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2013年2月1日金曜日

サボテンと私


サボテンと私

小さい頃から何かを集めるのが好きだった。切手やコイン、観光地のバッジなんかも集めていた。この収集癖は何から来ているのだろう。小学校3.4年生の頃だった。毎月、お小遣いを握りしめて近くの園芸店に通った。錦桜橋という鉄骨製の橋のたもとにあった。その橋は厚い鋼鉄を無骨なボルトで締めあげられた男っぽい橋だった。今はコンクリートのぺらんとした無機質な橋に変わってしまった。

その園芸店の軒先には小さなプラスチックのポットに入れられたサボテンが大きな木枠に囲まれて数十鉢並べられていた。その中から珍しそうなものを見つけて1鉢ずつ買っていた。1年を過ぎた頃には10種類のサボテンが揃った。母は邪魔だと言わんばかりにサボテンをやじるがサボテンは動じない。

サボテンは決して寡黙ではない。サボテンは陽気だ。じっと見つめていると話しかけてくる。だが決して騒々しくもない。彼らは哲学者というより地理学者のようだ。
人間が容易に住めないような厳しい環境に適応するためだけに自分を進化させた。いや敢えて言うなら余分な物を切り捨てて退化したのかもしれない。そんな彼等は私達と同じ空気や水を吸って生きている。

事務所の新築祝いに何が欲しいか尋ねられ、サボテンと答えた。事務所には2鉢のサボテンが元気に育っている。そして昨日また小さなサボテンを6鉢購入した。

皆さん何故サボテンと言うかご存知か?元々は南蛮人がこの植物の樹液を石鹸代わりに使っていたから、シャボンテンがサボテンに変わったということである。

英語ではカクタス棘だらけの植物という原意とのこと、日本の方が面白い。


しばらくサボテンの声に耳を傾けよう。





まくら とよかつ 恵比寿



恵比寿で15年間飲食店を経営していた。経営していたと言っても雇われマスターだったので気苦労は多かったが実入りは無かった。人が足らない時には皿洗いまでして手伝った。あの頃はどうしてそこまで頑張っていたのだろうと思うが、人間そういうものである。
私の店は名酒菜席いちという45席ほどの居酒屋だった。駒沢通りに面して間口が狭くその奥にあった下宿をそのまま改装したものだった。当時は景気が良かったせいもあって、毎晩のようにウェイティングが出ていたこともあった。当初運営は外部に委託していたがバブルの煽りを受けてその会社は消えて行った。その後は職人を入れるも長続きせず店は荒れる一方だった。結局、自分たちでやるようになった。メニューも何度も試作して自分たちで作った。中でも評判が良く売り切れが続出したのがインド風の肉じゃがと鰯のコロッケだった。前者は所謂カレー風味の肉じゃがである。ただし、パプリカとトマトがアクセントになっている。鰯のコロッケは鰯を一匹手開きにしてコロッケを作る。昨今の鰯の不漁ではとても高くてお客様に出せないだろう。
そんなとき働いていたスタッフと夜食を取るのが日課だった。夜食と言っても掃除して店を出る頃には12時を回るのだから開いている店は限られる。当時は斜め前に美味しい頃の恵比寿ラーメンがあり納金所の隣にある香月でも良く食した。洋食が食べたい時には代官山のポエムでイカスミのパスタを食べたりもした。今考えると信じがたい夜型だった。店でも焼き鳥を出していたのでスタッフと焼き鳥屋に行くことはなかったが、遠くから客人が来て満席で自分の店に入れないときなど私が時間つぶしがてら使うのが恵比寿のとよかつだった。
ここはいわずとしれたホルモンの店である。ホルモン好きにはたまらないであろうが、実は私はあまり得意ではない。食感云々より脂っこいと感じてしまう。これは今も続いている。ここの名物につくねに韮を巻いたまくらという一品がある。実はこれが私の大好物なのである。店で出していたつくねには生ハムも入れたちょぃと西洋風の味付けであるが、こちらはホルモン屋で出す直球勝負のつくね串である。プレディナーとしてこの串を1本とビールを一杯飲む頃には店の席が用意出来たと連絡を受ける。今の様に携帯電話は無い。アルバイトの男の子が自転車で呼びに来た。この店のまくらを見るとあの頃、東奔西走して我武者羅に走っていた自分を思い出す。