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2012年3月16日金曜日

コラージュ/collage  コラージュのもと

私は会社に入る前にその会社で2カ月近くアルバイトしました。

今ならなんで入る前にするのか不思議ですが、当時の貧民学生にはもっけの幸いでした。

そんなアルバイトの中、ファション連絡局(当時はそういっていた)のアルバイトは来る日も来る日も新聞と雑誌の切り抜きでした。

実はこれが当時の私にはハマってしまい、とても大好きになっていったのです。

ELLEやMODAのような高級な外国の雑誌を好きなように切りつけ、貼って行く作業が妙にしっくり来たのです。

最初は情報のラペリングだけでしたが、次第にその情報の組み立て方や、情報のネットワークさらにアイデンティティまで意識するようになりました(もちろんそんな事は会社のお姉さま達には秘密でした)

フランス語でこの切り張りのことをコラージュといいます。れっきとした芸術の一分野にあたるのだそうです(私はそんな事意識したこともなかった)

今でも字は下手糞で筆不精ですが、切り張りは大好きです。

ジャジャーン!!!!私のお気に入りのサイト「密売東京」にこんな面白い商品がありました。

コラージュの袋入りです。他人が仕掛けたコラージュのもと、絶対見てみたいと思いませんか?

当て袋(私の地域ではそう言っていた)を開ける前の楽しみのような・・・ゾクゾクします!!!

早く届かないかな!!!待ち遠しい週末です!!!





代官山 蔦屋書店






テレビでも良く取り上げられている代官山の書店に行ってきました。

いや、お金かかっています。はっきり言って単体では厳しいでしょう。

CDのコーナーにはマニア垂涎のギブソンの335のしかもラリーカールトン&マツモトのタブネームです。ほほほほーーーしいー!!!!

店内の家具も中々、お洒落です(今風に)

文房具のコーナーにはモンブランを除いた各メーカーの万年筆が天井までディスプレイされていましたが、万年筆は横に並べた方が見やすいです。

もうひとつ北村写真機店というお店が入っています。ライカの古いカメラから最新のデジカメまで取りそろえて、なんとレンタルもしています。高級な一眼を買う前にこんなところで試してみるなんて方法は良いかも・・・・・

まあ、総括すると・・・・何と言うか、大型戦艦のブームが去った後の戦艦大和の建造とでも申しましょうか・・・・・つまり、紙やCDなどの実媒体の時代の終焉を告げるようなお店であるのかなと・・・・そんな感じが歪めません。

ipadがコーナーコーナーに配されていることが、さらに何か物悲しさを漂わせているような・・・・・

ペリカンのブルーブラックのインク瓶と春らしいボッサのCD2枚、お買い上げ!!!!

駐車場にはSEAFカラーに塗られたP.F.Sの車が停まっておりました。


温故知新 1989年

私が恵比寿で飲食店を始めたのが1989年の10月でした。

あの頃の恵比寿には一風変わったお店が点在していました。

恵比寿の商店街にはものすごく地味な本格的なアウトドアショップ「銀河山荘」なるお店があったり、閉店してしまった「香月」もまだ拡張する前でした。

そんな中、温故知新というお店も恵比寿で産声をあげ、その後中目黒に移転し、20年以上、続けていましたがこのたび、大船に移転してしまいました。

中目黒で仕事をする上でこうしたユニークなお店の存在もさることながら、古い物の良さ、つまり温故知新の心得を学んだものです。

東京は確かにエキサイティングな街です。ある人が言っていたように、変わるそのスピード尋常でなく、そこがこの街の魅力だと・・・・確かにその通りです。

ただ、最近の若い人は作られたもの、与えられたものより、拘って拘って自分流にカスタマイズしたいという欲求が強いのです。

そこを旨く利用して、ポンと背中を押してやるだけで、揺れ動く分子が収束し、一点に結実してまとまるのです。

そんな私が企画した物件です。たまには仕事の話でも宜しいでしょう???

ちなみに神社は企画してません(笑)

これは1階が美容室、2階はギャラリーです。耐震強化して事業化しました。利回り***%。とても申し上げられません!!!


袋地の建物をそのまま使っています。大物芸能人出没率高し!!!


