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2012年11月19日月曜日

猫とピッコロ


猫とピッコロ

空港の2階のブリッジから1階のコンコースを眺めていた。スーツケースを引きながら多くの人影が無秩序でかつ規則的な動きをして最後は吸い込まれていく、幾千万の人々の人生がこの入口に吸い込まれていく。それぞれ異なった幾千万の命が。
 
 憲三は時計を気にしていた。予定していたバスに乗り遅れたと礼子からメールを受けたからだ。礼子と憲三はある会社の新社屋落成式で出会った。3か月前のことである。礼子はそこで来賓者の受付をしていた。憲三はその会社の取引先だった。取引先といっても憲三のデザイン会社は個人経営に毛の生えた程度の小さな会社であったが、何故か相手先の宣伝部の部長に気に入られていた。憲三は大学で建築を専攻していたが、途中からグラフィックデザインに興味を持ち、大学院は映像とグラフィックの研究をするようになった。卒業後、一人でヨーロッパに留学し、そこで勉強をした。憲三が帰国する年に出品した作品がイタリアの著名なコンクールで優秀賞を獲得し、この世界では少しは名の通ったデザイナーとなっていた。

着慣れないスーツとネクタイの憲三が受付で会社名と名前を告げるが、胸に付けるプレートが見つからない。受付だった礼子はどこかに紛れていないかバックヤードを隈なく探したが見つからない、上に下に必死に忙しく動き回る礼子を見て憲三は吹き出しそうになったが堪えていた。やっとのことで上司に確認をとり結局手書きでプレートを作ることになった。名刺を見ながら白い紙に手書きで名前は書かれた。礼子の手書きの文字は決して達筆と呼べる代物ではなかったが、どこか可愛くて憎めないものだった。

つまらないスピーチは憲三にとってどうでもいいものであった。帰りがけにプレートを受け取ろうとする礼子に憲三は「記念だからもらっておくね」と伝えると礼子はきょとんとした顔であっけにとられていた。

憲三と礼子が偶然再会したのは、お茶ノ水にある喫茶店だった。クライアントと約束をしている憲三の斜め前に宇治金時を食べている女性がいた。その女性はノースリーブの少しくすんだレモンイエローのワンピースを着ていた。となりの椅子の上にはKと書かれた紺色の皮のハンドバッグが置かれていた。憲三はそれが礼子とは思わなかった。受付の礼子は紺色の制服に白いブラウスで女性の華やかさをわざと封印したような堅苦しさと人見知りだといわんばかりのオーラを放っていたからだ。憲三は声を掛けた、礼子は一瞬躊躇ったが、その顔はわずかに紅潮し、礼子の前に座ることをすでに許可していた。

憲三と礼子が深い関係になるには時間は掛らなかった。憲三には妻と二人の娘がいた。憲三は娘を可愛がっていた。妻に言われるままにピアノやダンスに通わせていたが、それが本当に子供にとって良いことだと思っている訳ではない、ただ、妻の機嫌がそうしていれば良いことを知っているからだった。妻は憲三より3つ年上だ。結婚するまで証券会社に勤めていてお金の管理にはうるさい。近頃ではネットで個人投資も始めたようだが憲三にはどうでもよかった。

憲三と礼子はベッドに寝転びながら、天井の茶色い滲みを見つめていた。

礼子が突然、「とても蒸し暑いところに行きたい。ねえ、ただ暑いだけじゃ駄目なの、とても息苦しいくらいに蒸し暑いところに行きたいの、だからハワイや南の島は駄目、人熱れのするような場所がいいの」憲三は礼子の可笑しな考えに同調するには時間が掛ったが今の自分の事を思うと満更でもない選択の様な気がしていた。

 

太郎はトイレに行った父親の鞄の横に座っていた。父親の鞄はアメリカ製のハートマン社のもので上質な皮を使ったものだった。父親は出張の度にこの大きな鞄を2つも3つも持って出かけるのが常だったが今回はさらに荷物が増えている。太一は小学校5年生だった。横浜市内の小中高の一貫校に通っていたが、今年の5月より学校には行っていない。

