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2012年11月29日木曜日

排骨麵 横浜中華街「三和楼」 渋谷「チャーリー」


排骨麺 横浜中華街「三和楼」渋谷「チャーリー」

排骨麺を食べることは滅多にない。何故ならぶらりと立ち寄った店で美味しい排骨麺と出くわしたことがないからだ。つい無難なチャーハンや野菜炒めを頼んでしまう。

すでに閉店して数年が経つが、渋谷の公園通りから細い路地を入ったところに「チャーリー」はあった。ここには多い時には週2.3回のペースで来ていたこともある。いつも頼むのは「トンミン」と日替わりの定食、日替わりの定食は日によって異なるが豆腐と筍の五目のうま煮だったりするものがご飯の上にたっぷりと掛けられていた。それを二人で半分にする。元祖シェアである。ここの麺類はスープの中に具材を入れて供さない。茹でたホウレンソウと葱とすりおろしにんにく、そしてこの「トンミン」が別の皿で盛られてくる。ここのスープは本格的中華料理のそれである。どこまでも透明な所謂「湯」と言われるものだ。清湯、上湯などと作り方の違いで呼び方も異なる。ここのスープはあっさりしているのに奥が深い。その中に細めのストレート麺が程良い量(若い時には多少物足りない位控えめな)だった。そこに揚げたての「トンミン」が産湯をつかるように投入され口に運ばれるのである。淡清なスープにカレー味の効かせた排骨がマッチして得も言われぬ旨さだ。ここは排骨を使ってはいたが、骨は取り除いてあった。だから、どんぶりの底には何一つ残らなかった。

昨年、鎌倉のある老舗中華料理店で一時期、排骨麺を提供していた。最初に食べた時、チャーリーを髣髴させるスープと排骨に驚き喜んでいたが、2度目に食した時には麺は伸び、排骨はバラバラに切られ、もはや排骨麺とよべる代物ではなかった。それ以来メニューからも無くなった。

中華街でも多くの店で排骨麺を提供している。贔屓の杭州料理店の「三和楼」のそれは値段が850円なれど群を抜いて美味しい。排骨の旨さもさることながらチャーリーと同じく丁寧に出汁をとったスープが奥深い。ここに来たら私は必ずこの排骨麺を注文する。

ちなみにこの三和楼が休みの日に別の店でこの排骨麺を注文した。値段も高く、伸びた麺と揚げてから時間の経った排骨の不味いことこの上なしであった。排骨麺の排骨だけは揚げたてでなければ美味しくない。天使が産湯に入るには薹が立っていては駄目なように・・・


2012年11月28日水曜日

1981年ノゴーストライダー Ⅺ



洋一は霊南坂の教会の前に立っていた。この教会はあと数年で建て替えられると聞くが、洋一には建て替えられた後の教会の姿を想像することが出来なかった。

世の中には変わっていいものと変わってはいけないものがあると洋一は感じていた。この教会は後者である。この教会の古びた赤レンガや歪んだステンドグラスが真新しいものに代えられたとしても、この教会を超えることは永久に出来ない。歴史の中に凝縮された事実は時として実体を凌駕する。

優子はしばらく遅れて到着した。今日、優子の親友の結婚式がここで行われる。時刻は11時を迎えようとしていた。その友人は洋一も良く知っており、三人で一緒に食事に行ったこともあった。彼女は笑うと八重歯の可愛い細身の女性だった。彼女の髪の毛は幾分カールして襟もとで跳ねあげられていたが、今日のウェディングドレスを着た彼女のそれは念入りに延ばされ巻毛の後は痕跡さえなかった。

しばらくして新郎と思しき人物がタクシーを降りてきた。彼女が勤務先で知り合った彼はアイルランド出身の外国人だった。外国人といっても背丈は洋一とそう変わらなく、瞳もアジア人のそれのように黒かった。ただ、肌の色はあきらかに白く青みを帯びていたのと、まだ20代なのに黒髪にグレーの髪の毛が混ざっていた。

結婚式は予定通り行われた。洋一は心の中で映画「卒業」でダスティンホフマン演じる青年が新婦を奪いに来るシーン想像していた。洋一はあの映画を見た後にずっと気にかかっていることがあった。二人はあのまま車に乗って脳天気に笑いながらフェードアウトしていったが、残された新郎や家族はどうなったのだろうとずっと気にしていたのだ。世の中にはあちら側とこちら側がある。あの映画は青年の視点で見ればハッピーエンドに終わるが別の視点からすると悲劇である。人間と言うのは予定調和を図りたがるが、予定調和の裏側にはこうした悲喜こもごもの愛憎劇が日の目を見ずに隠されているのだと思うと結婚式の歓声や拍手も白々しく感じた。

結婚式にはそんな青年は現れることなく、まさに予定調和として行われた。色の付いていないステンドグラスから散り残ったプラタナスの落ち葉が太陽に照らされて輝いていた。
 
 

村上春樹にご用心 Ⅲ

世の中には村上春樹なんて大嫌いという人もいるだろう、確かに私の周りにも数人いる。

しかしながらざっと見渡せは大好きかどうかは別として本を読んだことのある人の方がずっと多いのではあるまいか。それも一冊ではなく数冊読んだと言う人が。

私の場合にはとにかく気にかかるのである。この気にかかるというところが問題であって、彼の本で読んだことのない本があれば必死に探し求めて、読後に妙な安心感を覚える。

私は以前もある評論家がヘミングウェイを「漁師が小説家になったものだ」と切り捨てたその論評に対して、お門違いであると断言した。

何故なら小説は全てその作家の経験なくしては生まれないからである。ヘミングウェイの醍醐味は彼の筆致がアフリカのサバンナの詳細やキューバ沖で必死に格闘するカジキの姿をまるでそこにいるように臨場感を持って再体験させるからだ。

村上春樹は「回転木馬のデッド・ヒート」の冒頭でこんなことを書いている。

「僕が小説を書こうとするとき、僕はあらゆる現実的なマテリアル・・・・・そういうものがもしあればということだが・・・・・を大きな鍋にいっしょに放り込んで原形が認められなくなるまでに溶解し、しかるのちにそれを適当なかたちにちぎって使用する。小説と言うものはおおかれ少なかれそういうものである。パン屋のリアリティはパンの中に存在するのであって、小麦粉の中にある訳ではない。
以下省略・・・」

