猫とピッコロ
空港の2階のブリッジから1階のコンコースを眺めていた。スーツケースを引きながら多くの人影が無秩序でかつ規則的な動きをして最後は吸い込まれていく、幾千万の人々の人生がこの入口に吸い込まれていく。それぞれ異なった幾千万の命が。
憲三は時計を気にしていた。予定していたバスに乗り遅れたと礼子からメールを受けたからだ。礼子と憲三はある会社の新社屋落成式で出会った。3か月前のことである。礼子はそこで来賓者の受付をしていた。憲三はその会社の取引先だった。取引先といっても憲三のデザイン会社は個人経営に毛の生えた程度の小さな会社であったが、何故か相手先の宣伝部の部長に気に入られていた。憲三は大学で建築を専攻していたが、途中からグラフィックデザインに興味を持ち、大学院は映像とグラフィックの研究をするようになった。卒業後、一人でヨーロッパに留学し、そこで勉強をした。憲三が帰国する年に出品した作品がイタリアの著名なコンクールで優秀賞を獲得し、この世界では少しは名の通ったデザイナーとなっていた。
着慣れないスーツとネクタイの憲三が受付で会社名と名前を告げるが、胸に付けるプレートが見つからない。受付だった礼子はどこかに紛れていないかバックヤードを隈なく探したが見つからない、上に下に必死に忙しく動き回る礼子を見て憲三は吹き出しそうになったが堪えていた。やっとのことで上司に確認をとり結局手書きでプレートを作ることになった。名刺を見ながら白い紙に手書きで名前は書かれた。礼子の手書きの文字は決して達筆と呼べる代物ではなかったが、どこか可愛くて憎めないものだった。
つまらないスピーチは憲三にとってどうでもいいものであった。帰りがけにプレートを受け取ろうとする礼子に憲三は「記念だからもらっておくね」と伝えると礼子はきょとんとした顔であっけにとられていた。
憲三と礼子が偶然再会したのは、お茶ノ水にある喫茶店だった。クライアントと約束をしている憲三の斜め前に宇治金時を食べている女性がいた。その女性はノースリーブの少しくすんだレモンイエローのワンピースを着ていた。となりの椅子の上にはKと書かれた紺色の皮のハンドバッグが置かれていた。憲三はそれが礼子とは思わなかった。受付の礼子は紺色の制服に白いブラウスで女性の華やかさをわざと封印したような堅苦しさと人見知りだといわんばかりのオーラを放っていたからだ。憲三は声を掛けた、礼子は一瞬躊躇ったが、その顔はわずかに紅潮し、礼子の前に座ることをすでに許可していた。
憲三と礼子が深い関係になるには時間は掛らなかった。憲三には妻と二人の娘がいた。憲三は娘を可愛がっていた。妻に言われるままにピアノやダンスに通わせていたが、それが本当に子供にとって良いことだと思っている訳ではない、ただ、妻の機嫌がそうしていれば良いことを知っているからだった。妻は憲三より3つ年上だ。結婚するまで証券会社に勤めていてお金の管理にはうるさい。近頃ではネットで個人投資も始めたようだが憲三にはどうでもよかった。
憲三と礼子はベッドに寝転びながら、天井の茶色い滲みを見つめていた。
礼子が突然、「とても蒸し暑いところに行きたい。ねえ、ただ暑いだけじゃ駄目なの、とても息苦しいくらいに蒸し暑いところに行きたいの、だからハワイや南の島は駄目、人熱れのするような場所がいいの」憲三は礼子の可笑しな考えに同調するには時間が掛ったが今の自分の事を思うと満更でもない選択の様な気がしていた。
太郎はトイレに行った父親の鞄の横に座っていた。父親の鞄はアメリカ製のハートマン社のもので上質な皮を使ったものだった。父親は出張の度にこの大きな鞄を2つも3つも持って出かけるのが常だったが今回はさらに荷物が増えている。太一は小学校5年生だった。横浜市内の小中高の一貫校に通っていたが、今年の5月より学校には行っていない。
