳です。

そこへいくとどうでしょう、粉飾決算や飛ばしで一部上場企業さえあのような不祥事を起こして、外部監査の重要性が叫ばれている中、結果として圧力団体の「自由性」という都合のよい言葉で押し切られ、この事を徹底する折角の機会を逃したのです。

日本株全般が魅力なく映ったのでしょう。翌日株価は下がりました。

裁判用語に「証左」とい言葉があります。証拠とは少しニュアンスが違い、「そのように説明されるべき証となるもの」と言った意味です。

以前チームを組んで一緒に裁判をしているときに当方の弁護士が依頼者のひとつの言動に注意した事があります。折角、理論的に証拠を組み立てて、論戦を交えても、その一言が「証左」となり裁判官の心証が決まってしまうからです。

今の日本の企業も自分たちにとって都合良い行為がこの証左にならなければ良いと心配になってしまいます。

情報の開示とは都合のよい情報を並べるだけでなく、犯罪や犯罪に類似する行為を起こさないような工夫を開示するべきなのです。それがなければステークホルダーの信頼を勝ち得ることなど出来ません。画像はウィキペディアよりお借りしました。

2012年7月22日日曜日

休日の読書


とにかく本が溜まって仕方ない、されど本は読みたい・・・・・・・・本棚の整理をして読みたい本をさぐれど既に読んだ本には触手が伸びない・・・困ったもんだ。

しばらくして息子の部屋に行き、専門書の類で私が読んでも分かる(多少)本を物色するとこんな本が現れた。まず、ネーミングがいい。だって「ベットサイドの神経の診かた」だよ。
中にはドクターG宜しく総合診療についての項もある。これはずるい。

今日の自転車に乗れない鬱憤を晴らすかのように3.4時間読み漁った。中々楽しい、こんな事を授業でやるなんてずるいじゃないか。

すると、高校生の時、生物で唯一習ったメンデルの遺伝の法則が載っていた。そう常染色体優性遺伝、常染色体劣勢遺伝、伴性遺伝・・・・なるほと私でも分かる、例のXとYを使った組み合わせの事だ。もちろん本書は医学書なのでこれらの遺伝に関係の深そうな病名も羅列されている。

妻の父親は眼振だといっていた。強度ではないし、視力にも影響は無いので特段の治療の必要もない。息子も同じように軽度の眼振がある。同様に何ら治療の必要とするレベルではない。

しかし待てよ、以前妻から自分も眼科で眼振と言われたと聞いたことがある。

あれ何か変だな、そう眼振が遺伝性だとすれば伴性遺伝なので女性には現れないはずだ。とすると妻の場合には別の影響からくる眼振といことになる。

人間と言うものは人から聞いた事を確認せず思いこむ事が多い。バイアスである。私もすっかりそのバイアスに掛っていたということになる。

何事も確認、確認そして理論の整合性・・・・中々容易ではないが・・・・・・・・・・

2012年7月20日金曜日

日本の製造業

日本は「物作り大国」と少し前まで言われ続けていたが本当に物作り大国なのだろうか。

「銀輪の巨人」(台湾の自転車メーカージャイアント)という本には日本の自転車産業が如何にして衰退して言ったかが書かれている。

当初は台湾や中国などと嵩をくくっていた。しかし、蓋を開けてみると自転車作りのノウハウをすべて浚われて何一つ日本には残らなかった。

彼らは自転車は売ったがそれはママチャリを売る売り方で、収益性の高い高級車を売る売り方ではなかった。さらに業界が政治に働き掛けその下地を作ることもしなかった。

いまだに歩道を走る国は日本くらいなものなのだ。

白物家電といわれる製品だって同じではないか。韓国や中国の製品を馬鹿にして、「****工場生産」と液晶テレビの国産の優位性を謳ったところでもう遅い。

アメリカに行くとよく分かる。以前は高級ホテルに設置されている液晶テレビはほとんどが日本製だった。しかし、数年前に行った時にはほとんどサムスンに取って代わられていた。

自動車はまだ大丈夫と思っていまいか。

私はヒュンダイが日本から撤退すると聞いた時に、日本市場に合わなかったと指摘した専門家がいた。そんなはずはない。私は日本の市場を捨てたのだと思った。

案の定、ヨーロッパを主な戦場として現在ではもっともシェアの高い自動車メーカーのひとつに成長している。

GMだってそうだ。日本では売れてないからといって世界で売れてない訳ではない。事実、ブラジルでの販売は好調で大きな収益源となっている。

島国根性ゆえと総括してしまうのでは身も蓋もない。これらの製造業のトップの多くが国際的な感覚が乏しく、創業家の歴史を重んじる傾向にある。それゆえ、一度敷いた路線を変更する事を良しとしない。

