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2011年8月25日木曜日

三島 櫻屋

9月に国民休日法とか言う訳の分からない取り決めで出来た連休を巷ではシルバーウィークというらしい。

今年はうまく休めば7日になるという。

もっともレンが休めるのは2日間のみ。研究報告が大詰めをむかえようとしていた。

かねてよりレイが連れて行って欲しいと言っていた一泊二日で三島に行くことにした。

レンは友人の車を借りることにした。この友人は実家は同じ医者でも開業医で今年の連休は友人も一緒にイタリアに旅行に行くので、車は使わない。

ぶつけない、満タン返し、洗車有りを条件に借りることが出来た。

友人の車はトヨタのハイブリッドカーだった。何でも友人の父は「エコ」という言葉に弱く、買ったばかりのエアコンも「エコじゃないから」という理由だけで買い換えるようなに人らしい。

友人はうまくそのあたりをついて買ってもらったようた゛。

でもレンは実はそういう車が好きではない。ぬるっとした動き出しが爬虫類を思わせるし、車の音というのは心臓のリズムのようにある時には車の調子を伺うこともできるし、会話の間にこの音が入ることで親密な空間を幾分緩和してくれる気がするからだ。

車は小田原厚木道路に入り、伊勢原を通り越した。この通称「オダアツ」はネズミ捕りで有名な道路だ。

友人は買ったばかりのこの車を走らせた初日にこの道路で30キロオーバーで捕まった。

切符をきる警察官が「ありがとうございます」と言ったそうだ。

最短なら箱根ターンパイクで行くべきだが、タイヤメーカーの名を関して無料になったものの、寝不足なのに妙にハイテンションのレイのことが気になり、熱海ビーチラインを選んだ。それに早川で分岐する高架の道路が大きく右に曲がるときレイは飛行機に待っている気分になれることを知っていた。

熱海の市街地は閑古鳥が鳴いている。東洋のマイアミという錆びきった看板が過去の栄華をさらに物悲しくする。

車は小嵐町をぬけ、熱函道路を進む。

この道路は下りにはカーブが続くものの車の台数は少ない。

東京から一時間あまりでこの田舎の景色にかわる。

レイが目を覚ました頃には、車は狩野川近くを走っていた。

三島の駅前の楽寿園は今は市の管理する公園となっているが、ここは明治の造船王こと緒明菊五郎が私財を投じて確保した場所なのだ。

緒民氏はのちに台場に榎本武揚の助力を得も造船所を建設することになるのだ。

そんな公園を右手に見ながら、車は鰻屋の前を通りすぎた。

ふみきりを渡ったところの立体駐車場に車を止めて、少し戻るように鰻屋に入った。

よくみるとその鰻屋の脇に小さな川が流れている。

店に入ると昼食時を過ぎていたのにほとんど満席だった。二人は二階の大広間のような座敷に通された。

レンは窓の下の小川を眺めながら、三島が何故鰻屋が多いのか、レイに説明した。

でもレイは納得しない。

「だって湧き水が多いからというなら、安曇野や北海道もそうなの?なんかその理屈納得できないな。もっと他にあったんじゃないの。例えば肉魚禁止令かなんかあって、鰻は除外するとか」

レイは梅でいいと思っていたのに、レンが竹を頼んだ。折角なんだからというレンの強い勧めにレイは従った。でもうな重にはしない。うな丼である。うな重のあの重箱の隅をつつくという行為がレイは嫌いだった。嫌いというよりも、真っ白な丼ぶりの淵に鰻のたれのみが筋のようにのこり、残雪に春の進んだ景色を思わせるキップのよさが好きだった。

ほどなくして運ばれてきたうな丼は鰻は醤油の香ばしさが全体を包み込み、うなぎには旨味と滋味が交互に織り交ざった光り輝く衣のようにタレがまとまりつき、つやつやしたご飯にすっと味を沁みこませている。