いわゆる不登校というやつだ。不登校と一言で片づけてしまえば簡単であるが、それぞれに理由があるものだ。そう他人から見れば些細でつまらない理由が。
太一の両親の折り合いが悪くなったのは今に始まった事ではない。妻の両親の敷地の一部に住宅を新築した頃から夫婦間はぎくしゃくしていた。ただ、このところその関係はもはや修復出来ないものになっていた。離婚調停は形式的に進められた。そして成立した。父親は法律事務所の共同代表をしている。案件は国際的なものが多く、その訴訟額はべらぼうな金額なものが多い。父親は経済的には恵まれていた。日本では虎ノ門に事務所を持っていたが、同時にニューヨークにも事務所を持っていて生活のほぼ7割が海外だった。
調停では子供の親権は母親に譲った。しかし、母親の申し出により太一は父が引き取ることにした。母親には恋人がいた。
太一が不登校となった理由はこの両親の問題もあるが、もっと根深いものがあった。それは太一が可愛がっていた猫の死である。太一が小さな頃から可愛がっていたその猫は太一以外には慣れなかった。ある日、母親の恋人が家に来た時に驚いたその猫は相手に向かって攻撃したのだ。とっさに脚で払おうとしたものの、運悪く脚が猫のお腹に命中してしまった。しばらくは何もなかったがその夜猫は死んでしまった。母親は太一に泣いて許しを求めたが、太一の心は氷の中に閉じこもってしまった。
父親がトイレから出てきた。シャツの襟を気にしながら太一の方に歩いてくる。
隆三はこの空港に30年通い続けた。もちろん他の空港にも同じように降り立つことはあったが、この空港だけは特別だった。隆三の最後のフライトが今日なのだ。
航空会社も以前のようにパイロットだからといって往復ハイヤーということはない、フライトの時間等では車のこともあるが、昼間の時間だと公共交通機関を使うように言われている。隆三が乗る飛行機は747という機体と777だ。パイロットは全ての飛行機を操縦しているように思えるが、機器が増え、またそれぞれの機体に特徴を持つこの頃ではそういった分化も進んでいる。隆三は自分の引退ともうほとんど姿を見せなくなってきた747という機体がだぶって見えた。747は別名ジャンボともいう。大きな機体は多くの人を乗せて飛ぶことが出来る半面、多くの燃料を使う。会社に言わせれば効率的とは言えない代物だ。近頃では軽くてもっと乗客数も少ないエコロジーを謳い文句にした機体も導入され始めたが、隆三はこの747に愛着がある。
隆三は9.11の起こる前に自分の子供を一度だけコックピットに入れたことがあった。子供がまだ小さい20年以上前のフライトだった。女の子だったが父親の帽子を被ってそこで笑顔で写真に収まった姿は隆三の宝物となった。
隆三は会社の定期健康診断で循環器異常の指摘を受けていた。重篤なものでもないし、今すぐどうにかなるという事ではないが、隆三にとって酷使した体と精神を休ませる決断には十分に機能した。隆三は定年まであと2年残すところで飛行機を降りる決断を下したのだ。
コンコースの横を空のカートを結びつけた長い蛇のようなものがゴォーと通り過ぎる。
そのすぐ後に小さなゲージが乗せられたカートが通り過ぎる。通り過ぎる瞬間、かすかな音が聞こえた。その音は甲高くまるで金管楽器のようでもあった。
その時憲三の携帯電話がメールの着信を知らせた。礼子からのメールだ。今日礼子は来ない。
太一はゲージの先にぼんやり立っている女性の姿をみた。フェイドアウトした画面が徐々にピントが合ってくるようにその女性の姿が大きくなってくる。女性は泣いていた。
隆三はガラスのオートドアが開かれた瞬間妙な既視感を覚えた・・・隆三の最初のフライトの日にこのコンコースに一匹の猫がいたのだ・・・・今、目の前にも・・・・
2012年11月 犬とハーモニカへのオマージュとして
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