「レクサスとオリーブの木」という本があった。南北格差を言い変えている訳だが、レクサスが製造業の成功の指標であったのだろうか。

H報堂が企画した当時のプロモーションはボンネットの上にシャンパンタワーをつくり、その上からシャンパンを注ぎ、エンジンをかけても零れないパフォーマンスで紙面をにぎわせたのだが、アメリカ人はそんな単純にレクサスを賛辞したとは思えない。

ある調査によると、レクサスを買った多くの人が人種的偏見を持たないことを心情としているとアンケートに出ていた。さらにレクサスの他に数台所有している人がほとんどで唯一無二の車ではない。

豪華客船の先端でのパフォーマンスが有名になった映画に出演していた某俳優もエコカーを買ったと出ていた。しかし、彼は「そうみえる」事を予想して買ったのである。

物が売れるには二つの側面がある。圧倒的に他との差異が生じ、市場に同様なものが無い場合と市場には同様の物があり、比較の中で購入される場合だ。

前者の場合はすぐに他者が真似るので独占できる期間は短く、最終的には後者の状態により均衡される。

私にはガラパゴス化と言われた日本の携帯電話同様、物作りの現場に置いて、ブランドにこだわり知らず知らずのうちにガラパゴス化しているものが多いような気がする。

カーナビ、ヘッドレストについた後席テレビ、クルーズコントロール・・欧州やブラジルの人に選ばせたらどれも要らないというだろう。エアコンさえいらないというのだから・・・・・


家族の再構築

以前にも親業について書いた事があるが、私達のような年齢になると家族とは何ぞやと考える事がある。

もともと他人の二人が結婚して新しい家庭をつくる。働き盛りの頃は子育てと仕事にふりまわされて、家族についてよくよく考えた事などない。何しろ、目一杯だからである。

ところが子供が社会に出て、一応の親業は第三段階を迎える。そして、いよいよ子供が家を出る時が来る。そう丁度今の私達のように。

以前、子供達の映ったアルバムを整理していた時に、妻が私に「このアルバムは私達の物、だから子供達は関係ないの」なるほど肝の据わった発言である。妻の事を見なおした。

ところが、娘の結婚が秒読みに入ると一転して、妻は動揺し精神的に不安定になってきた。

空の巣症候群という言葉がある。子供達が独立し突然の虚しさに襲われるというものである。

空の巣とは欠け落ちた状態を放置し、そのままでいようとするから起こるのだと思う。

家族とは一度築いたらそのまま永遠に変わらないものなのだろうか。

巷ではREの付く言葉がもてはやされている。REBUILD,REBORN、RECYCLE・・・・・・・・・

家族もまた再構築されなければならないのではないかと思う。

夫婦関係ももう一度見なおさなければならないのだろう。お互いの友達や親戚も含めて、今までとは違う関わり方をしなければならないかもしれないし、そのままで行くかもしれないが、状態が恒常的な訳ではない。

再構築とは壊れてから作り直すばかりではない。状態や要素が変われば再構築する必要があるかもしれない。

喪失は新たな変化と考えて、そうジャマイカの人は家族が亡くなると、お祝いをするそうだ。つまり、生まれてきた事に感謝する意味として。

子供は生まれただけでメッケモンなのである。あとは、親がそれ以上の欲をかいてはならないのだよ。

2012年7月18日水曜日

言葉の洪水

久々にソシュールやロランバルトの本を読んだ。この頃自分の使う言葉について何となく違和感を感じていた。もっともその最たるは気象庁が新たに取り入れた気象用語であり、その言葉を連呼するテレビのアナウンサーであった。

言葉は時代と共に変化するし、その文化に内在される差異性を含有する。言いかえれば一つの文化が他の文化に吸収、併合されれば言葉はその意味を失う。

近頃は言語論というものは大学で学ばないであろろうか。言葉を軽視するこの傾向はもはや止める手立てもないものなのだろうか。

政治家の使う言葉も貧相である。言葉から自己弁護と自己欲求の顕れが垣間見得る。国民にエクスキュースする自信の無さが言葉から伺われる。

バルトは日本は「記号の国と言っていた。これほど多くの記号が氾濫する国は珍しいらしい、いや待てよ私達はそれ故言葉を大切にしなくなったのか・・・・記号化された文脈で人々はお互いを認識しているそういうことなのか・・・・