これはその隣の隣のたてもの、2階はスチール撮影にも適した事務所兼打ち合わせ所兼ギャラリーです。オーナーはTVで引っ張りだこのA女史。


アイアンの看板や、古いオイル缶が所せましと並べられたおもちゃ箱のような店内です。


ここも2階の美容室です。とても律儀なしっかり方です。


級友以上戦友未満  中目黒会

私にも級友以上戦友(戦争して無いので戦友は難しいかな??)未満の友達というものがおります。

何分我儘の私だけにそう多くはありません。

高校の時の数人と大学に入ってからの数人です。10指で余ります(笑)

30代の頃はそれぞれの生活が忙しくて会う機会はほとんどなく、40代もその延長でした。

ところが50歳を前後して、よく会うようになりました。マウイに隠遁していた昨年10月は参加できませんでしたが、日本橋会も立ち上げ近くの職場の後輩も参加し、結構盛り上がります。

新宿、大久保での開催も定例化しつつあります。

今日はそのうちのK氏が「4人だけで飲まない?」と珍しく限定的にお誘い。確かに人数多いとほとんど話も出来ないことがあるのです。

本日は「中目黒会」です。

縁あって私のBMWのサービスフロントのひとりOさんの兄弟が中目黒に開いたお店です。

早帰りの私はO氏に紹介しときながら、まだ訪れた事がありません。

O氏は良く使ってくれているようです。これも「縁」為せる技とでも言いましょうか・・・・

写真は後ほどアップいたします(アップ出来る写真があるかは分かりませんが?)

鵠沼から澤も参加します(笑)

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いや、お魚旨かったです。ジャン・レモ(ン)も3杯も飲んじまった・・・・・それにしてもこの3人と会うと30年の時間をワープ出来ます。(笑)


ここまで続いているのは皆真面目に人生を真っ当に生きてきたからでしょう。自分たちを褒めてあげましょう。



Shabby Chic

近頃目に留めたShabby Chicな風景です・・・・・・







三度目の正直

M工務店とK建築設計事務所のご厚意によって我が家のフローリングの貼り直し作業が終了しました。何分、狭いリビングなのにピアノはあるし、大きなテーブルはあるしとても一筋縄でいかない作業環境の中、本当にお疲れ様でした。

今回の材料は、北米産のオークの節目の無いものです。厚さは19ミリです。前回のカラ松は材質的には柔らかかったのですが、面取りをしていなかったことがささくれの原因でした。

今回のものはきちんと面取りをされています。

塗装はオスモのクリアーラピッド(ラピッドだと3.4時間で乾燥)を2回塗り、その上にオスモワックス&クリーナーです。

当分はこまめにこのワックス&クリーナーで木部にカルナバ蝋を浸透させ撥水を高めようと思っています。

鎌倉のフローリングの方が少しグリーンかがっています。分かります??



過剰な自己愛

この本は精神科医の香山リカさんのお薦めの本です。

中々面白い内容です。自己愛も過剰になれば人格障害の一種ですから、社会的に不適応となることもありこれはこれでまあ良いのですが、この本に書かれているような丁度境界上にあり、一見すると普通の人が強い自己愛を包しており、本人もそれを自己愛と気づかないケースがやっかいなのであります。

よく、子供は親を超えてとか昔の人は言っていました。でもね、今の社会徒弟制度でもあるまいし、どの部分で比較するのかしらん???と思ってしまいます。存在空間の次元が違うのです。

東京大学の入学式で安藤忠雄氏が子供に一人旅をさせて、親は子供から離れなさい(精神的に)
と強く言っていました。本当にそう思います。私に至ってはあの入学式の出席は子離れの儀式のつもりでもあり、子供を俯瞰してみることを自身に約束したものでもあります。

何故、親は背中を見せるだけでいいか分かりますか?

