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2014年3月4日火曜日

隠された印


  東京や京都に限った事ではないが、歴史のある街には多くの特別な場所があった。
例えばその橋の先へは行ってはならないとか、この谷に下りてはならないなどいくつもの結界が存在する。

 そうした場所は呪術的であるばかりか、例えば公共衛生という観点から見ても頷ける。今のような疫学に関しての知識もない時代に官位もなく裕福でない庶民は必然的にその場所に集められた。言うならば隔離政策である。この考え方はつい最近まで現存していたのだから大昔の話として看過することは出来ない。
もっとも明治以降のそれは街の内部でなく、外周部に置くことでさらに距離的な閉鎖性を加えられた。

 永井荷風の日和下駄という東京散策記がある。荷風は小石川(現在の春日)で生まれた。その後、麹町、余丁町、麻布などに転居し、市川にて臨終するのだが、彼は専ら東京の東側を主材にしていた。その事は晩年の「墨東綺譚」を読んでも理解できるが、実際に小石川や余丁町(現 河田町、住吉町、若葉町界隈)を歩いてみてもその面影は高層ビルとコンクリートの塊によって鮫河町あたりも当時の足跡は上塗りされ痕跡を見つけることが出来ない。

 しかしながら、大地の地形というものは巨大なコンクリートの塊でも中々隠すことは出来ない。先日も本郷台地の東端である湯島から東側を眺めた。目の前にスカイツリーが聳え、眼下に上野公園の池に鴨が遊んでいる姿が見える。私の立つ位置は建物の三階くらいで上野駅周辺の10階建てのビルの高さと同じくらいなのだから台地の高低差も理解できる。

 はるか遠くには今では地名さえ無くなった玉ノ井が霞んでいる。ますます印は封印され無味乾燥な町名に統合されマトリックスの中に記号が消えていく。そして記号の街へと・・