いずれこの国の言葉どうなってしまうんだろう、AKBなんとかSTBなんとかとか全て記号化されていくのだろうか、子供の名前もAZB1なんて呼ぶ日が来ないとも限らない・・・

2012年7月17日火曜日

ギリシャ化する日本

昨日のデモでどのくらいの人が足を奪われて、大変な目にあったのだろう。休日とて働いている人はいるのだし、折角の行楽に出かけた家族連れは散々な目に会った事だと思う。

言っておきますが私は原発推進派ではありません。原発は無くなって新しいエネルギー政策に転換されるべきだと思うし、政治にそのインフラの整備を求めています。

私が言いたいのはあれだけ多くの人がきちんとした思想信条をもって参加しているのかという問題です。

私の知り合いは時給いくばくかのお金を受け取り組合から要請されて参加していた人もいます。

私は組合というものに懐疑的です。私が勤労奉仕していた某組合での経験から、組合が組合員から搾取する構図を良く見てきたからです。結局、ソビエトのそれが官僚社会的組合の自己保身と垂直性に他ならないのと同じ事です。

なんだかニュースを見ていて、ギリシャ国民が行っていたデモとオーバーラップします。

ギリシャの国民はあれだけ自国が衰退し、国際社会から非難を受けているにもかかわらず自分達の既得権益を守るために国民が「正しい」という唯一理念のため動き出す。

そうです、丸山眞男の言った「キヨキココロ」そのものです。

昨日のでも参加者の中には福島から参加した人もいて、マスコミは正義の味方とばかりこうした人を取り上げます。これが問題・・・テレビを見ている人は何も考えず自分の感情移入をしてしまう。

私達より先に生まれた多くの人はマルクスやレーニンを学びました。知識人といわれる多くの人がこの思想的影響を受けているのです。もちろん社会主義は泡沫と消えました。だから、だれしもがマルクス主義のようにならないことは理解しているのに体にしみ込んだ匂いのように何かが起こると現れてくる、いわばマルクスの亡霊のようなものを抱え込んでいるようです。

理論的と言われる人達も一たびこの亡霊にやられると感情的になり、「キヨキココロ」が発動されるのです。

壊し屋の異名をとり、新しい政党を作った人は理念も無く原発反対をうたっています。ポプュリズムとはこうした人達の事をいうのに、デモに参加した人たちはこの人たちに国政を任せるつもりなのでしょうか。

日米安保、沖縄の米軍基地、中国との領土問題、そして韓国との関係・・・我々は総合的に考えなければならない問題を多く抱えているのにマスコミはすぐに白黒つけたがります。

多くの問題はとても複雑で白黒付けられるようなものではないのに国民が単純化した理論を選んでいるようで私には末恐ろしくなるのです・・・・

2012年7月13日金曜日

責任を取らない大人達

久々の内田先生の本、この手の話題になると俄然、筆致が良くなって一気に読者を引きずり込む先生の本です。

私は大学の3年生の後期に突然何を思ったか教職を目指し、普通なら少し暇になる文系の学部で1.2年生に交じって学科を受講したのでありますが、その私が教職を諦めたのが何を隠そう教育委員会という代物でした。

高い希望と志しを持っていた若者にとってその得体のしれない組織はまるで形の無い「怪物」そのもので、若者の出脚をくじくのには十分すぎるものてした。

時は変わって現代、この教育委員と言う代物は当時よりさらに大きくなっているような気がします。

自殺した自治体の教育委員の口から聞こえるのは「私達は悪くない、私達は知らなかった」という無責任な発言ばかりです。


先生のこの本にもそんな責任を取らない大人達が登場します。

私の周りでも何かにつけて書面だの契約書だのと言う先達がおります。

弊社の顧問弁護士に言わせればどんなに細かく文章で取り決めをしても、守る気持が無ければ無意味だし、言葉の多すぎる契約書ほど浅はかさを感じると言っていた事を教えてあげたい位です。