二人は無言で食べ続けた。

食べ終わるとレイはレンに向かってペコリと頭を下げて「ありがとう、ごちそうさまでした。美味しかった」と言った。

レンはその姿があまりに可愛かったので、手を下に差し出して大きなヂェスチャーで「どういたしまして」と笑って答えた。

店の外では大きな籠に入れられた鰻が体をくねらせながら秋の日に金色に輝いていた。

車は高台のレンの実家に向かった。




蝉の声 つばめ

通り雨に打たれたレイは頭も肩もびしょ濡れだった。レンはハンカチをレイに渡したが、レイは「すぐ乾くよ」と受け取らずメニューに目をやる。

レイは「今日は絶対キーマカレーにしようと決め込んできたのだけど、やっぱりこのカダイブラウンにする。こんな雨に打たれて蒸し暑い日には、思いっきり辛いカレーがいい。それに海老は大好物」

独り言をいうように、レイはメニューから目を離さないで話し続けた。

「私、今迷っているの、来年には就活だけど今年も来年もひどいみたい。こういうの就職難民って言うらしいの。私難民は嫌だもん、だから大学院に進もうか迷っているの、もちろん水彩画で食べられるとは思ってないの、でも何かもっと学ばないと、駄目な気がしてるの」

レンはやっとメニューに目をやりながら、あらかじめ決めていたように

「俺、ホウレンソウのカレー、モグモグ・・・なんたっけモグレイカレー」

と言い終えると、レイに向かって話し始めた。

「いいんじゃない。世の中モラトリアムなんて馬鹿げているといわれるけど、この歳で何をするかなんて決められないよ俺だっておんなじさ、俺はまだ2年、専門科目も始まったけど医師になるなんて全然自覚無いよ、教授から専門は何にするかなんて聞かれても分かりっこない。レイの病気を研究しているのは免疫系の研究室でまるで実験室のようなところ。あれ医者じゃないでしょって思うよね。それにそこの教授がなんていうか、医者じゃないんだ。禿頭で子供のような恰好で研究室のビーカーでコーヒー沸かして飲んでいる。俺ああいうところ駄目だな」とレンはレイのビニールの袋に目を落としながら言葉をゆっくりとつなげた。

レイはレンの言葉をさえぎり続けた。

「私は絵を描くことは好きだけど、なんていうのか限界感じちゃうの、天性のものかと思うほどはっとする絵を描く人に会うと、私なんかたいしたもんじゃないと卑下しちゃうの。だからもう少し何かを身につけなければと硬くなってしまうの。先生は私の絵は私じゃなく、水が仕事をしているから良い絵だと褒めてくれるけど私はちっとも釈然としないの」

二人のテーブルに大きな焼きたてナンと海老のカレ、ホウレンソウのカレーが運ばれてきた。給仕は流暢な日本語で「この海老のカレーとても辛いです。ホウレンソウは少し」と笑いながら伝えた。

ホウレンソウのカレーはホウレンソウとジャガイモの甘さが出ていてこくがあって美味しい。一方、海老のカレーことカダイブラウンは海老の旨味を十分に引き出し、それでいてスパイシーな香りが胃を刺激する、辛さが尋常ではない。一口含めば鼻から汗が噴出す辛さだ。二人はお互いの料理を食べ比べながらカレーの一滴も残さずナンを指のようにして全て平らげた。

店を出る頃には雨は止んでいた。どこからかヒグラシの声が聞こえる。

数羽のつばめが雨上がりの街路樹の間を縫うように飛んでいる。

レンもレイもこの時期につばめをみたことがあっただろうかと自分の記憶のもやいを引き寄せたが、はっきりとしたことは思い出せなかった。

オムライス ことぶきや

今巷で洋食屋と名のつく店に入りオムライスを注文すると、ふわふわの卵でとろとろの中身が出てくるような高級なものが多い。

中にはケチャップの代わりにデミグラソースがかかっていたりする。

それに価格が高い、Sパパが言っていたように1500円を下限に2500円するものもある。

だから私は滅多ことではオーダーしない。

時折、時代遅れのガラスのショーケースにグリーンピースの見え隠れするサンプルが見えたりすると俄然嬉しくなる。でも出てくるものはチキンライスがジャーに入っていたようなパサパサのもので失意。

