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2010年5月11日火曜日

楽茶碗 モダンアート



昨年京都で楽美術館を観てきました。黒楽、赤楽と有名な茶器ですが、特に黒楽の高台まで黒くしたあの様相はモダンアートと通じるものを感じていました。

すると数日前の日経新聞で同じようなことを言っている人がいました。そして子供が「おっちゃん、これ黒くないやん。赤や茶が混ざっていて土みたいや」と言っていたと締められていました。

そう思います。子供の感性は捨てたもんじゃありません。大人のいびつな観察眼よりよっぽど鋭く洞察します。

国立博物館も仕切りの対象との噂もあります。でもこういう施設でこそ、子供の感性の教育が出来るんじゃないのでしょうか。将来の種は大切にしたいものです。

手作り豆腐


写真の上は何だか分かりますか?これ実は手作り豆腐なんです。娘が昨日パパッと作ったものなんですがこれがバカうまなんですよ。塩をほんの少しかけて食べると口の中に大豆の甘い香りが広がります。これは本当に旨いです。私が食べた豆腐の中でナンバー1です。ティアラを差し上げましよう。

餃子は娘とディズニーランドに行った妻が作っておいたものです。羽がパリッとなっているでしょう。

GWは何もせず、人の作ってくれるものを食べるのが一番です。

話は変わりますが、村上春樹氏によると「パスタブック」なるものがあるようです。日曜の午後、パスタの茹であがる時間にパラパラとめくって読む本だそうです。なるほど今度はパスタブックも探しておきましょう。


i pad 発売     既得権益 サンクコスト

i padの発表に合わせてニュースで出版協会のお偉いさんが自らの既得権益を守るべく発言をしておられますが、あんなバカな事は言わない方がいい。積極的に電子書籍事業に参入するべきです。

そもそも私の仕事の信条の一つに「既得権益とサンクコストはすぐに忘れる」というものがあります。

死んだ子の年を数えない、こない物を待たないこれです。

既得権益もサンクコストも実は表裏一体裏返しなだけです。

圧力団体というのは既得権益の集まりです。起業家が育たずに、既得権益団体が大手を振って闊歩するこの国はもはや亡国のあらわれです。

世の中は変わっています。変化の気付かない人たちはそのまま居場所を失っていくだけです。

学生運動 システム対システム

私が大学に入学した頃には学生運動も下火になっており、私立大学のほんの一握りのいくつかでポツポツと狼煙が上がっていたようなもので、はっきりいって冷めきっていていうならば「カッコヨクナカッタ」訳です。

しかしそれだけではありません。あの闘争時代「無理」があると感じていた事もあるわけです。

システムに対抗するためにさらに強大なシステムを対抗させることで、システムを変更できるのは戦争以外にありません。システムを変更するのは必ず内部の力です。つまりその時は知らないけど何となくその無理が分かっていた訳です。結局、強大なシステムを作ろうと奔走した一方は内部崩壊でシステムが壊れた(内ゲバ)事は皮肉です。

システムというのはいくつかが交互に複雑に絡み合っています。それも時と場合にはいとも簡単に崩壊します。



東欧の民主化の動きは何だと異を唱えるご仁もおられるかもしりませんが、言っておきますがテレビに映った民衆の姿はあくまで「象徴」です。政権中枢と結んでいた政府の内部が瓦解したのです。そうシステムは内部の氾濫にはいとも簡単に崩壊してしまうものなのです。

これは生物の体に似ています。そんなことをテーマにしたシステム論でも面白そうです。アポトーシスやホメオスタシスとはこういったシステムに転用出来る言葉だからです。

新しい闘争のスタイルはどこかの司法試験塾宜しく、国家公務員甲種試験にどんどん受けさせて中枢よりゆっくりシステムの崩壊を目論むというのは如何なものでしょう。まあやる気もお金もそしてそこまで今の日本は持たないような気がしますが・・・・・・・・・・・・

坂本竜馬 偏差値教育  被害者意識

日曜日の福山雅治氏演じる坂本竜馬がどうのこうのというんじゃないのである。

どうして日本人はここまで坂本竜馬が好きなのであろうか?私には不思議で仕方ない。

坂本竜馬なる人物を世に知らしめたのは「戦争」である。天皇を中心とする日本国の象徴として海軍設立に尽力した人物を再発見し、世の中に「こんな人もいたんだよ」戦争の象徴として担ぎあげられた訳である。

そんなこと頭の片っぱしにもなくなってしまったのだろうか?