しかしながら、こうした形式に頼る大人の多くは私に言わせれば「失格者」なのです。

物事の本質から遠ざかりわざと見ないようにしている輩なのです。

経済的な失格者もいれば、家庭の失格者、教育の失格者色々です。どれも共通するのは己が失格者と理解していないことです。

以前にも現代は自己愛過剰社会だと指摘した事があります。

私の周りにも不妊治療に悩む夫婦も多く、こうした人には酷なのですが、一般的に子供を育てるということはこの自己愛にブレーキをかけざるえません。結果、自己愛以上に大切なものを理解します。

こうしたことで大人が大人になっていくのではないかとも感じられます。

自己責任を取らない大人達の多くは自己愛過剰者です。そうした人しか組織に残れないようであれば先生の指摘するようにこの国も沈みゆく国なのです。

今真に必要なのは多様性と柔軟性です。硬直した日本社会に誰か鉄槌を加えてほしいと願うばかりです・・・・

閑話休題

NHKの番組でオリンパスの飛ばし問題を指南したと言われる人達が映っていました。彼らは自分たちの行為が悪かったなどと思っていません。逆にやりすぎたから逮捕されたんだと反省するどころか、居直っています。

しかし、顔が宜しくない。金の亡者は顔に現れるというがそのとおり。誰しもその形相でした。

私もまだ山一証券が健在だった頃、後輩に株を勧められお付き合いした事があります。

結果、損失を出したのですが、株は儲かる時もあれば損をする時もあるのだから自己責任です。後輩を恨んだことなどありません。ただ、悲しいのはその後その後輩が二度と私の所にやってくる事の無かった事と、そうした行為を当たり前として営業していたその会社そのものです。

娘の勤めている会社は社員に生徒を集めさせます。生徒が集まらないとその先生の責任となり社員から嘱託社員にさせられるような会社です。娘もその事は分かっていても性分からか無理に生徒を集めようとはしません。私はそれで良いとも思っています。

こうした会社が長続きする道理がありません。顧客ロイヤルティの究極の質問とは何だかご存じですか?それはその企業や製品を自分の一番親しい人に勧められるかというものなのです。

そんな企業勧められるわけがありませんから・・・・





2012年7月12日木曜日

戦前の国家構造と思想 平賀粛学

平賀粛学という言葉をご存じの方は政治学、行政学の興味をお持ちの方と見受けられますが、読んで字のごとく東京大学総長である平賀氏が喧嘩両成敗の信条にて左派と右派の両教授を教授会の了承も得す゛独断で辞職させた事に端を発する大量辞任劇のことです。

以前にも書きましたが、戦前の国家思想と言うのはともすると全体主義一本やりのように思われますが、農本主義、社会民主主義など多くの思想的発展がみられるのです。

例えば蝋山政道という政治行政学者がいました。彼は上段の平賀粛学に抵抗して同学を辞しています。彼の子供は多く、その一人の道雄は私の大学の名誉教授でもあり、子だくさんゆえ左から右まで多くの論客を配し、私はその真ん中と冗談まじりに話していたとも聴きます。

こうした戦前の思想を振り返ると国民とマスコミの視点と、これらの学者や官僚の視点がずれている事に驚かされます。

学者や政治家のほとんどは日米開戦には消極的でした。それが何故圧倒的国民の声として戦争に向かう羽目になったのかを鳥肌の立つような気持で時代の流れを感じずにはいられません。

どこかの政治家が国民の幸せが一番と言うまさに戦前のデマゴーグのような政党を立ち上げました。

国民に委ねることが如何に危険か、そしてそのようなポプュリズムに呼応するマスコミの破廉恥さを彼らは知る由もありません。

アカデミズムが自尊と権威を失った今、私達の真のリーダーはどこに存在するのでしょう。

国会の論戦を聴いていても何一つハッと驚かされるような発言はありません。官僚や秘書の書いたシナリオを読んでいるだけの感です・・・・・・・・・・

2012年7月7日土曜日

4つの親業

誰かが言っていました。人間は生まれてくる事は選べないけど、死ぬことは選べると。同じようなことがネイティブインディアンの格言にもあるらしいことを最近知った。

テレビのニュースに出てくる虐待死させた親の話や、パチンコに夢中になって車内に置き去りにした子供が死亡する事件の多くの親たちは生物学的に言っても親失格である。

生物は自らのDNAを後世に伝える役目を負っている。そのためなら、自らの命を顧みないほどこの生命の連鎖は高尚なものなのだ。

子供は父親、母親両方の遺伝子を受け継ぐ。どちらか一方ということはありえない。たとえ姿形が母親そっくりでも、父親の面影を見ることはできる。子供を見れば親が分かる喩えどおり。