私はこの部分を赤線を引いていつでも取り出せるようにしている。物を書くときの基本だからだ。

ならば誰でもできるかと言うとそうではない。経験を積んだら素晴らしい文章が書けるかと言えばそれも違う。

私も若い頃、村上氏が通っていたバーラジオで飲んでいた。しかし、同じ経験をしても彼が視ていたものはまるで別の物だった。いや、視ていた対象は同じだったのだか、頭の中で組み合わされる要素が全く違っていたのだ。

例えばそのバーでウイスキーと共にクリーム・ブリュレが供されたとしよう。

クリーム・ブリュレはご存じのとおりカラメルを焦がしたお菓子である。強いお酒との相性は良いだろうからとそんな事しか頭に思い描けないのが普通の人である。

しかし普通でない人はこのクリーム・ブリュレはフランスの食べ物であるか結構昔からイギリスでも食べられていたと知っているのである。

さらにもっと普通でない人はイギリスでは「トリニティ・クリーム(Trinity Cream)や「ケンブリッジ・バーント・クリーム」(Cambridge burnt cream)とも呼ばれ特に前者はケンブリッジのトリニティスクールで食べられていたという説もあるということも知っているのだ。

因みにこのケンブリッジ=Cambride はジュラ紀や白亜紀とならぶカンブリア紀の語源でもある。

話は脱線したがそういうことなのである。リアリティとは私達が心の中にすっと受け入れる土壌を持っているのだ。土壌と言うのはいささか違うかもしれない。別の言い方をすれば物語がすっと私達に寄り添うことのできる触媒なのだ。

1Q84に出てくる西陽の部屋のベランダに出されている植物はゴムの木でなければならない。名前のない観葉植物やアジャンタムや幸福の木ではお話にならないのだ。

むろんそれだけではない。彼のかきまぜるその容器の大きい事、どんなマテリアルを入れても一杯にならない無限の桶のように深遠なのだ。それをじっくりパラバラに良くかき混ぜ完全に溶解させる・・・だから私はまた読みたくなのだ。フィクションと言う名のリアリティを・・・

2012年11月27日火曜日

シュウマイ 焼売 お初天神 阿み彦


シュウマイ お初天神「阿み彦」
私は関西人が苦手である。こんな事をいうと関東の田舎もんが何言うてんねん、こっちの方が都だったと叱責を受けるであろうが、一人の時はまだしも関西人が集まった時のあの騒々しさが苦手なのである。鉄砲か機関銃か分からないが、頭の上で次々に交わされる会話の嵐が眩暈を起こさせるのである。
しかしながら食べ物となれば話は別である。お好み焼きや串揚げはもちろんのこと、黒門市場の近くで食べたふぐは東京の半値であの身の厚さである。寒い時期には定期券を買ってでも通いたくなる。これほんと。
横浜に住んでいると中華街が近いこともあり、美味しい中華にありつける。全国に名を馳せるシューマイの崎洋軒はどこのキオスクでも買えるが、ホタテの身を入れたシューマイ弁当は忙しい新幹線の中での朝食の定番である。
都内にもシューマイの美味しい店はある。友人がこっそり教えてくれた丸の内の「小洞天」のシューマイ定食はなるほどと唸る逸品である。何故唸るかと言えば、丁度いいのだ。このシューマイとご飯の量が丁度いいバランスでお昼の空腹を満たす。お昼は満腹になりすぎても午後の仕事のやる気がでない。そう、このバランスこそがサラリーマンの昼食の要点ではあるまいか。
そこへいくとお初天神の「阿み彦」のシューマイはお昼と言うより、仕事を終えて家路に向かうそんな少し前に、さっと暖簾をくぐってビールでこのシュウマイを食す。そんな場面がぴったりなのだ。もちろんこの場合のビールは瓶ビール。ここのシューマイは揚げシューマイが有名だが、蒸したものも提供している。池波正太郎も愛したここのシューマイどうしても手に入れたいが大阪まで行けないと言う人は電話をすれば送ってくれる。便利な世の中になったものだ。
朝食のお弁当箱に大きなシューマイが入っていた。このぎっしりとした肉の感じは磯子カントリーのシュウマイである。もちろん箸が一番先に延びたのは言うまでもない。
 
 
 

 

2012年11月26日月曜日

Daiquri


Daiquri ダイキリ

乾いた石段に日差しが容赦なく照りつけていた。茶褐色をした石段の角は丸まっていて、なだらかに港まで続いている。ときおり魚網を頭にのせた女性たちが通り過ぎるくらいで人通りはまばらだ。階段の途中に小さな踊り場がある。踊り場の横の家には上げ下げ式の鎧戸のついた緑色した木製の窓があった。窓のペンキはみごとに剥げ落ちそして傾いていた。

部屋の中は戸外の明るさのためか全く見えない。猫はその窓枠で気持ちよさそうに午後の昼寝を楽しんでいるようだった。

どこからともなくトロンボーンの音が聞こえる。遠くでかき鳴らされた楽器の音が青い空と白い雲に吸い込まれていく。

石段を登り切るとそこは旧市街だ。石で造られた建物はいずれも旧く指で数えながら階数を確認できる。どの建物も青い空と白い雲そして茶褐色をした道路と一体となって融け込んでいるのに看板だけが夜になると異様な光を見せる。看板に配されたネオン管はスペイン語よりも英語の方が多い。壊れていて光らないものや曲がって書かれているものがほとんどである。ネオン管は時折ジッジッという音を立てて点いたり消えたりしていた。

旧市街の通りに目をやると、半世紀はタイムスリップしたような車が当たり前のように走っている。そう広くない歩道に点在するように街路樹が植えられ、人々はそこでつかの間の休息を取っている。赤と黄色の縞模様の木綿のワンピースを着た恰幅のいい黒人女性がその樹の下で幼い女の子の靴紐を直していた。

この国は奇跡の国である。ある一方のイデオロギーが急激に大きく膨張をしようとすると、それを膨張させまいとする反作用を起こすイデオロギーが生まれる。最初は拮抗していたそれらであるがほんの少しでもバランスが崩れると一方は消滅してしまう。そして残ったものはエーテルのように実体をもたない軽い気体。意外にもその残滓たるものは郁福として豊醸である。