いやいや、そんなに簡単ではなさそうだ。

アメリカに戦争で負けた日本は圧倒的力の差を見せつけられ、そして降参したのて゛ある。
武士の魂宜しく切腹して死に果てたのか?そうではない。アメリカに守ってもらうことを選んだのである。とことん忠誠を誓い、アメリカのためになることを「自ら進んで選択」したのだ。アメリカが一方的に押し付けたとよくいうが、「自ら選択した」ことは自明である。このあたりのことは「村田良三回顧録」に詳しく出ているので参照あれ。(日米安保については後でまた書きます。ここではおさわりだけ・・・・)

日本の政治家に蔓延するこのアメリカ病は益々顕著になってきている。

そりゃ当り前だよ、日本の戦後は成長すること=成功と思いながら、アメリカの提唱する「自由な競争社会」を提唱してきたのだから今更「あれはウソだった」なんて言って一抜けできないのだ。

偏差値教育というのはまさにアメリカ型の教育システムだ。「みんなでよくなりましょう」というのではない、「誰か出来ないやつを作って相対的に自分が上に行くシステム」なのだ。まさに弱肉強食である。そうして大人になった人間がどうして人のために尽くすことができるであろう。

自分がしてきたことと同じことをするのが関の山である。

社会を改革するということは「一定のシステム内における富の再配分」に他ならない。幕末から明治にかけて徳川家から政府への富の再配分システムといってもよいだろう。つまりは「被害者意識」なのである。何故、被害者意識か?それは「あいつはおれより持っているから、分捕ってしまおう」というこの意識であるからだ。

今の大人にこの被害者意識が多いことを痛感する。マスコミもこれを煽る。それゃそうでしょう、弱いものの見方がカッコイイなんて教化してきたのだから当たり前。

テレビに出てしゃあしゃあと「私達はこれだけこんなに苦しめられました。悪いのはあなたたちです。」こんな言葉を毎日聞いている。

だから竜馬が好きなんです。だって「殉死」するわけでしょ。この分捕り競争のために、そりゃ人気出るわけよ・・・・・・・・

ネットプリント

以前某ショップのネットプリントが安いと書いたことがありましたが、世の中はもっと進んでいて10円でプリントができるようになっていました。知らないとは恐ろしいものです。

以前、フィルムで写真を撮っていた頃には7.8本のフィルムを現像すると1万円近くかかりました。

それがデジカメになってSDカードでプリントすると3分の1以下になりました。それでも十分安くなったと思っていたのですが、時代はさらにその前を進み、今ではデータ通信するたげで郵送で送られてくるのです。なんと10円です。

こうなるとインクジェットの出番は費用対効果の面からも必要なくなりました。

こうやって今まで「普通」だったものが「普通じゃなくなって」いくのですね。変化とはそういうときに知らず知らずに起こるものです。

活字中毒  デリダ

私が活字中毒であることはまぎれもない事実です。日本語であれ、英語であれ(日本語と英語くらいしか意味が分からないので)文字を見ると読んでしまいます。商品の後ろのタグもです。

我が家では男性陣がこの傾向が強いようです。

息子が小学校に上がる前のことです。駅のホームで何を見ているのかと思ったら、駅の電車のダイヤをずっと見ているのです。そう数字も彼にとっては「活字」なのです。ですから教えるでもなく幼稚園の頃には都内の駅名はほとんど漢字で読んでいました。

ほどなくして何気なくポンと机の上に置いた(ここが大事)の朝日新聞を読み始めたのです。そして簡単な天声人語は1年生の時には読み終えていました。

以前速読、遅読、反復読みのことを書きましたが、小学校の高学年の頃には得意の速読でも私の完敗でした。

人間の脳には可塑性というものが備わっているようです。目に入る情報は瞬く間に、情報伝達され映像として可視化できるのですが、細胞は最初からその情報が来ることを予期していたようにふるまうのです。そうでなければあれだけ早い情報を処理できません。

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しかし、本の中にはこの「分かったつもりにさせてくれない本」もあるのです。脳が働き可視化しようと試みても「何か変たぞ」と脳が首を傾げてしまうのです。そうなると速読は意味をなしません。
そんなときは、いったりきたり文脈の不整合性を紐解きながら、不整合の反対の反対として理解していく方法です。昨晩も「デリダ」をその方法で読んでいました。かなり紐はほどけてきました。



ふたたび 村上春樹論


いちはやく1Q84を買って読み終えるのがもったいないくらいに、ぐいぐい惹きつけられ読破した小説は近年ではあまりお目にかかっていません。

村上春樹氏が凡庸でない小説家であることは世間の知るところですが、私は単にパラレルワールドを主題にしたファンタジーというカテゴライズ出来ない不思議な魅力を感じました。

青豆が降りる首都高3号線も高円寺にある月の見える公園も私の中では実在します。

優れた小説家の作品は「私だけがしっている」「私だけが見える」という気持ちを読者に与えるものです。しかし、単にそれを与えるものは大きなストーリー性というよりは、綿綿と繋ぎ続けた緻密な描写のなせる技で、それを可能にしたのは彼の類まれな「吸収力」ではないでしょうか。

氏は人に会って「このひとはどんな職業でどんな人か分かる」と言っていました。

いくら隠そうと思っても「隠そうと意思するもの」は、かならず着物の袖口からはみだした下着のように正体を晒すのです。

さらに氏は子供の頃より相当な「読字中毒」と言っていました。それ故、日本は当然、海外の小説家の作品まで片っぱしから「読字」していったのかと思います。ですから、彼の吸収した様々なものが、氏の中で咀嚼され、新しい言葉となって表現されるのです。

ポランスキーがこの知っているつもりという言葉を「暗黙知」と訳しました。そう彼はこの「暗黙知」を作り出す名人なのです。

青豆も天吾も私の中では実在し、その顔まではっきりと浮かび上がります。