私には一男一女の子供がいる。それぞれ自分の好きなようにやらせている。ただそのつもりでも親の影響を受けていないかといえば嘘になる。

私は子供たちに決めた事が二つある。それは私たちの持つ政治心情や宗教を子供に共有させないというものだ。この二つは小さな子供であればあるほどその後の人生に影響を与える。良い影響も悪い影響もあるであろうが、私は子供たちにこの2点においてはできる限りニュートラルであって欲しいと思っているからだ。

安藤忠雄氏の話を持ち出していかに子供を「リリース」することが大切なのか語ったこともあるのだから、一応は子離れのその大切さも知っている。でも、中々、多くの親がそうであるように「割り切れない」ものなのである。

子供を一人の人格として扱え、ごもっともなお話である。ただ、子供は子供である。私が100歳になって子供が50歳を過ぎても子供は子供なのである。

親業には4段階あるらしい。第一段階は子供におっぱいを飲ませている時期。そして第二段階は子供が成長しながら社会性を身につける時期。第三段階は子供が実社会に出て色々な経験をつむ時期。そして第四段階は子供が家を出て、新しい家族を作る時期だそうだ。

そう第四段階でも親業は親業なのだ。ただ、それ以前の親業とは違う親業であることは確かだが、親子の縁は切れない。そういうことなのだと思う。

みなさんちゃんと親業やっていますか???

2012年7月6日金曜日

自由について とある若者との会話から

何気ない会話の中で私が20代後半と思しき若者に「自由とは何だろうね」と私が独り言のようにつぶやいたら、若者はすかさず「決まってるじゃないですか。自分を変えることです」と胸を張って言い返してきた。私は下を向きながら「そうだね」とボソッと答えたが、心の中に遠くの春雷の音がこだましていた。

もちろん若者の答えも正しいと思う。ただ、「自由」とはそんな簡単なものでは無い気もする。

私の祖母は満州からの引き揚げの時に弾丸が顔のすぐ近くをかすめ、命からがらに逃げて来た。その時に祖母はどうか普通の生活が出来るようにと願ったそうだ。

ある雑誌のコラムにフランス人の俳優でもありプロデューサーのピエール・パルーのコラムが載っていた。彼はクロード・ルルーシュ監督の「男と女」にも御亭主役で出演していた。トランディニァンのことは皆さんもご存じだろうが、この人の事は案外知らない。この人の父親や母親はトルコ系ユダヤ人で、それは大変な苦労をしてヨーロッパを遍歴しながら彼らを育てたのである。彼はその父親たちの「自由」と私の「自由」そして娘の「自由」はそれぞれ違い、同じものではないと言っていた。

私も彼の意見に賛同する。そして最後に彼は当たり前の自由は人を不自由にするのではないかと締めくくっていた。

私も含めて生まれながらにして自由が当たり前のようにこの国には存在する。自由が奪われるなどと言う事は微塵もないと考えることもしない。

学校は教える。自由は権利であると。若者が自由を無限大の大きさに解釈し考えるのも無理からぬ話である。

権利の行使できない社会において、自由とは何なのか世界中を見渡せばいくらでもある。そうした国の人に「自分を変える」と言ってもピンとこないだろう。その世界にはその世界の自由がそんざいするのだから。

魚の話





我が家にはこの手の魚の本があと4.5冊はある。中でも東海大学出版会から出ている南日本の沿岸魚を取り上げた魚類図鑑は愛読書である。

なんで魚にそんなに興味があるのかと言えば、生まれ育った家のすぐ後ろに渡良瀬川が流れていて、子供の頃の遊びはもっぱら川遊びだったからかもしれない。

当時の渡良瀬川の水質は悪く、生活用水は垂れ流されていた。そんな汚れた水質でも6月のある一日(特異日)にはハヤ(うぐい)が浅瀬にやって来て一斉に散乱する様や、大雨の後に大きな鯉や亀が浅場に取り残される姿を見ていたので魚に触れる機会が多かったのである。

片や食べる方になると、当時の輸送事情を鑑がみてもわかるように新鮮な海の幸は口に入らなかったのである。刺身と言えばせいぜい、まぐろでそれもとても上等な代物とは言い難いものだった。