この海でクジラは子供を産み育てる。食べ物は少ないが敵から襲われることのないゆりかごのような海。クジラはここで体力と知力を備えて地球を回遊する一生の旅を始める。

クジラにとってのすべての原点がこの海。

老人が言っていた。クジラは人間の化身だと。クジラの寿命は50年である。少し前の人間も同じようなものだったが最近は長く生きすぎると老人はつぶやく。人間が死ぬと一度クジラになりそしてまた人間に化わるのだと。くじらの目を見てみるといい。老人の言葉が胸に刺さる。

歩きすぎた脚をいたわるように薄暗い店のカウンターに腰を下ろす。その店には戦う美女神の名前が付いていた。カウンターはマホガニーで出来た重厚なものだったが、時の年月に皺と滲みを増やしていた。椅子の足置きにつま先をちょこんと掛けて、フローズンダイキリを頼む。甘くないものを頼む時はパパスタイルというそうであるが、かの文豪がこよなく愛したこの店でそう口に出すことは憚られた。グラスにはラムメーカーの文字が記されている。運ばれてきたグラスから水滴がしたたり落ちる。ライムの香りが鼻をつき、冷剌なる液体がのどを通る時に戸外からパレードの音が聞こえた。
 
 

 

イカに請う

50年以上生きていてもハッとさせられる事があります。

人間の脳と言うのはこれが当たり前だと決めてかかる節があります。

例えば日本の国旗をイメージして下さい。風はどちらから吹いていますか?

ほとんどの人は無意識に左から右、つまり国旗は右にたなびいていると感じるのではないでしょうか。

これは私達に某国営放送のテレビの終わり際に流れる映像が頭にこびり付いているからだと思います。

アンカーリング効果そのものです。

ではイカの頭はどこでしょう?

魚類や水産学を履修した人以外はほとんどがあの三角の部分を考えるのではないでしょうか。

ところがイカの生態を実際に見てみると、私達が足とよんでいる部分は足どころかとても器用な動きをしますし、獲物の魚においでおいでをしたり、掴みかかったりとても足と呼べる代物ではありません。

足だったら、伝説の格闘戦である猪木対アリのように足ではチョッカイを出すのがやっとのはずです。

そうこう考えるとイカは私達がイメージしていた容=カタチでは無かったのかもしれません。

物事にはこういう側面がついてまわります。私達は頭の中で色々なものを定型化していきます。そしてほとんどの物が分かりやすく分類分別できるようにひとつづに標準化されシールを貼られていくのです。

選挙間近の各党の言い分をそれだけ聞いているとどの党もなるほどと思う部分とこれはうそくさいなと思う部分があります。

しかしながら私達が間違ってシールを張って標準化していたら、それは間違った方向に進んでしまうのは至極当たり前なのです。

もう一度標準化されたものを見なおしてみましょう。原発、TPP、日米安全保障、憲法改正問題、財政支出と経済政策、福祉と年金、消費税、脱官僚社会、尖閣や竹島問題、北方領土・・・・国民にそれぞれ標準化されるべき問題なのです・・・

2012年11月24日土曜日

クリームソーダ 鎌倉 門

いつの頃だろうか喫茶店に行かなくなった。いや正確には喫茶店というものが少なくなってあぶれてしまったのかもしれない。

どこの駅前にもあるチェーン店の出す珈琲は私が求めていた珈琲ではない。

高校生になる前に珈琲に凝っていた。近くに珈琲の豆を好きな量だけ炒ってくれる店があった。

豆に合わせて濃く煎る場合もそうでない場合も天候や温度に応じて仕事をしてくれた。

サイフォンもネルドリップも試した。サイフォンが温められコーヒー豆に水分が行きわたり、むくむくと膨らむ姿を見るのが好きだった。

それ以来、珈琲に無頓着を決めている。

鎌倉の小町通りに「門」という喫茶店がある。本当にたまに出かける。

ここのブレンドコーヒーは私が飲んでいた昔の味がする。もちろん珈琲を注文することが大半だが、もう一つの楽しみがある。

それはクリームソーダだ。

運ばれてくる緑色の液体のグラスの底から小さな泡がふつふつと湧きあがってくる。

泡は天井に押し込められた巨大な雲によって出口を塞がれ、雲に吸い込まれていく。

クリームソーダを飲みながら、小町通りを歩く人を見る。

私の密かな楽しみ。

歳の頃にして20歳前後のカップルが旅行ガイドを手に小町通りの店を指さしながら歩いている。

女性は今はやりの山ガールの格好をしている。けれども靴を見るとそれらしくない普通のアディダスのスニーカーを履いている。

男性は彼女とは歳の離れた長身の男性でザックの背負い方や履いているニッカポッカーと靴の組み合わせからアウトドアに精通しているヴェテランの姿だ。

男性が彼女に双眼鏡を渡して何やら説明をしている。指さしている方向に目をやると数十羽の大きな鳥が高い空を旋回していた。

こんな街中で彼らはバードウォッチングを楽しんでいる。

彼らが通り過ぎた後、色々な人がこの通りを往来する。クリームソーダのバニラアイスはかろうじてその姿を残すものの、緑の液体と一体となってグラスの中に溶けてしまう。



2012年11月23日金曜日

端正な螺子

夢を見た。脈絡のない夢でもそれは暗示に満ちている。

場面は初夏の海岸。美しい女性は私より一回り以上若い。

女性の顔は逆光で見えない。ただ、ぼんやり大きな麦わら帽子を被ったそのシルエットが浮かび上がる。友人の書いた水彩画の女性だ。

場面は変わってどこかの家のリビング、私の大学のクラスメートの家のようである。無論行ったこともないので想像なのだが。

クラスメートは彼の妻と話し合いをしている。彼はこの女性と一緒になる気らしい。

場面は変わる。町の小さな螺子工場。直径10センチはあろうかと思う雄螺子に工員が油まみれの手で雌螺子を付けている。

無理にねじ込んだのかそのまま動かなくなった。親方と思しき初老の男性がこういう。

「端正な螺子ほど一度曲がってしまったらもう使い物にならない。丁寧に丁寧に扱わなければならないのさ・・・」

目が覚めた。仕事も家庭もこの螺子と同じか・・・時間をかけ大切に築き上げたものほど壊れやすい。傲慢と横暴は言わずもがな、無頓着も崩壊への序章かもしれない・・・丁寧に丁寧に扱う・・・