ずっと忘れていた名前を今朝思い出した。

子供の頃育ったK市の我が家の隣は中華も洋食も作る食堂だった。息子は東京の大学に行っていたが帰って父を手伝うようになった。

T大の空手部といえば泣く子も黙る猛者の集まりと聞くが、立派な体躯に比してその声は小さくはずかしがり屋だったと空ろに覚えている。

店の名前は「ことぶきや」だった。ずっと思い出せずにいた名前が、ふと目の前の霧が晴れるように今朝頭に浮かんだ。

私はここのオムライスが好きだった。卵は薄く、バリッとチキンライスを包む。チキンライスはケチャップとご飯の按配が丁度良く、鶏肉も申し訳程度に入っている。もちろんグリーピースも欠かせない。

紙ナプキンに包まれたスプーンを居てもたってもいられなくなりちぎり、卵をスプーンで割って食べる幸せは味憶に秘められたものだ。

あのオムライスどこかにないでしょうか?

写真は駒沢公園西口にある洋食屋ROMAMさんのランチチキンライスです。

これが一番近そうです。今度絶対に食してみます。




通り雨 ニコライ堂

レンは浪人していたころに叔母の家に居候していた。叔母は父によく似た顔つきで、話し方も父そっくりだった。

父は長野県のK市の出身である。あんずの里として有名な街だ。父はその街の農家の次男坊である。父の家は曽祖父、祖父、祖母、長男、次男、長女、次女、三女の七人の大家族だった。

長男は勉強が嫌いで、夕方遅くまで近くの山野を走り回っていた。一方、父は本が好きで幼いころから勉強が良く出来て、高校でも学年で上位にいて地元の国立大学の医学部にストレートで合格した。

そこそこ勉強の出来た叔母もほどなくして上京し、短大に進んだ。叔父と出会ったのはその頃である。

叔父は大学同士の合コンで意気投合し付き合うようになっようだ。叔母は短大を卒業すると大手のゼネコンに就職した。連れ合いは工学部の4年生大学だったので叔母より2年遅れて社会人となり、同じ建築会社に入社した。

もちろん人事部には二人が付き合っていた事を少しも漏らさぬように細心の注意をして面接に臨んだ。

会社の情報は叔母を通して筒抜けで、叔母は今でもそのことを持ち出し、あの人を合格させたのは私なのと嬉しそうに自慢している。

叔父は出会いの経緯は別として物静かな人で、建築会社といっても設計部の仕事なので内勤だった。趣味は読書と釣り。


長野県と言うのは教育県らしい、父の高校の進学率も高く、出来る子の家はそれを自慢にしていた。田畑を売ってでも子供を大学に入れるというのは、あながち嘘でもなさそうである。

叔父は残念ながら7年前に脳梗塞で急に倒れ、そのまま帰らぬ人となった。前日まで市ヶ谷の釣堀でのんびり鮒つりをしていたというから叔母の落胆が伺われる。

叔母には二人の子供がいる。小さいときには良く遊んだが、年を重ねるごとに疎遠になってしまった。レンと年の近い一人は高校を卒業して大阪の建築会社に勤めている。大阪では社員寮に居るようで、わずかながら叔母に仕送りをしているという。

もう一人の子供は高校の頃、ISSという留学制度で渡米し、その縁でアメリカ人女性と知り合い、大学卒業後は彼女の紹介もあり、外資系の食品会社に就職し、アメリカで暮らしている。彼女との間に女の子が一人いる。アメリカからの仕送りは何分制度的にも面倒らしく息子は帰るたびにお金を叔母に置いていくようだ。叔母は叔父が掛けていた生命保険と年金で今でも十分な生活をしている。