東京に出てきて叔父が始めて食べさせてくれた江戸前の寿司の美味しかった事は今でも忘れられない。それほど当時の地方は新鮮な魚がなかったのである。

では川魚はと聞かれれば、確かに清流にはイワナや山女もいたが、いつも遊んでいた川の汚れのせいか、魚を取って食べるという気はしなかった。

魚の中で好きな魚と聞かれれば、私は断然「櫨」である。私の大先輩にして私の釣りの師匠でもあり、ハゼの美味しさを教えてくれたKさんに感謝申し上げたい。こんなに美味しい魚がこんな近くにいることを教えてくれたのだ。

ハゼはまず天麩羅、これも最初は塩で食すのが良い。そして大きめが釣れたなら刺身にする。透明な身はやわらかく、臭みもなく最高の食感である。旬のハゼならうっすらと醤油に油が浮くはずだ。また、肝も良い。胆を醤油にまぶして刺身を戴けば、カワハギのそれより高尚でオツな味がすること請け合いである。

ハゼに近い味がするものに、ねずみごちがいる。通称、ネズッポ。ぬめぬめしているのでヌメリゴチともいうが味はハゼに劣る。

魚と言うのは獲れる場所や時期によっても美味しさが違う。ブランドになった関アジもそうであるように、鎌倉周辺でも特に腰越で捕れるアジは最高である。どうも海底の地形や潮流にも関係するらしい。

このところ不漁続きのシラスがやっと獲れるようになってきたと聞く。3月の漁が始まってから3カ月不漁が続いた。このシラスも獲れる場所によって味が異なる。太平洋沿岸では色々な場所でこのシラスは獲れるようだが、私の経験則によれば材木座のシラスは抜群である。もっとも、料理屋や魚屋に並ぶものでは駄目だ。シラス漁師のところに直接買いに出掛け、今取れたばかりの物を買うのである。

買ってきたらとにかく冷たい流水で良く洗う。雑菌を繁殖させないためだ。そして出来る限り早く食す。

生姜醤油の定番以外にも、胡麻油と卵であえて熱いご飯にかければ至福の一杯の出来あがりである。考えていたら朝から無性に食べたくなった。お腹がギュゥーと音がしはじめたのでお仕舞いにしよう。


2012年7月5日木曜日

ヒッグス粒子

名付け親のヒッグス博士も出席しても祝典となったCERNであったが、確かに歴史的快挙であることは間違いない。ただ、マスコミの取り上げ方がやや少ないと思ったのは、この発見が今すぐ何かの役に立つか分からないため、マスコミの特性ゆえ仕方のない事であろう。まあずっと先になって世紀の大発見というものは評価されるのだから。

40歳を過ぎるまでまで素粒子物理学、いや素粒子が何ぞやなどと考えた事も無かった。



我々が教わった物質の最小単位は何せ原子でしたから(笑)その私がたまたまこのレオン・レーダーマンの著書を読んでその世界の広がりにある種の哲学的命題も感じて本を買い増していった。




もっとも、思いっきり文系脳の私が難しい式を理解できるわけでもないのだが、「そういう世界」があることを知るのである。

話はそれるが、歳をとってからの勉強と言うのはそれでいいと思うのだ。「そういう世界」があると知る事が大切なんだと思っている。

ヒッグス粒子の仮説はこの宇宙全体を構成する素粒子の骨格を決定している。この粒子の存在がないとすれば現在のインフレーション宇宙論は成り立たないであろうし、物質そのものの成り立ちさえ説明できない。

私には冷やされたからヒッグス粒子が誕生したのか、それともヒッグス粒子が存在したから冷やされたのか分からないが、この二つの要素は宇宙生成の大切な要素であることは間違いない。

大昔の宇宙論はこの宇宙をエーテルのようなものが満たしていると説いたのはアリストテレスであり、デカルトであり、ニュートンでもある。そのエーテルの正体が徐々に分かり始めたのである。

私達は二つの宇宙を持っている、この銀河系のように星空を覆う広大な宇宙、そして内なる宇宙である。どちらも決して人知の及ぶものではではないが、人類は必死にその一部でも解明したいと努力を続ける。これこそ人類の知識欲である。