静謐に満ちた夜のしじまでそう思う・・・・・・

2012年11月22日木曜日

Schneewächte


Schneewächte
橋本は冬山の支度を終え最後にもう一度荷物の点検をしながら、小学校の時、母と父と3人で登ったアルプスでの登山を思い浮かべていた。
 
橋本は高校の時から登山を始めた。もっとも山好きの教員であった父のお陰で小学校の低学年から日本中の夏山を登っていた。小学校を卒業するころには登った山の数はアメリカの州の数を上回っていた。橋本にはそのほとんどが過去の記憶となって断片のみがかろうじて存在するのだが、珍しく残照が結節をもって繋がる記憶があった。それが母も参加したある年のアルプスを登山した記憶だった。母膝を痛めたこともあり父との登山にはほとんど参加しなかった。母は家で専ら橋本と父の話を聞く係だった。そんな母が行きたいと唯一言ったのはその夏のアルプスの登山だった。何故母が行きたいと言ったのか今になっては真相を知る由もないが、途中にある地名が母の名前と同じ紀美子だったからなのかそれとも単なる気の迷いか分からない。たぶんにそれは聞き役だった母が自分の目で確かめてみたいという、生きていることへの挑戦でもあり欲求であったのかもしれない。
一家は上高地から梓川を上流に向け歩いて行った。橋本はある程度高い山ならどこの山でもある一定のところからがらっと植物の相が変わることを知っていた。専門用語ではこれを限界森林と呼ぶそうであるが、ここも同様だった。暫くは雑草と笹に覆われていた登山道が急に明るくなる、木々がそれまでと彰かに異なったものに変わる。さらに稜線を登るとそれまで登山者を覆っていたその植物さえ視界から離れ背の低い這松だらけになる。
父は母と山で出会ったといっていた。父の最初の言葉「よい天気ですね」だったらしい。母はその言葉を聞いた時に今にも雨が降りそうで下山の支度をしている最中に変な事を言う人がいると思ったそうである。結局、その日雲は北に流れて雨は降らずに太陽と並走する下山になったようだ。
その山登りは母の体調を気遣いながら進められた。母の前には槍ヶ岳がくっきりと姿を現し遠くには立山も見えた。
上高地にあるそのホテルは、父がここは山男には分不相応といっていつもは目もくれなかったものである。そのホテルに父が急に3人で泊ろうと言いだしたことが橋本には驚きだった。今でも実家には大きなマントルピースの前で少し顔を赤らめた母と父が橋本が仲良く映っている写真が飾られていた。
母が亡くなったのは翌年の11月だった。悪性の腫瘍と診断された3か月後だった。
 
橋本は胸騒ぎを感じていた。先月登った時にもルートの途中にある雪庇がふだんの2倍ほどの大きさになっており、いつ稜線から雪崩が起きるかもわからないと地元のガイドが心配そうに言っていたからだ。高校からの山仲間の隆三と恵子は合計4人のパーティでその同じコースを2日前からトラバースしていた。橋本は仕事の都合がつかず出遅れていたが、出掛けの恵子の電話が気になっていた。出掛けにアイゼンの歯が欠けたのだと言うのだ。鋼鉄製のアイゼンは滅多なことでは壊れない。何ともなければ良いがと胸騒ぎを一端、心の奥の方に畳みこんでザックを背負った。
 
 
 
 
 
 

原理的な人

巷には原理的な人が多くなった気がする。丸山眞男が「古層」で述べた日本人の意識は高度経済成長と自由と平等の毒薬を徐々に飲まされ変容してしまったのか、それともその宿瘂を引きずりながら今もなお成長し続けているのだろうか。

原理的という言葉はよく耳にする。しかし、原則的とどこが違うのだろうか、いや根っこは同じだと思う。

つまり、物事への柔軟性がないのだ。そして白黒をはっきりつけたがる。

原発廃止、原発存続そういう類である。

原発事故の時に多くの母親が子供を原発から遠くに避難させたり、食べ物に異常なほどに気を使うようになった。子供を守る母親として当然と言われればそれまでだが、その内の何人が原発や放射能の事を理解していたのだろう。

つまり彼女らの多くは、こうあるべきという原則を打ち出している。いや、原理かもしれない。

その原理の前では如何なる理論的説明も説得も用をなさない。

原理に置いて行動する人ほどやっかいなものはない。

ここまでくると丸山眞男の言葉を思い出す。「潔きことを重んずる日本人」である。彼はいう、「潔きこと」の前ではすべての論理的説明は太刀打ちできない。

日本が戦争(太平洋戦争)に突入した原因は軍部の独走とそれを止められなかった政治の責任ということをよく耳にするが、先般読んだ書籍にはこれにも増して国民の中に「潔きことをしよう」という感情が突き動かしたと記されていた。