友達とも良く旅行に行くようだが、飛行機が苦手で、電車やバスの旅行がほとんどで、息子に子供が生まれるときに手伝いにきて欲しいと頼まれたときはほんとうに困り果てたようだ。最後には外国人の奥さんもらうから悪いのよと悪態をつきつつ、しぶしぶ飛行機に乗った。

そんな訳で叔母の家は空き部屋も多く、叔母の寂しさも和らぐだろうと、父が提案したのだ。

叔母は喜んでその提案を受け入れた。お金は要らないと叔母は言ったが、父はそれはそれ、これはこれ朝食も食べるし、風呂にも入るんだからと半ば強引に取り決め、朝食付き1月5万円の東京での下宿生活が始まった。

朝食は叔母と一緒に食べたが、昼と夜は外食がほとんどだった。

予備校は御茶ノ水のS台だった。阿佐ヶ谷と言っても南阿佐ヶ谷は中央線の阿佐ヶ谷駅には遠く、バスで中野駅に出て乗り継ぐのが日課だった。

御茶ノ水という街は面白い街だ。となりの神田とはまるで違う。勤め人が居るにはいるのだけど、目立たない。では学生が多いのかと言えば、そうでもない。いくつかの私立大学はキャンパスを郊外に移したこともその原因かもしれないが、多くの学生がまちまちの時間にやってきて去っていく、そんな時間の集約の無さも一端を担うのかもしれない。

レンは予備校生のとき、バツの悪い経験がある。すずらん通りという小さな商店が並んだ小路が、大通りに平行している。レンは高校を卒業したんだからパチンコは問題は無いだろうと気晴らしに入ったその店で興味半分でタバコをすっていた。そのとき警察官に職務質問をされたのだ。レンはなんでと怪訝な顔で学生証を見せるとその警官は卒業しているかもしれないけど君まだ未成年だよ。今回は大目にみるけど駄目だよと言われたのだ。そのとき以来レンはタバコを吸っていない。

予備校のときよく食べにいっていた洋食屋がある。いつも学生で賑わっていたキッチンKだ。

レンが好きだったのはハンバーグ定食、ハンバーグもさることながら、玉ねぎとベーコンがケチャップで味付けされたナポリタンスパゲティが付け合せについているのが好みだった。

レンは改札を抜けるとニコライ堂を右手に見ながら坂を下った。右手に笹巻けぬきすしの看板が見える。この店は江戸時代から続いているお店のようで。父が御茶ノ水に行くと必ずお土産に買ってきていたのでレンはその味を良く知っていた。しっかりと酢で味付けされていて、お土産用にはこの塩梅なのだろう。

少し早くついたのでひとりで2階の店に入り、窓際の席に座った。スパイスの香りが鼻孔をくすぐる。

少しお腹がすいてきた。

店の窓から坂を見下ろすと人々が足早に建物に入っていく。通り雨のようだ、人々は背広や荷物を頭を覆いながら足早に建物に入っていった。その様子は蟻の巣に水をかけて逃げ回る様子に似ている。

坂の上から白いビニールの袋を濡らさないように大切にお腹に抱えて走ってくるレイを見つけた。

袋には「檸檬 画翠」と描かれていた。

レンはレイに手を振って合図した。レイは雨が目にしみるのか、上目遣いに やや目を細めてレンを見上げた。



鎌倉探訪 ランチ

持ってきた大方の本を読んでしまったので、鎌倉駅近くの島森書店。
S.J.グールドの最後の著作「ぼくは上陸している」の上下巻と山本一力氏の食についてのエッセイ「味憶めぐり」を購入。後の本は題名買い。

セプとさくらに入れるものがなくなったので、夏バテ解消のため牛肉の赤身を鎌倉東急で購入。

安売りしていたので3パック購入残りは人間様用。

昼食時なのでお休みだった「あしなや」さんを覗くも本日も休業。もしや???閉店??