七夕も近い。星空を見上げてそんな宇宙の事を考えてみては如何だろう。国民に媚を売ったふざけた名前を拵えた政治家達の姿よりずっとずっと深遠だと思うのだが・・・・


2012年7月4日水曜日

鶏と同じ 昨日の事は

今回のO沢さんの離党劇にさすがのマスコミも「もうだまされないぞ」という強硬な論調も目立ちます。

そもそもO沢氏がこれまで言ってきたことや、自らが幹事長として剛腕を振るった結果、思うような結果が残せず、時の総理が交替していった事を考えれば、氏の責任こそ重いのです。

消費税増税前にやれることがあるでしょというけれど、やって結果が残せなかったのはあなたですよ。

当時のマスコミはR女性議員を先鋒にこれとばかりに無駄を省くジェスチャーを大々的に宣伝していたではありませんか。でも結果はどうですか。

大震災は天災です。誰も止める事はできなかったのです。問題はそのような国難を経験した今、この国の将来をどうするかです。

もちろん消費税増税が得策だとは思っていません。今の経済を成長させなければこの程度の増税では砂にこぼした水のようにあっという間に枯渇してしまいます。

しかし、それでもO氏のいうような先送り論に国民はもういいよと言っているのではないでしょうか。

大震災の復興プランもなんとなく大きなビジョンが見えません。国が壊滅的被害を受けた地域を今までと同じような箱もの的考えで再建しようとしている愚挙しか見当たりません。

バラバラに切断された地域のネットワークを再建し、国民の希望となるような政策を実施する行動力が求められているのです。

マスコミは戦前のような同じ過ちを犯してはなりません。このことを肝に銘じ、国民に正しい情報を偏りなく流す事を心掛ける必要があるのです。

そうO氏の政治はもはや旧い政治なのですから・・・・

2012年7月3日火曜日

井上寿一 橘考三郎




皆さんは井上寿一氏をご存じでしょうか?

私は前出の戦前日本のグローバリズムを読んで、中々、良く調べてあり、事実に基づく考察とそれに伴う特に中国に対しての戦前の日本が抱いていた思想が垣間見えて面白かったので、急遽、後段の「戦前の国家思想」を発注しました(今日届く予定です)

この人は私より数歳年上の学習院大学の教授です。

この頃の日本思想史と題する読み物(著作とは言い難いもの)はその多くが、無責任と無秩序により戦争を引き起こしたという資料に基づかない勝手な論調が目立ちますが、氏は断じてそうではなく、かの東条さえ最後まで真剣に悩んでいたと書いています。(史実による検証)

さらに皆さん、橘孝三郎という人を知っていますか。立花隆氏の親戚にあたる方なのですが、私は丸山眞男が「似非インテリゲンチャア」と酷評したことで覚えているのですが、5.15事件で変電所襲撃を行い、逮捕された経歴をもつ、農本主義者、反国家主義者とレッテルを貼られている人です。

氏はこの橘孝三郎にも言及しており、戦後の政治システムが何故、国家主義、全体主義へと突き進んでいったかという現実を当時現に存在していた議会制民主主義、社会主義、農本主義らの崩壊と引き換えに台頭したと論じているのです。

そしてその陰には「国民総意」をもたらしたマスコミの責任も挙げています。

すでに何回も申し上げ通り、今の政治家は「民意」「民意」とコンセンサスを求めたがります。

石橋湛山や吉田茂のように、己の信じる事を軽々に口にせず、実行をもって為す政治家は少なくなっています。

先日のデモを見ていて、戦前のマスコミが「民意」に訴えて、理想主義である軍国主義に突き進んだ愚挙を思い起こしたのは私だけではないはずです。

とにかく戦前、戦中の日本についてほとんどが戦争と言う二文字で語られてしまっている訳ですが、もう少し何故そうなったのか考えるためにも是非、氏の著作をお勧めします。

2012年7月2日月曜日

下流社会VS第四の消費

三浦展氏の「第四の消費」(朝日新書)が版を重ねて好調のようですが、昨日、その前書の「下流社会」を思い起こす出来ごとがありました。

娘が用事で都筑阪急に行くと言うので車を出すといつもはスイスイの道が大渋滞、わずかな距離なのに30分も掛りました。

そして今度はその娘をピックアップしてララポートへ、ここでも周辺の道路は大渋滞です。

聞いて見るとバーゲンが始まるらしいのです。

まわりの車を見るとほとんど同じような小型の銀色の車です。ハイブリッドも多く見かけました。

以前、バーゲンを仕掛ける方にいた事もあり、私は安さの秘密を知ってからバーゲンにはほとんど行きませんからこんな光景を見ることも久しかった訳です。

最近、「第四の消費」を読む前にも震災後の人的ネットワークや若い人たちの生き生きした話を聞きながら、彼らなりの新しい消費スタイルが定着していると嬉しく思っていた矢先の事だったので、やや失意の年を禁じませんでした。