この「潔きこと」を望む日本人が増えれば、原理が全ての論理や関係性を打ち消し、一人で盲目に歩いていかなければ良いがと思う今日である。

カツカレー


カツカレー 恵比寿 山田ラーメン

カツカレーはカツ+カレーと思っている人はもう一度初等科で基礎勉強されることをお薦めする。カツカレーは一つの食べ物である。間違ってもカツとカレーの間に句読点を付けるべきではない。そんなことしたら折角の美味しさが半減どころか無くなってしまうのだ。私は無性にカツカレーが食べたくなる。カツカレーは家で食べることはまずない。いや絶対に食べないと断言しておこう。もしこの禁苦を破ったならば皆さんの前でひれ伏せてカツカレーの神様にお詫び申し上げることにしよう。
 カツカレーのカレーはカツカレーのカレーでなければならない。巷ではこのカレーの事をルウと呼ぶそうだが、ルウはルウである。カレーではない。そもそもカツカレーのルウは小麦粉で延ばされた優しい味を纏わなければならない。香辛料の効いた外国臭いルウは禁物である。あくまでカレーはcarreyではなく、カレーなのである。
 一方、カツが問題である。普段はヒレかつを好む私もこの場合にはロースかつでなければならない。ヒレかつのカツカレーなど言語道断、お茶の子さいさいである。
 そしてもうひとつこのカツは揚げたてでなければならない。冷めていたらもう全てが台無しである。いわよくば揚げたてのカツにカレーがじゅるじゅると音を立てて供されるものが最上である。
 私は恵比寿に長いこといた。恵比寿はご存知の通り下町なのである。駒沢通りはオリンピックの時に拡張され、それまで走っていた路面電車はなくなり、涼しい顔した街並みに姿を変えた感もあるが、どっこい今でも街並みのあちこちに看板建築も残り下町風情を探すことが出来る。
 私のいた事務所の斜め前に山田ラーメンなる店がある。赤い暖簾に札幌西山製麺特製ラーメンと記されている。もちろんラーメンは特有の腰があり、旨いのだが、私はここのカツカレーが大好物である。この店は寡黙なご主人が一人で切り盛りしている。手伝うのは家族と思しき人たちが総出で客をあしらう。決して媚びるでも尊大でもなく、ちゃきちゃきと客をさばくのだ。しかしである。
 もしあなたがここで必ず食したいと思うなら相当の覚悟が必要だ。何しろ昼間の2時間半しか店が開いてないのである。司法試験を受けるご仁が運だめしのつもりでここで食すと言うからお分かりいただけるかと思うが、そのぐらい難関なのである。狙い目と言えば11時半の暖簾が掛けられるのと同時に入るのが賢明である。もちろん今日もそうした訳である。あふれんばかりのキャベツを落とさずにカレーと混ぜながら綺麗に食べることが出来たならばあなたは既に上級者の仲間入りだ。
 
 私が支払いを済まそうと席を立つと見たことがある人が入ってきた。もちろん相手は私のことを知らない。駒沢通りに黒塗りのフーガを待たせて一人で入ってきた人はミスタービーンに似ているが眼光の鋭いルノーの人だった。彼は座るや否やカツカレーを注文した。

私は目の前の皿をみながら口元から笑みがこぼれた。



2012年11月21日水曜日

オニオングラタンスープ 代官山シェ・アヅマ


オニオングラタンスープ シェ・アヅマ

寒い時期には誰もが暖かいスープを求める。東海岸ならボストン風のクラムチャウダーがいい。南部に行ったならばオクラのたっぷり入ったカンボスープか。犬友のK井ご婦人のつくるそれは素晴らしい。一家はニューオリンズで暮らしていたというから味は本場仕込みで黒人たちの労苦まで織り交ぜて深い味になっているようだ。私にとってはタンシチュー同様、これを食さないと年が越せないそんな代物である。

私が初めてオニオングラタンスープを食したのは1987年の11月の土曜日だった。

この日のことは今でも良く覚えている。何故なら翌日大韓航空機が日本赤軍にハイジャックされ一面この報道で埋め尽くされていたからだ。

車で134号線を松波を右折し逗子に向かった。逗子の渚橋のファミレスで少し早目の昼食をとることにした。その時、生まれて初めてオニオングラタンスープを頼んだ。スープにはパンが切って落とされてその上にチーズが溶けている。器も熱々になっていた。

人生において食べる機会のなかったものというのがある。私の場合、食べることは生命の維持を図ることが第一目的であり、その他の物はずっと後になってついてくる。オニオングラタンスープもそんな仲間だった。

一口飲んで体中の細胞に滋味が行き渡ることが実感できた。寒さで縮こまっていた細胞が復活するように。それ以来、美味しいオニオングラタンスープを探し求めている。

事務所からほど近い並木橋の袂(これが袂という言葉がぴったりの場所)にシェ・アヅマがある。シェフは鉄人にも出演していたベテラン料理人である。席数のそう多くない店内はいつも美味しい逸品を求める老若男女で犇めいている。

私はビストロが好きである。レストランとは違うビストロである。辻静雄氏の著作にはビストロの語源はコサックの兵隊がパリの料理屋で「すばやく済ます」という意味が転じて呼ばれるようになったと書いてあったと記憶する。(当時は外で食事することは禁止されていた)だからビストロの料理はだらだらと遅いのでは困る。皿数もそう多い必要はない。ただし、念入りの仕込みが肝要である。鴨のコンフィに至っては食材と火入れの妙が大きくものをいうし、子羊のナヴァランは丁寧な下処理が大切である。断っておくがもしあなたがこの店で子羊のナヴァランがメニューにあったならば(いつもあるわけではない)迷わず注文することをお薦めする。私の少ない経験ではあるがここのナヴァラン程バランスのとれた逸品は食べたことがない。至福の極みである。

話はオニオングラタンスープに戻そう。ここのそれはまさに看板メニューである。客のほとんどが頼むと言っても過言ではあるまい。オニオングラタンスープといえばただ長くオニオンを調理すればいいのかと言われればそうではない。きちんとしたタイミングで鍋からオープンに移し玉ねぎの甘みを生かしながら調理する。経験がものをいう料理なのだ。

今日も熱々のスープを口に運ぶ。口福とはまさにこの一瞬である。熱チィ・・・しかし火傷必至である・・・・・・・・。我が家は暫く寿司屋でお節を注文していた。しかし、ある年のお節は冷蔵庫に入れていたのだが元旦までもたなかった。それ以来、その寿司屋には行っていない。今年はここシェ・アヅマにお節を注文することにしよう・・・
 


 

拘泥と束縛

30年近く会社の代表をやっていると色々な人に出会います。

そんな経験からある経験則を持つようになりました。

それは私の人を見る基準とでもいいましょうか、まあ、ほとんど外れないのであります。

困った人たちの第一は個人商店なのに大企業病の抜けきらない経営者です。

こうした人のほとんどが大学を卒業して実家の家業と関連性のある業種の大企業に就職して、実家に戻り後を継ぐ人達です。

もちろんそうでない人もいますから、全てが全てと言う訳ではありませんが、個人経営の中に大企業のシステムをそのまま使おうとしている人達です。

私は60人以下の会社は全て個人商店だと思っています。何故、60人かって?それは従業員の仔細を詳しく理解するにはその人数程度が限度だからです。それ以上の場合には個人商店とは呼べませんので今回は論外です。