いわゆる不登校というやつだ。不登校と一言で片づけてしまえば簡単であるが、それぞれに理由があるものだ。そう他人から見れば些細でつまらない理由が。

太一の両親の折り合いが悪くなったのは今に始まった事ではない。妻の両親の敷地の一部に住宅を新築した頃から夫婦間はぎくしゃくしていた。ただ、このところその関係はもはや修復出来ないものになっていた。離婚調停は形式的に進められた。そして成立した。父親は法律事務所の共同代表をしている。案件は国際的なものが多く、その訴訟額はべらぼうな金額なものが多い。父親は経済的には恵まれていた。日本では虎ノ門に事務所を持っていたが、同時にニューヨークにも事務所を持っていて生活のほぼ7割が海外だった。

調停では子供の親権は母親に譲った。しかし、母親の申し出により太一は父が引き取ることにした。母親には恋人がいた。

太一が不登校となった理由はこの両親の問題もあるが、もっと根深いものがあった。それは太一が可愛がっていた猫の死である。太一が小さな頃から可愛がっていたその猫は太一以外には慣れなかった。ある日、母親の恋人が家に来た時に驚いたその猫は相手に向かって攻撃したのだ。とっさに脚で払おうとしたものの、運悪く脚が猫のお腹に命中してしまった。しばらくは何もなかったがその夜猫は死んでしまった。母親は太一に泣いて許しを求めたが、太一の心は氷の中に閉じこもってしまった。

父親がトイレから出てきた。シャツの襟を気にしながら太一の方に歩いてくる。 

隆三はこの空港に30年通い続けた。もちろん他の空港にも同じように降り立つことはあったが、この空港だけは特別だった。隆三の最後のフライトが今日なのだ。

航空会社も以前のようにパイロットだからといって往復ハイヤーということはない、フライトの時間等では車のこともあるが、昼間の時間だと公共交通機関を使うように言われている。隆三が乗る飛行機は747という機体と777だ。パイロットは全ての飛行機を操縦しているように思えるが、機器が増え、またそれぞれの機体に特徴を持つこの頃ではそういった分化も進んでいる。隆三は自分の引退ともうほとんど姿を見せなくなってきた747という機体がだぶって見えた。747は別名ジャンボともいう。大きな機体は多くの人を乗せて飛ぶことが出来る半面、多くの燃料を使う。会社に言わせれば効率的とは言えない代物だ。近頃では軽くてもっと乗客数も少ないエコロジーを謳い文句にした機体も導入され始めたが、隆三はこの747に愛着がある。

 隆三は9.11の起こる前に自分の子供を一度だけコックピットに入れたことがあった。子供がまだ小さい20年以上前のフライトだった。女の子だったが父親の帽子を被ってそこで笑顔で写真に収まった姿は隆三の宝物となった。

隆三は会社の定期健康診断で循環器異常の指摘を受けていた。重篤なものでもないし、今すぐどうにかなるという事ではないが、隆三にとって酷使した体と精神を休ませる決断には十分に機能した。隆三は定年まであと2年残すところで飛行機を降りる決断を下したのだ。

コンコースの横を空のカートを結びつけた長い蛇のようなものがゴォーと通り過ぎる。

そのすぐ後に小さなゲージが乗せられたカートが通り過ぎる。通り過ぎる瞬間、かすかな音が聞こえた。その音は甲高くまるで金管楽器のようでもあった。 

その時憲三の携帯電話がメールの着信を知らせた。礼子からのメールだ。今日礼子は来ない。

太一はゲージの先にぼんやり立っている女性の姿をみた。フェイドアウトした画面が徐々にピントが合ってくるようにその女性の姿が大きくなってくる。女性は泣いていた。 

隆三はガラスのオートドアが開かれた瞬間妙な既視感を覚えた・・・隆三の最初のフライトの日にこのコンコースに一匹の猫がいたのだ・・・・今、目の前にも・・・・

 

2012年11月 犬とハーモニカへのオマージュとして
 
 

女優 森光子 追悼

昭和、平成にまたがる大女優の死は色々なテレビ局で特番を組まれ放送されている。

考えてみると彼女の活躍していた時代はテレビがテレビとして輝いていた時代だったのかもしれない。

1970年から我々は多くの物を手にしていった。高度経済成長と言う魔法によって今まで手にすることすら難しかったものが簡単に手に入れられるようになってきた。

一方では物事を深く考えるという律儀な国民性はどんどん薄められていった。手軽で愉快で楽しいものが茶の間の中心になっていった。

そんな大きなうねりの真ん中に彼女は存在した。

多くの大女優が眉をしかめるような役柄でも不毛な下積み時代を思うと断れなかったと聞く。

それが彼女を国民的スターダムに押し上げた。

人間には二通りの人間がいる。自分が苦労したの同じように後輩にも経験させ育てようとするタイプと自分が受けた苦労は出来る限り後輩にはさせずに安心させ伸ばしてやろうとするタイプである。

