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2009年10月23日金曜日

教育=贈与

またまた内田樹先生のブログにて感銘しました。

20代の頃、人事部で新卒の採用をしていた時「大学で何を学んだのですか」との一般的な問いに、いとも簡単に「××を学びました」とすっぱり答える人を見て、「ナンカツマンネエ」と感じていたその答えの一助が見つかりました。

等価交換であってはならないのです、見返りを求めてもいけないのです。臨終の際に私は幸せだったと言えることが教育の本質やも知れません。

私は幸いなことに学校を通じて、そして社会に出て出会った多くの人との交わりとその経験と知識により、今は幸福であると思っています。だからこそ何か贈与しなければなりません。そして、また贈与されるのです。

内田樹先生のブログ
http://blog.tatsuru.com/

良書 大井玄 「痴呆老人は何を見ているのか」

今、朝食を終えラヴェルの「亡き王女のためのパヴェーヌ」を聞きながら日本茶を飲んでいます。

南田洋子さんが亡くなられました。好きな女優だっただけに惜しまれます。ご冥福をお祈りいたします。
とひろでその南田さんの過去の映像を見ていて、その「目」に興味が起こりました。

痴呆の状態であるときのその「目」は、末期癌で自宅療養していた祖母がモルヒネのため意識障害が起きていたその時の「目」とさらに精神分裂患者のその「目」と同じだと思いました。

大井玄氏の「痴呆老人は何を見ているのか」にその答えはありました。この本は良書です。現代の医学が踏み込まない社会性の領域まで踏み込み病理としての「痴呆」よりその背景の社会に鋭い視線を送っています。

そうかもしれません。人は死ぬときに必ず社会性は失われるのです。普通と普通でないかの違いはこの社会性を持っているかないかです。まさに「痴呆」とはこの社会性を失うことなのだと。さらにうつも自らこの社会性を断ち切りたい心の叫びでもあると論じています。

アボリジニの画家、エミール・ウングワレーの作品を見たとき、「死とは混沌である」と思ったのですが、
混沌にもその生成過程でいくつもの種類があるのだなと痛感した次第です。

週末には頼んでいたCDが届く予定です。楽しみです。