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2011年8月25日木曜日

通り雨 ニコライ堂

レンは浪人していたころに叔母の家に居候していた。叔母は父によく似た顔つきで、話し方も父そっくりだった。

父は長野県のK市の出身である。あんずの里として有名な街だ。父はその街の農家の次男坊である。父の家は曽祖父、祖父、祖母、長男、次男、長女、次女、三女の七人の大家族だった。

長男は勉強が嫌いで、夕方遅くまで近くの山野を走り回っていた。一方、父は本が好きで幼いころから勉強が良く出来て、高校でも学年で上位にいて地元の国立大学の医学部にストレートで合格した。

そこそこ勉強の出来た叔母もほどなくして上京し、短大に進んだ。叔父と出会ったのはその頃である。

叔父は大学同士の合コンで意気投合し付き合うようになっようだ。叔母は短大を卒業すると大手のゼネコンに就職した。連れ合いは工学部の4年生大学だったので叔母より2年遅れて社会人となり、同じ建築会社に入社した。

もちろん人事部には二人が付き合っていた事を少しも漏らさぬように細心の注意をして面接に臨んだ。

会社の情報は叔母を通して筒抜けで、叔母は今でもそのことを持ち出し、あの人を合格させたのは私なのと嬉しそうに自慢している。

叔父は出会いの経緯は別として物静かな人で、建築会社といっても設計部の仕事なので内勤だった。趣味は読書と釣り。


長野県と言うのは教育県らしい、父の高校の進学率も高く、出来る子の家はそれを自慢にしていた。田畑を売ってでも子供を大学に入れるというのは、あながち嘘でもなさそうである。

叔父は残念ながら7年前に脳梗塞で急に倒れ、そのまま帰らぬ人となった。前日まで市ヶ谷の釣堀でのんびり鮒つりをしていたというから叔母の落胆が伺われる。

叔母には二人の子供がいる。小さいときには良く遊んだが、年を重ねるごとに疎遠になってしまった。レンと年の近い一人は高校を卒業して大阪の建築会社に勤めている。大阪では社員寮に居るようで、わずかながら叔母に仕送りをしているという。

もう一人の子供は高校の頃、ISSという留学制度で渡米し、その縁でアメリカ人女性と知り合い、大学卒業後は彼女の紹介もあり、外資系の食品会社に就職し、アメリカで暮らしている。彼女との間に女の子が一人いる。アメリカからの仕送りは何分制度的にも面倒らしく息子は帰るたびにお金を叔母に置いていくようだ。叔母は叔父が掛けていた生命保険と年金で今でも十分な生活をしている。

友達とも良く旅行に行くようだが、飛行機が苦手で、電車やバスの旅行がほとんどで、息子に子供が生まれるときに手伝いにきて欲しいと頼まれたときはほんとうに困り果てたようだ。最後には外国人の奥さんもらうから悪いのよと悪態をつきつつ、しぶしぶ飛行機に乗った。

そんな訳で叔母の家は空き部屋も多く、叔母の寂しさも和らぐだろうと、父が提案したのだ。

叔母は喜んでその提案を受け入れた。お金は要らないと叔母は言ったが、父はそれはそれ、これはこれ朝食も食べるし、風呂にも入るんだからと半ば強引に取り決め、朝食付き1月5万円の東京での下宿生活が始まった。

朝食は叔母と一緒に食べたが、昼と夜は外食がほとんどだった。

予備校は御茶ノ水のS台だった。阿佐ヶ谷と言っても南阿佐ヶ谷は中央線の阿佐ヶ谷駅には遠く、バスで中野駅に出て乗り継ぐのが日課だった。

御茶ノ水という街は面白い街だ。となりの神田とはまるで違う。勤め人が居るにはいるのだけど、目立たない。では学生が多いのかと言えば、そうでもない。いくつかの私立大学はキャンパスを郊外に移したこともその原因かもしれないが、多くの学生がまちまちの時間にやってきて去っていく、そんな時間の集約の無さも一端を担うのかもしれない。

レンは予備校生のとき、バツの悪い経験がある。すずらん通りという小さな商店が並んだ小路が、大通りに平行している。レンは高校を卒業したんだからパチンコは問題は無いだろうと気晴らしに入ったその店で興味半分でタバコをすっていた。そのとき警察官に職務質問をされたのだ。レンはなんでと怪訝な顔で学生証を見せるとその警官は卒業しているかもしれないけど君まだ未成年だよ。今回は大目にみるけど駄目だよと言われたのだ。そのとき以来レンはタバコを吸っていない。

予備校のときよく食べにいっていた洋食屋がある。いつも学生で賑わっていたキッチンKだ。

レンが好きだったのはハンバーグ定食、ハンバーグもさることながら、玉ねぎとベーコンがケチャップで味付けされたナポリタンスパゲティが付け合せについているのが好みだった。

レンは改札を抜けるとニコライ堂を右手に見ながら坂を下った。右手に笹巻けぬきすしの看板が見える。この店は江戸時代から続いているお店のようで。父が御茶ノ水に行くと必ずお土産に買ってきていたのでレンはその味を良く知っていた。しっかりと酢で味付けされていて、お土産用にはこの塩梅なのだろう。

少し早くついたのでひとりで2階の店に入り、窓際の席に座った。スパイスの香りが鼻孔をくすぐる。

少しお腹がすいてきた。

店の窓から坂を見下ろすと人々が足早に建物に入っていく。通り雨のようだ、人々は背広や荷物を頭を覆いながら足早に建物に入っていった。その様子は蟻の巣に水をかけて逃げ回る様子に似ている。

坂の上から白いビニールの袋を濡らさないように大切にお腹に抱えて走ってくるレイを見つけた。

袋には「檸檬 画翠」と描かれていた。

レンはレイに手を振って合図した。レイは雨が目にしみるのか、上目遣いに やや目を細めてレンを見上げた。



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