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2012年5月9日水曜日

好きな街  Paris

ヨーロッパの街はどこも歴史的すぎて私達を容易に受け入れてくれない。

パリを訪れたのは仕事の商材を集めるためだった。私は妻の用心棒といったところだ。

パリにはその後1年に1.2回は出掛けるようになった。お店を辞めるまで5.6年通い続けた。

最初にパリに着いて向かったのはモンマルトルの坂の途中にある小さなホテルだった。

重い荷物を石畳の階段を引ずるようにしてそのホテルまで運んだ。

ホテルはレストランもない小さなもので、部屋にはスーツケースを入れると動き回れるスペースもなかった。

このホテルは画家たちが集まり、アトリエとして使われていたと表の看板に書いてあった。

ユトリロやロートレックと同じように、小さな部屋の窓からモンマルトルの坂を行き交う人の姿が良く見えた。

季節は9月の末だと言うのに異常気象の影響からか、夏のような暑さで、昼間は半袖でも暑い位だった。

私が階段のベンチに腰をおろして妻を待っていると、階段の下の方から身長は2メートルを超えるような真っ黒な大男が近づいてきた。

一瞬身構えたが、その男は私に握手を求めてきた。男はセネガルから出稼ぎにやってきているようだった。すぐしたのレストランで下働きしているので遊びに来るように誘ってくれたのだ。どうやら日焼けしてぐたぐたのコートを羽織った私も同様の出稼ぎと間違えたようだった。

モンマルトルという駅は無い。一番近いのがアペスという駅だ。

駅とは反対側に坂を上って行くとサクレクール寺院がある。高台の広場は画家たちが思い思いの絵を描いて観光客に売っていた。

ここからパリの街が一望できる。パリの街には様々な形のチムニーが屋根に張り付いている。

パリの屋根が見えるのだ。

坂の下にはぶどうの栽培をしている畑が広がっている。ワインの国といっても街中でブドウの栽培をしているところは少ない。

その後もっと高級で立派で快適なホテルに泊まったがこの最初のホテルが一番印象深い。







好きな街  Hongkong

まだ啓徳空港だった頃、飛行機はビルすれすれにこの空港に舞い降りた。世界でももっとも離着陸の難しい空港だという。

飛行機はBAの経由便だったために3時間近くデレイトして空港に着いたのは10時近かった。

香港島から九龍に向かうにはフェリーか海底トンネルになる。

この時はトンネルだったが、フェリーで九龍の灯りが徐々に大きくなるその光景はこの街に来た実感が増す。

いずれ壊される予定だと言う九龍城は明かりもなく、入り口を閉鎖されていてまるで巨大な怪物を動けないように雁字搦めにしているようだった。

ブレードランナーに出てくる近未来の世界は香港そのものだ。新しさと古さがごちゃまぜになり、どことなく湿った雨の匂いを感じさせる。

香港に来て3回目の時、鳥籠を通りのあちこちで売っている所にいった。階段を上りその通りに出た。するとさっき通り過ぎたはずの街の景色がまた広がった。既視感。

この街の色は晴れていても、鮮やかではない。どこかピンボケしたようなデイドリーム。通りで大きな牌で麻雀をしている人達も向う側にある。

そのくせ夜になるとそのくすぶっていた色とは裏腹に原色の世界になる。強烈でどぎつさはどこか人間の欲望に似ている。

この街の不思議さに魅せられて1年間に3回も訪れた事があった。

中国に返還されてからは一度もいっていない。




好きな街  NY

私は街が好きだ。喧騒と街の息遣いが感じられるようなそんな街が好きだ。夜、一人で放り出されるとそのカオスの中で方向感覚を見失うようなそんな街が好きだ。

まだワールドトレードセンターのツインビルが存在していた頃、ニューヨークの分水嶺=watershadwである初夏のシラキュースの上空を通過してJFKに降り立った。

空港の施設は古びていて、空港内の荷物用カートも鈍色の傷だらけの物が散乱していた。

しばらく前にこの空港を舞台にしたターミナルという映画を観たが、この時のJFKは時代の疲れを一気に背負っていた。

タクシーはマンハッタンを結ぶ橋の上を走っていた。対岸のレンガ造りの建物のペントハウスにはサマーベッドとパラソルが用意され、主人の帰りを待っているようだった。

日はいよいよ西に傾き、ガラス張りのビルを橙色に染めて漆黒の夜に姿を変えて行った。

私はインド人の運転手礼を言い、ほんの少し多めのチップを渡した。

私の泊ったホテルは前の方の建物こそはネオゴシック様式で、蛇紋岩の柱にレリーフが施され荘厳さを醸し出していたが、宿泊する建物は構想のタワービルで薄っぺらい内容のホテルだった。

エッグベネディクトは1920年代にこのホテルのレストランで二日酔いの常連客に出したのが始まりだったと何かの本に書いてあった事を思いだした。

翌日は真夏のような天気で、街を歩く人は上半身裸の人までいるくらいだったが、この熱気は今日がプエルトリカンの祝日であることも加わっていた。

この日ばかりは警察も大目に見ているのか、街の中では派手なクラクションを鳴らしながら、国旗を靡かせて通り過ぎる車も多かった。

セントラルパークの木陰で涼をとりながら通りに目をやるとパレードが始まったようだ。

沿道は多くのヒスパニック系の人々で埋め尽くされ既に立錐の余地はなかった。そんな中、いかにも場違いのサイクルウェアに身を包んだアングロサクソンのカップルが無理に自転車でその群集を横切ろうとするので、群衆から野次が飛んでビールをかけられていた。

夜半までその熱気は続いた。

私はグランドセントラル駅まで歩いた。この駅はニューヨークで好きな場所である。以前この駅を題材にクロッシングという小説を書いたことがある。この駅は人種の交差点である。白人もいればアフリカ系黒人、ヒスパニック、アジア人・・教科書で習った人種の坩堝である。

日本の駅と違うところはその天井の高さだ。アーチ型をした天井は高く、綺麗な曲線を描いている。

靴磨きの黒人と目があった。黒人は笑いながらまたくるりと向きを変え、関係ないねといった顔をしていた。

私の脚元はキャンパスのスニーカーだったからだ。良く見てみるとキャンパスの時代遅れのスニーカーを履いているのは私ぐらいなもの、そもそもスニーカーの人が少ない。

ダコタハウスについたのはその翌日だった。