こうした人の共通点は従業員と自分は違うという特別な意識を持っています。そしてそれは経営者と従業員に垣根を作り、結果、会社は円滑に進まなくなります。

もうひとつ困った事にこうした人達は何かの劣等感を持っており、それに拘泥するあまり的確な判断が出来ない病に陥っている事です。

今放映しているキムタク主演のプライスレスというドラマでも、社長(藤木直人)がキムタクに強烈なライバル心=劣等感を持っているためにあり得ないようなミスジャッジをしています。

それと同じように自分に何かが欠けているという意識が知らず知らずのうちにそれを埋めるような判断をしている訳です。

自分が効率的な判断をしていると思っている人がいたら大間違いです。人間万事塞翁が馬、禍福は糾える縄のごとし、思うようになることの方が少ないのです。それに効率的って何を持って言うのでしょう。

出来る限りそうした閉塞的意識による物事の拘泥や束縛を解き放つことこそ、未来に向けた一歩なのですが中々いないんですよね・・・残念ながら・・・

2012年11月20日火曜日

Oscar Emmanuel Peterson オスカー・E・ピーターソン

ジャズファンてなくてもオスカーピーターソンの名前は聞いたことがあるだろう。

代表曲「酒とバラの日々」は名曲である。彼は超絶技巧で有名でもあり演奏には全ての鍵番を使ったとも言われている。それにより「鍵番の皇帝」の異名をとった。いやはや大そうな名前である。

今や国産ピアノメーカーに吸収されてしまったが、かの有名なベーゼンドルファーを愛用していた。

ジャズピアニストでは珍しいかもしれない。

彼のアルバムをいくつも持っているが、1980年代に発表された一つのアルバムがある。

それがこの「night chaild」

私はレコードを持っていたが引越しの時になくしてしまった。

それ以来CDになるのを待っていた。

しばらく前にやっとCD化されたので購入した。

アルバムはそんなに長くはない。実験的な試みとして電子ピアノで演奏している。それが今聞いても古くない。

真夜中にこのCDを聴くと、夜のしじまにすうーっと吸い込まれて行く。そんなアルバム・・・

嫌いなはずがなかろう・・・・・






1981年のゴーストライダー Ⅹ



優子の父親は50歳を少し過ぎた物静かな男だった。若い時はラクビー部の主将を務めた程のスポーツマンでその体躯はがっしりしていて背広を着ていなければサラリーマンとは思えない容姿だった。父親は金融機関に勤めていたが、金融機関というのはもっぱら「早上がり」と呼ばれるように定年よりもずっと前に本体の金融機関の子会社など出向させられることが多い。優子の父もご多分にもれず、その金融機関の融資先の建設会社に出向させられていた。この建設会社はバブルのころは海外のリゾート開発を進めるなど大きく手を広げたものの、その後は多額の負債を抱え複数の金融機関主導により再建中の建設会社であった。

洋一は優子の家の居間の時計に目をやった。その時計の針は秒間をチッチッと音をたてスキップしている。クオーツ式の時計だ。洋一はこの手の時計を見るたびに連続した時間を無理やり分断し、無理やり繋ぎ合せ自分の生きているこの世界とは違う世界を再構築されている気が落ち着かない。時間が連続しなくなったならばそれは何を意味するのだろうか。

洋一は得も言われぬ恐怖を感じた。

しばらくすると玄関のチャイムが鳴り、父親が帰ってきた。洋一は自分の家に帰るのに何故チャイムを鳴らすのか分からなかった。しかし、その儀式が外界と内界を結ぶ儀式の一つだと知ったのはずっと後のことだった。

父親が着替えに二階に上がっていると、母親が料理の準備を始めた。洋一に向かって「お腹空いたでしょう?何か飲む?」と優しく話しかけてきた。

 優子の母親は父親より一つ年上のいわゆる姉さん女房というやつである。趣味のテニスのせいか一年中日に焼けているのは優子と似ていた。ショートヘアでいつも小綺麗にしていてとてもその歳には見えなかった。洋一にはいつも優しかった。

 洋一は母親にお父さんが席に着くまでは飲み物を遠慮するとやんわり断りながら、居間に飾られた家族の写真を眺めていた。その写真はどこかに旅行に行った時のもののようだった。家族4人がお決まりのピースサインをして笑っている。優子はまだ小学生だ。父親も若い。写真の後ろに岩肌と煙の様なものが見えたが、山の形が以前写真で見た外輪山にそっくりだったのでその場所は阿蘇かもしれない。

 もう一枚の写真には洋一が見たこともない人が写っていた。ずっと年上のその一は女性だった。着物を着ている。洋一は着物について詳しくはなかったが、その着物が高級品である事は分かった。その着物は浅黄色をしていて微妙な光沢があった。凛としたその女性の目鼻立ちは優子に似ていた。洋一は優子から聞いていた祖母のことを思い出した。脚が悪くなる前は茶道の師匠をしていてお弟子さんも多く抱えていたと聞いたことがあった。

その証拠に優子の家には今では物置になってしまった茶室がある。炉は閉じられ使われなくなってしまったが、その室礼は紛れもなく茶室である。

 父親が二階から降りてきた。父親は洋一に軽く手を挙げ何か飲むかと尋ねた。洋一は自分が車で来ていることを告げ遠慮したが、父親は一杯だけならと言って琥珀色のビールの栓を抜いた。テーブルには母親が作ったと思われる料理がところ狭し並べられていた。洋一が好物といったハンバーグはいつもの通りだが、今日はそれに海老フライ、ポテトサラダ、お刺身、ローストビーフそれに父親が大好きな枝豆が添えられていた。

 父親は洋一のグラスにビールを注いだ。泡が多くなりすぎて調整しようとしたが旨く出来ず、結局、泡だらけの白いグラスで乾杯した。父親は左手に枝豆を5.6本持ちながら器用に豆を口に入れ、ビールを流し込むように飲んでいた。突然「今日の豆は塩気が足らんな」といひとり言のようにつぶやいた。母親は「塩分の取りすぎは体に良くないらしわよ、このくらいでいいのよ」と相手を見るわけでもなく、料理の飾り付けをなおしながら会話している。こうしたときに優子は会話に加わらない。今日もテーブルに置かれた新聞の広告を眺めていた。