お隣の同じく「あ」のつく食堂です。前回食べたタンメンは普通に美味しかったので、今日はラーメン小(300円)とギョーザにビールです。

ラーメンは昔ながらの支那そばですが、いかんせん、麺が茹ですぎで太いです。スープとのバランスもいまひとつ、ギョーザは普通です。五個500円はちと高いです。

後のお客がタンメンをオーダーすると無いとの事。危ない危ない・・・・

鎌倉のお店と言うのは全てが美味しいと言うわけじゃないようです。この店は排骨麺、この店は天丼と言う風にさらに目的志向で行かないと連勝は出来ない仕掛けのようです。

さっきまで降っていた雨があがりものすごい蒸し暑さです。




読み続ける本 老人と海



この朔風社という小さな出版社は主に釣りにまつわる本の出版をしています。

今は文京区から国分寺に移ってしまいましたが、ちゃんと存在します。

私がこの本を購入したのは第二版の1993年ですから、やく20年前です。

訳者は秋山 嘉さんと谷 阿休さんです。

ということは逗子に置いてあったので、20回は読み続けています。

布の紫の装丁は日焼けして白くなってしまい、ページは黄ばんでいます。

そんな本ですが、毎年何かしらの発見があります。

老人と海の最後のシーンを思い出してください。

==本文よりの引用です==

「あれは何なの?」その婦人は魚の巨大な背骨を指差しながら、給仕の男に尋ねた。今、その骨はくず゜となって潮に乗り沖へ出ようとしていた。

「ディプロン」給仕の男は答えた。「鮫ですよ」彼は事の次第を話そうとしていた。

「鮫があんなに綺麗な恰好のいい尻尾を持っていたなんてしらなかったわ」

「ああ ほんとうだな」彼女の男友達が相槌を打った。
 
道をずっと上がったところにある小屋の中では、老人がまた眠り込んでいた。臥せのままの姿勢で眠っていた。その傍らに少年が坐って老人を見守っている。老人はライオンの夢を見ていた。



ここで疑問に思うのは、給仕は何故「ディプロン」といったのでしょう。ヘミングウェイは「海流に乗って」の中で、青鮫のことを他の鮫と区別している。さらにこの青鮫のことを頭がよく、度胸もよく、不思議な魚で、その内側に鋭く反った歯以外は、皮膚や目はメカジキに似ているともいっている。
そしてそのキューバ名は「デンツーソ」である。

さらに大きな体躯のガラーノという鮫はおそらくイタチザメの事と思われるがこれも違う。

つまり作者はここに最後に来て読み手に深く考え込ませているのだ。

そしてそのことはこの物語の結末が、鮫かカジキかということはどうでもよく、ただ死闘を繰り広げ己のすべてを出し切った老人から少年への経験という唯一の魔法を通して海という偉大な自然との関わり教えてくれているのかもしれない。

やはり名作は何度読んでも良いものです。

南風 夏

日に焼けたしなやかな腕をたわませて、その女性はディンキーのロープをつかみ、艇を風の吹く方向にまっすぐに走らせた。

この地方の漁師は西風を嫌う、春の間吹き荒れていた風が南風(はえ)に変り季節は夏を告げていた。

レイがレンとはじめたあったのは3年前の夏の日だった。

レイの病気はとても珍しい自己免疫疾患で、簡単に言えば自分が自分の体を攻撃し痛めつけるやっかいな病気だった。その治療前の数週間をここ葉山で過ごしていた。

医療技術の進歩で、当時開発されたばかりの新薬の治験が功を奏して、レイの体は徐々にもとの体に戻っていった。

そんなレイはその後美術大学に進学し、水彩画を専攻している。ディンキーをはじめたのは今まで病気におびえて何も運動らしい運動をしてこなかった自分に勇気を与えるためだった。

