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2010年7月22日木曜日

英語の公用語化

日本ではR天やユニ**など大手企業の中にも英語を公用語にするといっている会社があります。

それはそれで好きにすれば良いのでしょうが、私は「不同意」なだけです。

先般、友人が会社監査役で「SBのS氏もRのM氏もみてきたけどM氏はダメだね、S氏にくらべれば全然・」と話していたことをつい思い出しました。

そもそも中学からある科目の中で、英語のみが実学なんです。もちろん大工さんになった人には図工も実学だと主張されそうですが、大方の人間にとって他の科目は実学ではなく、土台な訳です。

このあたりは「日本辺境論」の著作でも有名な内田 樹先生がご意見を書かれているので是非ご参考下さい。

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内田先生のブログ 英語嫌いを作る方法



電話取材で英語社内公用語論についてコメントを求められる。


必ず失敗するだろうと予言する。

英語を社内公用語にするということは、英語運用能力と年収や地位の相関性が高まるということである。

とりあえず英語ができない人間は、どれほど仕事ができても、幹部には登用されない。なにしろ会議に出ても、みんなが何を話しているのかわからないんだから。

そのような人々は会社を移らざるを得ない。

「仕事はできるが英語はできない」という人間を排除して、「仕事はできないが英語はできる」という人間を残した企業がそれによってアクティヴィティを高めるであろうという見通しに私は与さない。

現に、英語運用能力と「報償」の相関をダイレクトなものにしたことによって、日本人の英語運用能力の劣化は生じたと私は考えている。
現在の日本の大学生の英語運用能力の劣化は著しい。

大学新入生の過半は中学三年生程度の英語力に届かない。

たぶん現在、日本の大学入学生の半数近くは中学二年程度の文法知識さえ持っていない。

これは個別の英語教師の教育力の問題ではなく、現在の英語教育が構造的に「英語嫌い」を作り出していると考える方が合理的である。

英語は中学校で教えられる教科の中で、もっともその実用性・有用性が確かな教科である。

英語ができる子どもとできない子どもでは、中学生の段階ですでに将来の年収に大きな差が出ることが高い確度で予測される。

そのような教科は他には存在しない。

因数分解ができなくても、古文が苦手でも、跳び箱が飛べなくても、料理が作れなくても、それによって、これができる人間と「将来年収に大きな差がつくだろう」という予測を立てる中学生はいない。

けれども、英語だけは別である。

英語は、それが「できる子ども」と「できない子ども」の間で、将来の学歴や年収に有意な差がつくことが予測される唯一の教科である。

ちゃんとやれば「いいこと」があり、やらなければ「よくないこと」が起こる。

そのような「有用性の高い教科」に対する学習の動機づけが、他の教科に比してむしろ弱いという事実はどうやって説明できるのか。

私はこれまでも繰り返し、学びにおいては「努力と報酬の相関」を示してはならないと書いてきた。
これだけ努力すると、これだけ「いいこと」があるよというふうに事前に努力と報酬の相関を開示してしまうと、子どもたちの学びへの動機づけは歴然と損なわれる。
学びというのは、「謎」によって喚起されるものだからだ。

自分の手持ちの度量衡では、その意味も有用性も考量しがたい「知」への欲望が学びを起動させる。

中学で教えるすべての教科の中で、英語は唯一例外的に「その意味も有用性も、中学生にもわかるように開示されている」教科である。

そのような教科の学習意欲がきわだって低い。

これを「おかしい」と思う人はいなかったのだろうか。

ほとんどの子どもたちは中学生二三年の段階で、英語学習への意欲を、取り返しのつかないほどに深く損なわれている。

なぜ、その理由を誰も問わないままにすませてきたのか。

英語力が低下していると聴いた政治家や教育評論家や役人は、「では英語ができる人間への報酬をさらに増額し、英語ができない人間へのペナルティをさらに過酷なものにしよう」という「carrot and stick」戦略の強化しか思いつかなかった。

それによって子どもたちの英語嫌いはさらに亢進した。

日本の子どもたちの英語力はそのようにして確実に低下してきたのである。

どこかで、この悪循環を停止させねばならない。

というときに、英語を社内公用語にするというのは、「努力と報酬の相関」をさらに可視化し、さらに強化することである。

子どもたちへの「英語をちゃんと勉強しないと、将来路頭に迷うことになるぞ」というアナウンスメントはさらに低年齢化し、さらに脅迫的な口調のものになるだろう。

そして、ますます英語嫌いの子どもたちが増えてゆく。

日本の中学高校の英語科教員たちは、これ以上英語嫌いの子どもを増やさないためにも、「英語の社内公用語化反対」の声明を発表すべきだろうと私は思う。

どうすれば子どもたちが「英語好き」になるか。

それを考えて欲しい。

自分が子どもだったときのことを思い出せば、その処方はだれにもわかるはずだ。

それを学ぶことによって、幼児的なものの見方から抜け出して、風通しのよい、ひろびろとした場所に出られるという期待が人をして学びへと誘うのである。

「それを勉強することで、あなたは努力と報酬が相関し、能力と年収が精密に対応する雇用関係にはめ込まれることになるでしょう」と予告されて、嬉々として勉強する子どもがどこにいるだろう。