 父親は上機嫌だった。いつにもなく饒舌だった。優子の家族は洋一の就職活動が一段落し、内定をもらったことを知っていた。今日はその内祝いのようなものかもしれない。1週間前から今日は開けておくように優子に言われていたのだ。

 母親の作るハンバーグ本当に美味しい。この味ならお店が開けるのではと思うほど美味しいハンバーグである。普通のハンバーグのように鉄板で焼いたものではなく、一度焼いたハンバーグをスープの中で煮込むのだ。和風と洋風があって和風は醤油ベーススープに大根おろしが添えられている。洋風はトマトスープにブーケガルニで香りづけしてある。洋一はどちらも好きだった。

 父親は洋一と話す度に笑顔を見せるがその笑顔はどことなく寂しそうだった。優子は洋一と同じ年齢だが一浪しているので学年は一つ下である。来年、4年生になる優子であるが今はアルバイトを時折しながら、家から学校に通っていた。学校はお茶ノ水にあり、優子の家からは時間が掛った。優子は出来るだけ授業をまとめた日に受けるように工夫し、だから学校に行かない日はほぼ丸一日スケジュールは空いていた。

 食事が終わり、父親と洋一はテーブルからソファに場所を移した。父親はテレビを付け、チャンネルを巨人対阪神の試合が行われているプロ野球にセットした。父親の出身地は兵庫県の夙川である。もちろん熱烈な阪神ファンである。洋一は阪神ファンではなかったがアンチ巨人という点では一致していた。
 
 
 

餃子 アムールの虎


餃子 アムールの虎

餃子は我が家では定番メニューである。何故なら、我が家の餃子より美味しい餃子はそうそうないからである。とまあ空威張りしても食べて見なければ分からないのは当然といえば当然である。

私の父は中国語を流暢に話した。話している言語は北京語だそうである。父は戦前、大陸に長いこと暮らしたようである。家には5.6人の家政婦がいたというからそれ相当な暮らしぶりだったようだ。軍の関係の仕事もやっていたようで、ドイツのルガーという細身の拳銃も所持していたというから、危ない仕事だったのかもしれない。臨終の床に就きながら父は紛れもなくアムールの虎を見ていた。それが父の輝かしい記憶だったのだろう。

父は私が幼い頃、時折、料理を作ってくれた。

当時私が住んでいた街では今のように中華料理に使う専門の調味料など手に入らなかった。父は有り合わせの物を使って工夫して作っていたようだった。

よく作る料理はジャージャー麺、豚挽き肉と牛蒡の炒め物、そして餃子だった。ジャージャー麺にいたっては手にいれにくい中華麺を使わずにどこでも売っているうどんで作る。もっとも我が家では今でもジャージャー麺はうどんと決まっている。

牛蒡の炒め物はものすごい量を作って食した。あちらでは年末にこの料理を食べて腸をすっきりさせて新年を迎えるとか言っていたが、確かにお腹の具合はすこぶる快調になる。

 父が作ってくれた餃子はにんにくを入れず韮を沢山いれたものだった。豚肉と椎茸、キャベツに韮のシンプルなものである。キャベツは茹でずにそのまま入れていた。それを母親と私がせっせと包んでいくのだった。

今の我が家の餃子は大分アレンジされた。まず、キャベツは茹でてよく水を絞る。春雨と筍も加える。韮はいれるがにんにくは入れない。あとは下味をつけていく。

我が家では餃子といえば100個以上作る。餃子の日は餃子しか食べないのだ。軽くご飯一膳程度空けておくつもりでも餃子でお腹いっぱいになってしまうのだ。

宇都宮だの浜松だのご当地餃子花盛りであるが、未だに我が家の餃子を上回る餃子を食したことがない。もしかしたら、我が家ではDNAの中に餃子DNAなるものが組み込まれ、その味でないと味憶の中枢が覚醒しないのかもしれない。

娘から妻にメールが来た。餃子を作って送れという指示である。妻は早速、冷凍品を入れるタッパウェアを調達し、餃子皮を5袋と材料を買いに走った。娘と旦那とお腹の子にDNAを送るためである。
 
少し焦げ過ぎた感の歪めないのは私が本にうつつを抜かしたからである。それにしても旨い・・・ビールはもう4本目か・・・・・
 
 
 
 
 

 

2012年11月19日月曜日

猫とピッコロ


猫とピッコロ

空港の2階のブリッジから1階のコンコースを眺めていた。スーツケースを引きながら多くの人影が無秩序でかつ規則的な動きをして最後は吸い込まれていく、幾千万の人々の人生がこの入口に吸い込まれていく。それぞれ異なった幾千万の命が。
 
 憲三は時計を気にしていた。予定していたバスに乗り遅れたと礼子からメールを受けたからだ。礼子と憲三はある会社の新社屋落成式で出会った。3か月前のことである。礼子はそこで来賓者の受付をしていた。憲三はその会社の取引先だった。取引先といっても憲三のデザイン会社は個人経営に毛の生えた程度の小さな会社であったが、何故か相手先の宣伝部の部長に気に入られていた。憲三は大学で建築を専攻していたが、途中からグラフィックデザインに興味を持ち、大学院は映像とグラフィックの研究をするようになった。卒業後、一人でヨーロッパに留学し、そこで勉強をした。憲三が帰国する年に出品した作品がイタリアの著名なコンクールで優秀賞を獲得し、この世界では少しは名の通ったデザイナーとなっていた。

着慣れないスーツとネクタイの憲三が受付で会社名と名前を告げるが、胸に付けるプレートが見つからない。受付だった礼子はどこかに紛れていないかバックヤードを隈なく探したが見つからない、上に下に必死に忙しく動き回る礼子を見て憲三は吹き出しそうになったが堪えていた。やっとのことで上司に確認をとり結局手書きでプレートを作ることになった。名刺を見ながら白い紙に手書きで名前は書かれた。礼子の手書きの文字は決して達筆と呼べる代物ではなかったが、どこか可愛くて憎めないものだった。

