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2010年5月11日火曜日

ふたたび 村上春樹論


いちはやく1Q84を買って読み終えるのがもったいないくらいに、ぐいぐい惹きつけられ読破した小説は近年ではあまりお目にかかっていません。

村上春樹氏が凡庸でない小説家であることは世間の知るところですが、私は単にパラレルワールドを主題にしたファンタジーというカテゴライズ出来ない不思議な魅力を感じました。

青豆が降りる首都高3号線も高円寺にある月の見える公園も私の中では実在します。

優れた小説家の作品は「私だけがしっている」「私だけが見える」という気持ちを読者に与えるものです。しかし、単にそれを与えるものは大きなストーリー性というよりは、綿綿と繋ぎ続けた緻密な描写のなせる技で、それを可能にしたのは彼の類まれな「吸収力」ではないでしょうか。

氏は人に会って「このひとはどんな職業でどんな人か分かる」と言っていました。

いくら隠そうと思っても「隠そうと意思するもの」は、かならず着物の袖口からはみだした下着のように正体を晒すのです。

さらに氏は子供の頃より相当な「読字中毒」と言っていました。それ故、日本は当然、海外の小説家の作品まで片っぱしから「読字」していったのかと思います。ですから、彼の吸収した様々なものが、氏の中で咀嚼され、新しい言葉となって表現されるのです。

ポランスキーがこの知っているつもりという言葉を「暗黙知」と訳しました。そう彼はこの「暗黙知」を作り出す名人なのです。

青豆も天吾も私の中では実在し、その顔まではっきりと浮かび上がります。

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