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2012年11月21日水曜日

オニオングラタンスープ 代官山シェ・アヅマ


オニオングラタンスープ シェ・アヅマ

寒い時期には誰もが暖かいスープを求める。東海岸ならボストン風のクラムチャウダーがいい。南部に行ったならばオクラのたっぷり入ったカンボスープか。犬友のK井ご婦人のつくるそれは素晴らしい。一家はニューオリンズで暮らしていたというから味は本場仕込みで黒人たちの労苦まで織り交ぜて深い味になっているようだ。私にとってはタンシチュー同様、これを食さないと年が越せないそんな代物である。

私が初めてオニオングラタンスープを食したのは1987年の11月の土曜日だった。

この日のことは今でも良く覚えている。何故なら翌日大韓航空機が日本赤軍にハイジャックされ一面この報道で埋め尽くされていたからだ。

車で134号線を松波を右折し逗子に向かった。逗子の渚橋のファミレスで少し早目の昼食をとることにした。その時、生まれて初めてオニオングラタンスープを頼んだ。スープにはパンが切って落とされてその上にチーズが溶けている。器も熱々になっていた。

人生において食べる機会のなかったものというのがある。私の場合、食べることは生命の維持を図ることが第一目的であり、その他の物はずっと後になってついてくる。オニオングラタンスープもそんな仲間だった。

一口飲んで体中の細胞に滋味が行き渡ることが実感できた。寒さで縮こまっていた細胞が復活するように。それ以来、美味しいオニオングラタンスープを探し求めている。

事務所からほど近い並木橋の袂(これが袂という言葉がぴったりの場所)にシェ・アヅマがある。シェフは鉄人にも出演していたベテラン料理人である。席数のそう多くない店内はいつも美味しい逸品を求める老若男女で犇めいている。

私はビストロが好きである。レストランとは違うビストロである。辻静雄氏の著作にはビストロの語源はコサックの兵隊がパリの料理屋で「すばやく済ます」という意味が転じて呼ばれるようになったと書いてあったと記憶する。(当時は外で食事することは禁止されていた)だからビストロの料理はだらだらと遅いのでは困る。皿数もそう多い必要はない。ただし、念入りの仕込みが肝要である。鴨のコンフィに至っては食材と火入れの妙が大きくものをいうし、子羊のナヴァランは丁寧な下処理が大切である。断っておくがもしあなたがこの店で子羊のナヴァランがメニューにあったならば(いつもあるわけではない)迷わず注文することをお薦めする。私の少ない経験ではあるがここのナヴァラン程バランスのとれた逸品は食べたことがない。至福の極みである。

話はオニオングラタンスープに戻そう。ここのそれはまさに看板メニューである。客のほとんどが頼むと言っても過言ではあるまい。オニオングラタンスープといえばただ長くオニオンを調理すればいいのかと言われればそうではない。きちんとしたタイミングで鍋からオープンに移し玉ねぎの甘みを生かしながら調理する。経験がものをいう料理なのだ。

今日も熱々のスープを口に運ぶ。口福とはまさにこの一瞬である。熱チィ・・・しかし火傷必至である・・・・・・・・。我が家は暫く寿司屋でお節を注文していた。しかし、ある年のお節は冷蔵庫に入れていたのだが元旦までもたなかった。それ以来、その寿司屋には行っていない。今年はここシェ・アヅマにお節を注文することにしよう・・・
 


 

拘泥と束縛

30年近く会社の代表をやっていると色々な人に出会います。

そんな経験からある経験則を持つようになりました。

それは私の人を見る基準とでもいいましょうか、まあ、ほとんど外れないのであります。

困った人たちの第一は個人商店なのに大企業病の抜けきらない経営者です。

こうした人のほとんどが大学を卒業して実家の家業と関連性のある業種の大企業に就職して、実家に戻り後を継ぐ人達です。

もちろんそうでない人もいますから、全てが全てと言う訳ではありませんが、個人経営の中に大企業のシステムをそのまま使おうとしている人達です。

私は60人以下の会社は全て個人商店だと思っています。何故、60人かって?それは従業員の仔細を詳しく理解するにはその人数程度が限度だからです。それ以上の場合には個人商店とは呼べませんので今回は論外です。

こうした人の共通点は従業員と自分は違うという特別な意識を持っています。そしてそれは経営者と従業員に垣根を作り、結果、会社は円滑に進まなくなります。

もうひとつ困った事にこうした人達は何かの劣等感を持っており、それに拘泥するあまり的確な判断が出来ない病に陥っている事です。

今放映しているキムタク主演のプライスレスというドラマでも、社長(藤木直人)がキムタクに強烈なライバル心=劣等感を持っているためにあり得ないようなミスジャッジをしています。

それと同じように自分に何かが欠けているという意識が知らず知らずのうちにそれを埋めるような判断をしている訳です。

自分が効率的な判断をしていると思っている人がいたら大間違いです。人間万事塞翁が馬、禍福は糾える縄のごとし、思うようになることの方が少ないのです。それに効率的って何を持って言うのでしょう。

出来る限りそうした閉塞的意識による物事の拘泥や束縛を解き放つことこそ、未来に向けた一歩なのですが中々いないんですよね・・・残念ながら・・・