つまらないスピーチは憲三にとってどうでもいいものであった。帰りがけにプレートを受け取ろうとする礼子に憲三は「記念だからもらっておくね」と伝えると礼子はきょとんとした顔であっけにとられていた。

憲三と礼子が偶然再会したのは、お茶ノ水にある喫茶店だった。クライアントと約束をしている憲三の斜め前に宇治金時を食べている女性がいた。その女性はノースリーブの少しくすんだレモンイエローのワンピースを着ていた。となりの椅子の上にはKと書かれた紺色の皮のハンドバッグが置かれていた。憲三はそれが礼子とは思わなかった。受付の礼子は紺色の制服に白いブラウスで女性の華やかさをわざと封印したような堅苦しさと人見知りだといわんばかりのオーラを放っていたからだ。憲三は声を掛けた、礼子は一瞬躊躇ったが、その顔はわずかに紅潮し、礼子の前に座ることをすでに許可していた。

憲三と礼子が深い関係になるには時間は掛らなかった。憲三には妻と二人の娘がいた。憲三は娘を可愛がっていた。妻に言われるままにピアノやダンスに通わせていたが、それが本当に子供にとって良いことだと思っている訳ではない、ただ、妻の機嫌がそうしていれば良いことを知っているからだった。妻は憲三より3つ年上だ。結婚するまで証券会社に勤めていてお金の管理にはうるさい。近頃ではネットで個人投資も始めたようだが憲三にはどうでもよかった。

憲三と礼子はベッドに寝転びながら、天井の茶色い滲みを見つめていた。

礼子が突然、「とても蒸し暑いところに行きたい。ねえ、ただ暑いだけじゃ駄目なの、とても息苦しいくらいに蒸し暑いところに行きたいの、だからハワイや南の島は駄目、人熱れのするような場所がいいの」憲三は礼子の可笑しな考えに同調するには時間が掛ったが今の自分の事を思うと満更でもない選択の様な気がしていた。

 

太郎はトイレに行った父親の鞄の横に座っていた。父親の鞄はアメリカ製のハートマン社のもので上質な皮を使ったものだった。父親は出張の度にこの大きな鞄を2つも3つも持って出かけるのが常だったが今回はさらに荷物が増えている。太一は小学校5年生だった。横浜市内の小中高の一貫校に通っていたが、今年の5月より学校には行っていない。

いわゆる不登校というやつだ。不登校と一言で片づけてしまえば簡単であるが、それぞれに理由があるものだ。そう他人から見れば些細でつまらない理由が。

太一の両親の折り合いが悪くなったのは今に始まった事ではない。妻の両親の敷地の一部に住宅を新築した頃から夫婦間はぎくしゃくしていた。ただ、このところその関係はもはや修復出来ないものになっていた。離婚調停は形式的に進められた。そして成立した。父親は法律事務所の共同代表をしている。案件は国際的なものが多く、その訴訟額はべらぼうな金額なものが多い。父親は経済的には恵まれていた。日本では虎ノ門に事務所を持っていたが、同時にニューヨークにも事務所を持っていて生活のほぼ7割が海外だった。

調停では子供の親権は母親に譲った。しかし、母親の申し出により太一は父が引き取ることにした。母親には恋人がいた。

太一が不登校となった理由はこの両親の問題もあるが、もっと根深いものがあった。それは太一が可愛がっていた猫の死である。太一が小さな頃から可愛がっていたその猫は太一以外には慣れなかった。ある日、母親の恋人が家に来た時に驚いたその猫は相手に向かって攻撃したのだ。とっさに脚で払おうとしたものの、運悪く脚が猫のお腹に命中してしまった。しばらくは何もなかったがその夜猫は死んでしまった。母親は太一に泣いて許しを求めたが、太一の心は氷の中に閉じこもってしまった。

父親がトイレから出てきた。シャツの襟を気にしながら太一の方に歩いてくる。 

隆三はこの空港に30年通い続けた。もちろん他の空港にも同じように降り立つことはあったが、この空港だけは特別だった。隆三の最後のフライトが今日なのだ。

航空会社も以前のようにパイロットだからといって往復ハイヤーということはない、フライトの時間等では車のこともあるが、昼間の時間だと公共交通機関を使うように言われている。隆三が乗る飛行機は747という機体と777だ。パイロットは全ての飛行機を操縦しているように思えるが、機器が増え、またそれぞれの機体に特徴を持つこの頃ではそういった分化も進んでいる。隆三は自分の引退ともうほとんど姿を見せなくなってきた747という機体がだぶって見えた。747は別名ジャンボともいう。大きな機体は多くの人を乗せて飛ぶことが出来る半面、多くの燃料を使う。会社に言わせれば効率的とは言えない代物だ。近頃では軽くてもっと乗客数も少ないエコロジーを謳い文句にした機体も導入され始めたが、隆三はこの747に愛着がある。

 隆三は9.11の起こる前に自分の子供を一度だけコックピットに入れたことがあった。子供がまだ小さい20年以上前のフライトだった。女の子だったが父親の帽子を被ってそこで笑顔で写真に収まった姿は隆三の宝物となった。

隆三は会社の定期健康診断で循環器異常の指摘を受けていた。重篤なものでもないし、今すぐどうにかなるという事ではないが、隆三にとって酷使した体と精神を休ませる決断には十分に機能した。隆三は定年まであと2年残すところで飛行機を降りる決断を下したのだ。

コンコースの横を空のカートを結びつけた長い蛇のようなものがゴォーと通り過ぎる。

そのすぐ後に小さなゲージが乗せられたカートが通り過ぎる。通り過ぎる瞬間、かすかな音が聞こえた。その音は甲高くまるで金管楽器のようでもあった。 

その時憲三の携帯電話がメールの着信を知らせた。礼子からのメールだ。今日礼子は来ない。

太一はゲージの先にぼんやり立っている女性の姿をみた。フェイドアウトした画面が徐々にピントが合ってくるようにその女性の姿が大きくなってくる。女性は泣いていた。 

隆三はガラスのオートドアが開かれた瞬間妙な既視感を覚えた・・・隆三の最初のフライトの日にこのコンコースに一匹の猫がいたのだ・・・・今、目の前にも・・・・

 

2012年11月 犬とハーモニカへのオマージュとして