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2013年5月7日火曜日

Kさんのこと


Kさんのこと

Kさんが死んだ。51日午前333分。食道静脈瘤破裂による突然の死だった。
Kさんは昭和十五年生まれ、私よりふたまわり近く年上だったが、20年前に初めてお会いして以来妙に馬が合った。Kさんは決して人付き合いのよい人という訳ではない。どちらかといえば癇癪もちであり、好き嫌いの激しい人だった。それゆえ、煙たがる人も多いが、多くは真の姿を知らないことが多い。

Kさんの母親が病気になり、病床で死を待つ辛い時期に一緒に気晴らしに鯊つりに出かけたことがある。今から15年前になる。釣り糸をたらしながら寂しそうなKさんの横顔が忘れられない。丁度、そのとき娘が小学生で気の利かない私はおもちゃのひとつも持参しなくて娘が手持ち無沙汰にしていたところ、食べ終えたトコブシの貝殻を重ねて、積み木崩しをして遊んでくれた。Kさんの優しい一面を見た気がした。
Kさんはずっとサラリーマン生活を続けていた。どんな天気が悪くてもスーパーカブに乗って護国寺近くの会社までバイクで通勤していた。

Kさんの家は親の代から続く地主だった。家作や借地代をあわせればkさんは働かなくても良い環境だったが、それはそれとして家族の生活費は自分で稼いでいた。
私のお金や仕事に対するスタンスはこんなKさんに大きく影響を受けた。
1億円の収入があっても1億円使えば、残りはゼロ。そうお金を稼ぐことも、お金を使うことも一代で出来るが、お金の使い方を知るのには時間が掛かるという箴言は滓のように私の心に留まる。

Kさんが会社を辞めた理由のひとつは若いころの腎臓の摘出手術を行った際に肝炎に罹り、長い間体を蝕んでいたからだった。あまりの疲労の原因がそれだと分かったのはつい7年前だった。この病気にはインターフェロンという薬が効くのだが、Kさんの症状は進んでいて血小板の減少が顕著でこの特効薬は使えなかった。
それでも真面目なKさんは週2回の注射を欠かさず通い、1年前に肝癌と診断されてからも、小さな静脈瘤の塞栓手術や癌の内視鏡切除など体への負担の掛からない方法を選び対処続けてきた。

Kさんは地史が好きだった。検査入院するというので暇なときに読んでもらおうと渡した「東京暗渠案内」が最後の本になってしまった。

Kさんには奥さんと二人の子供がいる。長女は既に結婚して同居しているが子供はまだである。長男は独身でKさんはいつもその二つのことを気にしていた。
家族でもない私の出る幕ではないが、Kさんの真剣な相談をよそに物事のお膳立てを先にしなくて本当に良かったと思っている。Kさんはあちらで何を言っているんだと怒っているかもしれないが、こうしたことは最後の最後に決めれば良いことだと思っている。このことだけは先手必勝にあらずと改めて私が伝えることにしよう。
私のKさんへの恩返しは、少なくとも私の見ている間は家族にKさんの心が伝わっていましたよと伝えることだと思う。心を伝えるということは大変な作業である。一回や二回説明したくらいでは親子でも伝わらない。Kさんという人の歩んできた人生そのものを咀嚼してあげなければならないからだ。それが私の責務だと思っている。

今日、通夜、明日には茶混に付される。肉体はなくなっても精神は続く。家守として一番大切で難しく困難な仕事でもあるが、それが私の恩返しだと思っている。
いずれ私たちは後からそちらに行くことになる、そのときのために今からまた鯊つりの穴場でも探しておいて欲しいと思うのだが、あまり遅すぎると誰かと釣りに出かけてしまうかもしれないというのは私の心配のし過ぎか。