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2013年3月14日木曜日

環境問題について



私は元来のひねくれものなので例え世の中で話題になっていようとあまり取り合わない事が多い。何故ならマスコミや評論の多くはその表層しか検証しておらず、確かだという証拠がある事は滅多にない。そのあたりは息子も似ていて、傍から見れば何んと可愛らしくない人間か。

暫く前に不都合な真実という本が出版された。出版にあわせて南極の氷が崩れ落ちる映像が流され、地球温暖化が進行している事を象徴的に主張していた。

人々はこぞってエコロジーを口にし、如何に自分たちが正しい事をしているかのように競争った。企業はこの風潮を利用し新しい商品を売り付ける。新しい製品を購入する事はその商品そのものが地球に附加をかけて作られたものである事は無視される。

原発についてもそうだ。原発は悪だと決めつける。今までその恩恵を受けていたのにひとつ事が起こるとあたかも自説のように唱える。確かに原発に事故が起こればその影響は甚大だ。しかし、他の発電の方がはたして地球全体に附加が少ないと言えるのか。

この点を考慮して生理学者であり人類学者のジャレド・ダイアモンドは原発を続けよと言う。残念ながらマスコミはこうした論評を好まない。

地球が最大の環境変化を起こしたのは恐竜が絶滅した隕石の衝突である。環境の変化は外的要因による一斉に起る。漸次的ではない。歴史が証明している。

原発事故が起きた時にマスコミな度々登場して、日本から脱出せよと言い続けていたご仁は今どうしているのだろう。多くの国民に不安を煽り被災地の復興を遅らせた罪はマスコミも同様に重い。

断っておくが私は原発賛成でも地球温暖化推進でもない。ただ意見を述べるにあたって論理的検証を行うべきだと言っているのだ。理論的説明も無く自説を強要するのは宗教と同じだ。

以前はそういった言説を流布するのは特定の人だった。いつの時代もそういう人はいたのだから。それが最近はごく普通の分別のありそうな人がそうした言説にのっかる風潮がある。何か問題が起こると極端な方向に振れる。分かりやすい二元論に乗っかる人達だ。困ったものだ。

私は問題が生じた時に最適解を掲げる人間を信用しない。いつの時代も部分的最適解は全体としての最適解にあたらないことが多いからだ。木を見て森を観ずの例え通り。

私は自分に問う。この問題は自分にとって時間が味方しているのかしていないのか。この年になれば味方している事はそう多くないが、そんな時こそ早計に最適解を出そうとしていないか熟考する。時間に制約されなければ真の難問は乗り越えられるが、有限の中では解は生まれない。

環境問題と言う言葉を聞いて私がひっかかるのは、人間の奢り高ぶった姿が見えるから。
そもそも人間が環境を変えるという言葉自体可笑しい。震災を見ても分かるように地球にとって他の動物同様、ちっぽけな存在なのだ。ビバリーヒルズの大豪邸に住まう人も、蜑戸のような質素な庵に住まう人も一度地球が牙をむけば成すすべはない。

人間はもっと謙虚になるべきだ。この地球に住まわせてもらっているのだから。