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2013年1月11日金曜日

天麩羅 三軒茶屋 天里 鎌倉 ひろみ


天麩羅 三軒茶屋 天里 鎌倉 ひろみ
寿司と天麩羅は家で食べるものではないと胸を張って言いきる妻の口癖だが、確かにこれほど家庭と料理屋の味が違うものもありますまい。
あれは息子が小学5年生の時だから、かれこれ12年も昔になる。どうせ無理だろうと嵩をくくって、息子にもし塾の全国模試で一位になったら好きな物を何でも食べさせてあげると約束した事がある。あの当時より喰い物で釣っていたのだから今の彼の体型は半分親のせいである。これは反省しきり。そのとき彼の口から出た言葉が天麩羅である。
銀座にある高級店のそれは確かに良い食材を使うが値段も飛びきりである。ただ、私の経験から数件しか知らないが、どうしても私の舌の琴線に触れる店には出会ったことが無かった。
あるときにお得意様に三茶に美味しい天麩羅店があると誘われた。その店はお世辞にも高級と呼べる代物ではなかった。茶沢通りから住宅街に少し入った場所にあるそれは場末の小料理屋のようでもある。暖簾を潜って席につくとカウンター越しに店主の仕事ぶりが見える。まず出されたのが海老である。特筆すべきは頭の揚げ方で、これほど香ばしく揚げられた海老の頭は食べたことが無かった。次々に供される魚介と野菜の中にギンポウがあった。
ここでギンポウについて少々説明する。ギンポウまたはギンポは銀宝とも書く。江戸時代の銀貨に形が似ているからとも聞くが定かではない。もっともウツボや田うなぎに似た平べったく長細い形がどうして銀貨に似ているのか全く分からない。名前の由来はともあれ、テトラポットなどで釣りをしていると時々掛る。大抵は仕掛けに絡まって仕掛けをお釈迦にしてしまう困りものである。この魚が珍重されているのは東京だけだと思う。他の地域では捨てられているようだ。東京=江戸に限ってはどこの誰だか知らないが、天麩羅にして食ってみようとおとこ義を出したご仁がいたようで、これがまた美味ということで通の間に広まったようである。そんな珍味は銀座の高級店でも中々お目にかかれない。それが普通のコースの中にあった。どう旨いかととうと、その身はアナゴともまた違い臭みがない。淡泊でありながらねっとりとした独特の食感である。口に入れるとほろほろと溶けてしまう。そしてコースの締めくくりには天丼か天麩羅茶漬が供される。その時は後者を選択したが、出汁に油がほとんど浮かばないのである。最後までさらっと食べ終えた時に、皿の白紙を見るとほとんど油がついていない。あっぱれ大将のなせる技、大いに驚嘆し家路についた。
約束して1月後、その機会が到来した。息子は本調子ではなかったが、大いに満足したのは言うまでもない。一時この店の大将は体を壊したようだが、今では息子と共に厨房で腕をふるっている。
もう一件お薦めの店がある。こちらは天丼だ。もちろん普通の天麩羅もあるが私は天丼をお薦めする。
鎌倉通いに慣れ始めた夏の暑い日、私達は小町通りの二階にあるこの店に入った。あたりを見回すと昼食時でもあり、常連と思しき人がてんでに食事を取っていた。その中に黒い帽子にニットのワンピースを着て一人で座っている上品な老婦人が居た。彼女はメニューを見ずに天丼を店員に注文した。彼女は暫く置いて出されたその天丼の蓋を返して、海老の天麩羅をその上に置き、ご飯と天麩羅を丁寧にかつ慣れた手つきでぺろっと平らげたのである。私達が天丼を注文したのは言わずもがなである。
ここの天丼は江戸前のそれである。黒っぽい汁なれどしょっぱくない。甘過ぎると言うこともない。そして素材が生きている。この店のお薦めは断然この天丼である。
胃腸薬の宣伝に外国の民族衣装をきた老婆三人が「私は天麩羅が好きよ」というのがある。このCMを見るたびにあの帽子の老婦人を思い出す。







1981年のゴーストライダー Capter2 Ⅸ


電話の用件は洋一の会社の劇場のチケットを取って欲しいというものだった。
洋一の会社はテナントビルを経営している。全国の中核都市にはその名前を冠する建物がいくつもあった。中でもここ渋谷には数棟あり、そのひとつに劇場を有している。劇場で開催される演目はコンサートから新進気鋭の演出家の作品、海外の話題作と多岐にわたった。
麗子が依頼したチケットは井原西鶴の好色一代男を現代風にアレンジした新劇だった。
麗子は高校生の頃1年間シアトルに留学した経験があった。交換留学である。その時にお世話になったアメリカ人の夫婦が来月日本に来ることになって、是非その劇を見たいと希望したのだ。
ご主人は弁護士をしていた。弁護士と言ってもドラマで法廷闘争するような弁護士ではなく日本でいうところの司法書士や行政書士のような仕事が主だった。彼は大学時代に日本の浄瑠璃に興味を持ち、独学で研究し、日本にも数週間滞在した事がある。
彼らには二人の子供がいる。長男は麗子より5つ年上でニューヨークの証券会社に勤務している。二男は大学生でロサンゼルスにある大学のドミトリーで暮らしていた。彼も法学を専攻していた。今回の来日に同行するのはこの二男と妻の二人だった。
洋一は麗子に先日のお礼を再度言い、おそらく大丈夫だと思うが取れたらまた連絡すると電話をきった。
洋一は劇場を担当している部署に電話をいれ、電話を切ると同時に席を離れその部署のある二つ階下に行き、チケットを購入できるようにお願いをした。部署のチーフはそのデスクの中央にグレーのツイードのジャケットに黒のニットタイをしめて座っていた。彼はローゼンタールの眼鏡越に、その手の劇に全く興味のない洋一の依頼に怪訝な顔をしていたが、洋一から仔細を聞くとそれなら仕方ないといった顔で受話器をあげ直接劇場に電話を入れチケットを確保してくれた。洋一は丁寧にお礼を言い、そのまま直接劇場までチケットを取りに行った。
洋一のデスクのある建物と劇場は直接繋がってはいない。一度、表に出て坂を上りそのテナントビルの従業員用エレベーターを使って上がらなければならなかった。
坂の途中には開店したばかりのバーが右手に見える。看板は小さく「アルコホール」と書かれていた。ガラスの向こうに蒸留所で使う大きなカッパー色のポットスティルと呼ばれる蒸留釜が置かれていた。この店は吉祥寺の人気店が渋谷に初めて出店したものだった。 洋一は学生時代、吉祥寺のその店には何度も訪れていたのでオーナーとも顔なじみだった。洋一はオーナーからこの店の開店レセプションの招待状をもらっていたが残念ながら出席できなかった。
建物に入る右手のスペイン坂から歓声が聞こえた。テレビの撮影スタッフが芸能人と一緒に撮影しながら坂を上ってきた。まわりにはファンと思しき人がトリツイテいる。その姿は人間というより、大きな塊のようで何か不気味な生き物の様な気がした。洋一は足早に建物に入った。