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2014年4月15日火曜日

演繹的経営

今日、立川にIKEAがオープンする。公共交通機関を利用して来店できる店だそうである。ご存知のように同店は過去一度出店したが上手くいかず撤退した。私など当時その店で扱っていた雲の絵のマリメッコのタペストリーを今でも覚えている。
十数年前に私はある人から頼まれて家具店のマーケットを分析したことがある。当時の家具店というのは一人のお客に専属の販売員がつき、その客の要望を聞きながら商品を説明しながら、最終的に希望する商品をメーカーに発注し、その仲を取り持つような完全オーダーメイドの家具店がほとんどであって、人件費と固定コストのものすごく掛かるビジネスだった。
ちょうどその頃、大学の同期で同じ会社に就職した人物がフランフランというインテリアショップを立ち上げた。彼は大変有能な人物でマーケットに欠けているものをいち早く見つけることが出来た。インテリアショップとはいうもののそれは雑貨店であり、雑貨店の中に家具も置かれている店だった。もちろんコンセプトはデザイン性である。これが消費者に受け入れられ、あれよ、あれよという間に人口に膾炙された。
私はそれを観て、家具店の方向性を感じた。誰もが難しいだろうと言っていた目黒通りに家具店が雨後の筍のごとく乱立していった様は記憶に新しい。
春からレジデントとなり一人暮らしをした息子が家具を選ぶ際に面白いことを言っていた。「ニトリならいいけどイケアは嫌」ずっと心のなかで私はこの言葉が気に掛かっていた。
イケアの経営は「よりよい生活を、より多くの人に」という一つの命題の演繹的戦略である。店舗を大型化することも、シーン別の配置も、予備の部品数を減らし、組み立てや運搬のコストを抑制することもその命題への回答にほかならない。
しかし、これだけならニトリも同じである。そこにもうひとつの命題「よりよい生活」が重なってくる。イケアにとってのより良い生活とは何であろう。私はサイードのオリエンタリズムが思い浮かんだ。結局、自身の文化性を尊重しているに過ぎないのではないか。事実、中東のある国でカタログに掲載された女性を宗教的理由で抹消したとイケアの本国では批判されたようであるから、私の幻想だけとは言えまい。
そうした理念の経営は大規模な資本による経営とは結びつかないと私は考えている。全く別の話しであるが日本でコンビニチェーンがこれだけ発達したのはコンビニチェーンが理念の経営とは全く別の存在だからだ。彼らは多様性に対応するために画一的商品を供給する。一見矛盾するその戦略こそが彼らの強みなのだ。
理念の経営はそうは出来ない。あくまで演繹的に導き出されるその商品の賞味期限は有限でコンビニのように簡単に廃棄し、作り変えることが出来ない。
私にはどうしても道長の歌が思い出されてならない。

「この世をば わが世とぞ思う もち月の かけたることも なしと思えば」