艇は白い灯台を迂回し、岩の上の鳥居を右手に見ながら正面から風を受けて疾走している。

レイのしなやかな長い髪の毛は少しだけ日に焼け金髪になっている。

もともと端正な顔立とすらりと伸びた手足で、周りから「ハーフ」と聞かれることも多かったが、レイはそういわれることがあまり好きではなかった。

レイの通う学校は高円寺にあり、下宿もその近くに借りた。週末の2日間だけここにやってくる。

ここ森戸海岸は多くの大学のヨット部が集まる。レイの艇もそんな学校艇庫にあるものだった。

レイは海から見る陸の景色が好きだ。小さなころ家族でハワイ旅行をしたときに、父親に連れて行ったもらった遊覧船でワイキキの街を見ているとき、あれほど旅行中、嫌だった、ワイキキの街独特の喧騒と猥雑さが海に消されて、美しい景色に変わったのが子供こごろに魔法をかけられたような気がしたからだ。

濃い緑の岸壁の上に雲が流れていった。無数の鳶が行く夏を惜しむかのように自由に舞っていた。

レイの携帯が着信を知らせた。いまは防水携帯という便利なものがあり、あまけにGPSまで着いているので、ギィンキー乗りには必携だった。

声はレンからだった。「今日はいけない。コメン、実験が長引いちゃって土日も学校なんだ。レイ、週明けの水曜日あたり会わない」

「いいよ、私も授業があるから、抜け出せるのは二限と三限の間だけ、場所は御茶ノ水あたりでどう?」

「OK・・・大学の生協では取り寄せられない本があって、三省堂に行くつもりだったからちょうどいいよ」

レンの父親は心臓外科医でその当時は葉山にある病院に勤務していて、一家は森戸海岸近くの一軒家を借りていた。今は三島の病院に転勤し、一家はレンを残し富士山の良く見える三島の小高い丘に居をかまえた。レンはひとり残り、一浪して父親と同じ道を選んだ。レンはもともと医学には何の興味も無かったが、レイの病気のことで気が変わった。

だからレンはレイよりひとつしたの大学三年生、大学の近くの木造下宿は菊坂にあった。多くの文豪が住んだ街としてよく雑誌に紹介されるが、実際の街はぼやけた感じで、今はその面影は感じられない。

「それじゃ、いつものあそこで」

「わかった、あそこね」

「時間は1時でどう」

「いいよ、1時ならお客さんもすいてくるしね」

その店はニコライ堂の近く、坂の途中にあるインド料理店だった。インド人の作る料理は総じてどれも日本人向きにアレンジしていない。そんなところがレンもレイも好きだった。

ディンキーは後ろから風を受けながら、海岸向かってすうっと走りだした。

一匹のカモメがその後を追うように波すれすれのところをふわりと飛んでいる。



お酒の話 

お酒にまつわるお話は数々あります。

ヘミングウェイがキューバの「アフロディータ」で飲んでいたダイキリは砂糖をほとんど入れないシャープなものだったとか、チャーチルが好んだマティーニは執事にベルモットを持たせていただけのスーパードライだったとか数知れません。

ロンググッドバイを読んだ人なら、ギムレットも外せません。

さらにイーグルスの世代の人には「テキーラサンライズ」はグループの代名詞のようなものです。

ところでBARとは何故BARなのか知っていますか?

そうです、カウンターに止まり木があるからです。

では何故止まり木がついたのか知っていますか?

諸説はあれど、馬にまたがって酒場にやって来たころ酒場には馬をつなぐBARがあったようです。

もちろん表にです。

それがいつからか馬が車に変り、外のBARを馬ならぬ人の止まり木にして捕まえたというのはなんとも乙な話ではありませんか。

酒にまつわる話は乙のものが多いのも楽しいものです。

モスコミュールというカクテルがあります。直訳するとモスコーのロバ??これじゃなんだか分かりませんよね。ロバとはスラングで密造所の意味。これも禁酒法の名残です。

コカコーラこれ本当にあったカクテルです。もともとはコカインを蒸留した飲み物でしばらくすると薬になり、販売も禁止され、名前だけコカコーラが残ったそうな・・・お酒にまつわる話は興味深いものです。

今飲んでいるのは、エバンウィリアムスのソーダ割です。理由はありません・・・・

でもコースターはシンガポールのタングリングクラブのあのギネスを飲んだときのものです。

あと家にあるのはパリの「ハリーズ」とハレクラニの「ラメール」のコースターです。