いかがですか慧眼です。昨年退職され現在東大の教養学部にて学士としての入学を待ちながら、専攻科目を履修している私の犬友でもあるRパパが「英語がうますぎるのは信用できない・・・・」と言っていたのを思い出しました。彼はアメリカの大学に「英語」の留学経験もあり、そこでは英語とパフォーマンスがいかにアメリカ社会で大切かを知っている人でもあります。そんな彼の言葉でした。ということは英語が旨い人はわざと隠さなければならない!!!なるほど難儀な世の中であります。



麹町一番町 祖母の思いで

母方の祖母が亡くなって10年になります。娘も息子も祖母が大好きでした。もちろん兄弟のいない私は東京から祖母が来ると聞くと、待ち遠しくて指折り数えて待っていました。

祖母は決まって浅草の松屋デパートの舟屋で芋ようかんとあんこ玉、それに大きなお好み焼きを買ってきてくれるのでした。

そかな祖母は訛りがありませんでした。考えてみれば祖母は赤職人(銅の職人)の祖父と麹町一番町で暮らしていたといいますから、江戸っ子だったのです。

家作はもちろん借家です。

戦争で祖父を兵役に取られ、自らは3人の子供と共に満州に渡り、ソビエト兵の銃撃に合いながらも命からがら全員無事に帰国したのですからその労苦は大変なものです。私も妻も何十回もこの話は聞かされました(笑)

そんなこんなで祖母はいつも穏やかでした。怒る事なんか見た事がありません。

しかし、その江戸っこのように潔い言葉の中に、前述の武田百合子さんの文章ではありませんが、日本刀のような切れ味の鋭く、何事にも同じない気位、物事への鋭い洞察を感じることがありました。

今更ながらこういう大人が少なくなったことが嘆かわしいことです。

秋口になったら八王子まで墓参にいくつもりです。祖母の好きな水色の花を持って・・・・・

小川洋子 博士の本棚


妊娠カレンダー」で芥川賞、「薬指の標本」、「ブラフマンの埋葬」で泉鏡花文学賞、さらには日本で寺尾聡さん主演で映画になった「博士の愛した数式」と今や日本の文学界の大御所となった小川洋子さんです。

私より数歳若いのですがまあほぼ同年齢ということです。

昨日、インテリア関係の書籍を探しにあざみ野にある本屋さんに行ったのですが、お目当てのものはなく、いつもの「みすず書棚」が夏休ということもあってか、「数学の特集」になっていました。

平積みしてある本はほとんど持っているものばかりで、その中にこの小川洋子さんの「博士の愛した数式」の隣に「博士の本棚」というエッセイが置いてありました。

パラパラとめくるとそこは彼女の流れるような筆致、購入しました。

彼女のエッセイの中に武田百合子さんが書いた「言葉の食卓」という章がありました。この本はつい最近読んだばかりです。

その章で彼女は「一行一行に独自の世界が隠れている。百枚の小説でも描ききれないものが、日常のスケッチに封じ込められている。しかもご本人にはちっとも力んだところがない。ありふれた質素な言葉たちを、素っ気なく吐き出していくだけだ。ところが、指先からこぼれ落ちたとたん、それらの言葉たちは今まで一度も見た事のない種類の光を放ち始める。そして、現実の向こう側を照らす」(博士の本棚 新潮文庫より)

と表現しているのです。まったくそのとおりです。膝をつい打ちたくなりました。読書を通じて全くの他人と共感できる(共感したと勘違いできる)ことは読書の喜びでもあります。それが文学界の大御所となれば尚更です。


富士日記」にしても武田百合子さんのその所作は一見無鉄砲であっけらかんとしています。しかし、ふとする言葉は物事の本質を鋭くえぐり、毒づくことさえあります。

この本は夏休みのプールサイドに持っていきます。入道雲の下で冷たいダイキリでも飲みながら、ヘミングウェイと小川洋子さんのこの本をめくることを楽しみにします。

そうそう雑誌ニューヨーカーに小説が掲載されたのは日本人ではこの小川洋子さんを含めて3人しかいないそうです。あと二人は?

村上春樹氏と大江健三郎氏とのことです・・・・・・・