彼女が後者である事は疑いない。

彼女のような女優はこれからは多くないだろう。何分、与えられる事が前提で生きてきた人間には彼女の優しさと強さが分からないからだ。

人は自分の経験でしか分からないものなのだから。

どじょう 泥鰌


どじょう 泥鰌  駒形どぜう

解散を宣言した総理大臣が就任早々揶揄されて泥鰌大臣と言われていたのはずいぶん昔のことのように思える。私が泥鰌を毎日のように食べているとか、泥鰌が特に好きであるとかそういう訳ではない。渋谷にいた頃にはそれでも2か月に一回程度は渋谷にあったその支店で食すことがあったが、今となってはもう何年も食べていない。

泥鰌という食べ物は亡くなった祖母を思い出す。祖母は妻が臨月の頃、赴任先の岐阜に手伝いに来てくれた。その時、祖母は兎に角にも妊婦には生ものは駄目、でも栄養をつけなくちゃいけないから泥鰌を食べなさいと口うるさく言われた。仕方なく、市内で泥鰌を探してみたが大きな百貨店やスーパーでも扱っていない。知り合いに尋ねるとそこらじゅうに居るだろうと田圃を指差すが、さすがにこの泥鰌を捕って食べようとは思わなかった。

泥鰌を食したのは東京に帰ってきてからのことだった。先程の支店に通うようになる前に、知人に駒形にある本店に連れて行かれた。私が祖母から聞いていたのは鍋の真ん中に豆腐が丸のまま入れてあって、生きた泥鰌をそのまま入れてから火をつけるという世にも残酷物語だったので、乗る気がしなかったのだが、運ばれてきたそれは既に開かれて骨もなく牛蒡と三つ葉の良い香りがする江戸前の出汁に絡んだおつなものであった。暑い夏の時期にふうふういいながら食すその泥鰌鍋(柳川鍋)はいっぺんで私のお気に入りとなった。

泥鰌と言えば私は飼っていたことがある。下手の横好きとはよく言ったもので魚を飼うことにも凝っていた時期があった。サラリーマンの薄給でしかも飼えるスペースも限られていたので大した代物ではなかった。最初は日本の泥鰌、台湾泥鰌、そして東南アジアやアフリカの泥鰌と色々な泥鰌の仲間を次々に購入した。生息する場所が違えば当然水温も違うが、この泥鰌という魚は他の魚に比べて応用範囲が広いというか環境が変わっても適応できる能力か高い。そうこうして飼っていたある冬の朝、水槽を覗いてみるともう何年も飼っていたクラウンローチという黄色に黒の縞模様の美しい東南アジア原産の泥鰌がその美しい縞模様も真っ白に変色し腹を上にして死んでいた。水槽の水は熱湯のようになっていた。ヒーターの故障だった。それから魚を飼うことをやめた。

田舎に行くと川魚、うなぎ、どじょう、なまずなど提供する店が多い。東京でも水辺に近い墨田区や荒川区にはこうした名残の店も少なくない。帝釈天にほど近い「川甚」などその好例だ。

どじょう鍋には泥鰌を丸のまま入れるものと身を割いて骨を取ってから使うものがある。江戸時代に食べられていたのは現在の「まる」という前者であり駒形どぜうが発祥とも聞く。一方身を割いたものは「抜き」とか「丸ぬき」と呼ばれた。また形が柳の葉に似ているから後者は柳川鍋という名称になったとかこちらは諸説あるようである。

柳川鍋とは名前が違うが舞子丼という食べ物がある。簡単に言ってしまえばどんぶりのご飯の上に柳川鍋をそのままのっけたものである。うなぎの項でも出てくる由比ヶ浜通りの「つるや」のメニューにもある。残念ながらまだ食べたことはない。柳川鍋との違いは最後に薬味の葱の代わりに山椒をふって食べるということぐらいである。

娘からemailで定期健診の写真が送られてきた。初孫は男の子のようである。今度会ったら私も祖母のように娘に泥鰌を食べろと無理強要しそうである。