どじょう 泥鰌 駒形どぜう
解散を宣言した総理大臣が就任早々揶揄されて泥鰌大臣と言われていたのはずいぶん昔のことのように思える。私が泥鰌を毎日のように食べているとか、泥鰌が特に好きであるとかそういう訳ではない。渋谷にいた頃にはそれでも2か月に一回程度は渋谷にあったその支店で食すことがあったが、今となってはもう何年も食べていない。
泥鰌という食べ物は亡くなった祖母を思い出す。祖母は妻が臨月の頃、赴任先の岐阜に手伝いに来てくれた。その時、祖母は兎に角にも妊婦には生ものは駄目、でも栄養をつけなくちゃいけないから泥鰌を食べなさいと口うるさく言われた。仕方なく、市内で泥鰌を探してみたが大きな百貨店やスーパーでも扱っていない。知り合いに尋ねるとそこらじゅうに居るだろうと田圃を指差すが、さすがにこの泥鰌を捕って食べようとは思わなかった。
泥鰌を食したのは東京に帰ってきてからのことだった。先程の支店に通うようになる前に、知人に駒形にある本店に連れて行かれた。私が祖母から聞いていたのは鍋の真ん中に豆腐が丸のまま入れてあって、生きた泥鰌をそのまま入れてから火をつけるという世にも残酷物語だったので、乗る気がしなかったのだが、運ばれてきたそれは既に開かれて骨もなく牛蒡と三つ葉の良い香りがする江戸前の出汁に絡んだおつなものであった。暑い夏の時期にふうふういいながら食すその泥鰌鍋(柳川鍋)はいっぺんで私のお気に入りとなった。
泥鰌と言えば私は飼っていたことがある。下手の横好きとはよく言ったもので魚を飼うことにも凝っていた時期があった。サラリーマンの薄給でしかも飼えるスペースも限られていたので大した代物ではなかった。最初は日本の泥鰌、台湾泥鰌、そして東南アジアやアフリカの泥鰌と色々な泥鰌の仲間を次々に購入した。生息する場所が違えば当然水温も違うが、この泥鰌という魚は他の魚に比べて応用範囲が広いというか環境が変わっても適応できる能力か高い。そうこうして飼っていたある冬の朝、水槽を覗いてみるともう何年も飼っていたクラウンローチという黄色に黒の縞模様の美しい東南アジア原産の泥鰌がその美しい縞模様も真っ白に変色し腹を上にして死んでいた。水槽の水は熱湯のようになっていた。ヒーターの故障だった。それから魚を飼うことをやめた。
田舎に行くと川魚、うなぎ、どじょう、なまずなど提供する店が多い。東京でも水辺に近い墨田区や荒川区にはこうした名残の店も少なくない。帝釈天にほど近い「川甚」などその好例だ。
どじょう鍋には泥鰌を丸のまま入れるものと身を割いて骨を取ってから使うものがある。江戸時代に食べられていたのは現在の「まる」という前者であり駒形どぜうが発祥とも聞く。一方身を割いたものは「抜き」とか「丸ぬき」と呼ばれた。また形が柳の葉に似ているから後者は柳川鍋という名称になったとかこちらは諸説あるようである。
柳川鍋とは名前が違うが舞子丼という食べ物がある。簡単に言ってしまえばどんぶりのご飯の上に柳川鍋をそのままのっけたものである。うなぎの項でも出てくる由比ヶ浜通りの「つるや」のメニューにもある。残念ながらまだ食べたことはない。柳川鍋との違いは最後に薬味の葱の代わりに山椒をふって食べるということぐらいである。
娘からemailで定期健診の写真が送られてきた。初孫は男の子のようである。今度会ったら私も祖母のように娘に泥鰌を食べろと無理強要しそうである。
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