それは正面から見ていたら影響が強くて、子供の発達に良い影響を与えないばかりか、自立しないからです。だから背中程度で良いのです。

私の知り合いの多くの個人事業主はその事業を子供に継承したがります。そんな親と子供に限って二世特有の人生を歩み、子供が死ぬ間際に「俺はそんなはずじゃなかった」の言葉を残すものです。

個人事業主に限ったことではありません。サラリーマンでも多くの専業主婦は夫という潜望鏡を通してしか外(世間)を見ていません。いや、サークルや友達との関係もあるからそんなことは無いと反論する向きもおありでしょうが、所詮、お金の関わりの無い社会とそうでない社会は異なるのです。

こうした主婦は夫の向うにある社会が全てだと思っているのです。ここで理知的な人ならば「それ以外の社会」があることをうすうす知り得ているのです。うすうす知り得ているので恥ずかしながらその社会に限定することを避けるのです。一方、自己愛が過剰な場合、その「それ以外の社会」はないものとして否定します。つまり、うすうす知り得ていることを否定してしまうのです。これは否定の肯定つまり自己否定を最初から回避する行動です。

こうした傾向は、またたくまに子供に伝播します。子供は親に言われたようになるために他の道を閉ざして一生懸命に努力するのです。親の道をそのまま脇目もフラズニただ歩き続けるのです。

人生は山あり谷ありですが、どんどんと谷を下っていった人間のお話をします。

彼は有名大学を出て、マスコミ志望でマスコミに合格しました。そうこう勤めているうちにあるトラブルに巻き込まれ退職を余儀なくされ、しばらくして別のマスコミに再就職しました。

そこで数年勤めたものの今度はリストラされました。

彼はそのたびに「俺はこんなはずじゃなかった」と言い続けていました。しかし、すでに40歳を過ぎていた彼を拾ってくれるところなどなく、それ以来ずっとアルバイトで生活を食いつないでいると聞きます。

考えてみて下さい。ユニクロもアップルも、楽天もグーグルも私たちが就活しているときには無かった企業です。

今大企業だからと言って将来も安泰と考えるのはお門違いです。それよりも自分が採用された企業こそ縁のある企業と考え、「こんなはずじゃなかった」ではなく「縁あって採用してくれた企業」と捉えて楽しく、元気に生活をすることをお薦めします。そうすれば自ずと幸せは訪れてきます。

幸福も災難もすべてひとりでにやってくるのではない。どちらも人が連れてくるものなのだよ(客家格言)

追悼 吉本隆明

吉本隆明氏が逝去した。あの人は100歳になっても200歳になっても死なずに己の好き勝手なことを言っていると思っていただけに残念。黙祷。

氏の著作は数あれど最近は「真贋」など比較的穏健な思想もあれど、氏の行動をたどると氏の本性ともいうべき鋭い刃の短剣のこどく、物事を切り裂いていく姿があらわれる。時には自身も傷つきながら。

私が氏の著作を読んだのは17歳の春だった。

当時、政治や思想に歌舞きかけていた少年が、当時の高校では珍しい京大出身の若い現国の担任に共産主義や社会主義のことを学ぶためにどんな本を読んだら良いか質問した時、先生はこの吉本隆明氏の「転向論」を貸してくれた。

そこで17歳の少年が目にしたものは、誰もが口をつぐんで話そうとしない物事つまり闇の部分を白日の下にさらして堂々と批判している吉本の姿だった。

少年はそれ以来共産主義にも社会主義にも距離を置いて冷めた目で見るようになった。

もうひとつ、氏の著作(著作というより論戦)で当時のインテリゲンチァアを厳しく批判していた、中でも丸山眞男氏のそれは先鋒だった。

最近、読み直し再考している丸山眞男も、こんな吉本との論戦があったために、私の中では隅に追いやられていたのかもしれない。

構造主義の哲学者にも手厳しかった、彼らを一刀両断し、話していて理解すべく事の亡き輩とまで言っている。ドゥルーズに至っては「イスラム原理主義が大切なんて、何ほざいているのか、そんなの関係ない」と一蹴している。

氏はこうした西洋的思考の限界を観ていたのかも知れない。一元論的思考、絶対主義的思考、こうした他者との卓越性を基とした思想はヒトラーの民族浄化の思想と何ら変わることの無いものだと・・・

会社に入り、初めて光が丘団地を目にした時に、17歳の時に読んだ「転向論」が西陽の向うから立ち上がり、団地を被覆した。そうあのときにある思想と現実が一点で昇華したのだ。

巨星、落つる・・・・黙祷・・・