これじゃ誰かが言っていた物が売れないんじゃなくて、買えないんですよ。つまり、プロパーで買い物する余力が無いのです。

三浦氏が言うまでもなく、この青葉区は東京に通勤する人たちのベッドタウン、ニュータウンです。

そのニュータウンへの人口流入はいまだ止まりません。止まらないというより、より多くの階層の人達が住むようになったのです。

今までは少数で目立たなかったものが、数の拡大につれ目に留まるようになった訳です。

いやいや違うよ、それはショッピングを楽しんでいるんだよと言う向きの方はこれ以上読まなくて結構です。

少なくとも1.時間も駐車場の列に並んで、混雑するショッピングセンターで商品を獲り合いながら買い物することは私の価値観にはありません。

例え5万円もらってもまっぴらです。

大切な日曜に1時間無駄にしただけでも腹ただしいのに、折角、ビーチパラソル用のプロ用アンカー(笑)を作ろうと思っていたのに・・・

まあ、人は色々です。三浦氏が言っていたように新しい価値観を持つ若者もいれば、劇場化するマスコミに踊らされるポビュリストもいる、そうかと思えば単身(子供と)限界集落に乗りこみ、地域ネットワークとの関わりを模索しようとする若者もいる・・・・様々な訳ですね・・・・


閑話休題

弊社のA女史にこの現象を聞くと、普段つまりバーゲン前から欲しい商品を品定めし、バーゲンになったら購入し、さらにバーゲンの後半にもう一度値段が下がるのを待って買い足す、かしこい買い方なのだそうです。なるほどマメなんですね!!

でも何だか無駄が無い気がします。無駄って本当は売る側にも買う側にも必要なんだと思うのですが・・・・



2012年7月1日日曜日

シマノ電動VSカンパニョーロ電動



ここでロードバイクの話題をひとつ。ツールでも電動の変速機が数チームに見られますが、シマノの電動は出始めの年には使用もままならないトラブルが多かったと聞きます(材木座の某ショップのオーナーがいち早く買ってこのコメントを聞きました)

一方、カンパニョーロの電動は今予約受付中とのことですが、数年前より試行を繰り返していたと聞きます。

車でいうならエンジンから電気自動車への変革とは少し違う、そうです。マニュアルからオートマに変わっていったあの変化を思い出します。最初はマニュアルが良いと肩ひじ張って威張っていてもオートマの楽さにはあがなうことは出来ず、ほとんどオートマ車になりました。

きっといつかは電動になるんだと思います。ただし、今のところシマノはギア一つ帰るたびに一回押さなければならず、素早い変速はパチンコの早押しのようにしなければなりません。

カンパは押し続ければ変速するのでもう少しましですが、それでもカンパの特有の一段飛びは無理のようです。

今のところ私のカンパは綺麗にスムーズに変速します。引っかかることもギアから外れることもありませんので何一つ不満はありません。

ラグドフレームはほぼ無くなった今、数少ないラグドフレームを手に入れるか、モノコックに替えるか(モノコックも乗っていたんだけどね)迷います。

こうしているうちにも歳をとり、ロードの俊敏な動きにもついていけなくなるのかも知れませんが、いつも新しいものを見ていることは良いことだと思います。

先日も丘の上の自転車屋さんOさんで今のラインナップ(ウィリエール、コルナゴ、タイム、ルック、カレラ、その他)にもう少し加えたいというのでした。私の意見を聞かれたのでトレックは例の専門店があるし、ジャイアントは色々なブランドのOEMをやっているのでこれも良いし、さらにアンカーはパーソナルフィッティングもやっているので予算は少なくても本格的にレースをやろうとしている人には良いかもしれないと申し上げました(個人的にはアンカーレーシングの西園選手応援しています)

脚の靭帯も昨日、結構踏みましたが、大丈夫でした。7kmを53kmは無理でも2kmなら47kmで行けます。(笑)結構脚に自信が付いてきました。

50歳を過ぎてもやりたいことが山ほどあります。サーフィン、ロードバイクこの二つで今の時間を取り合っている気がします。とてもとてもゴルフに向ける時間がありません。仕方ありません、体は一つですから・・笑