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2013年1月9日水曜日

この5年間

ブログを始めたのが2008年8月ですから、今年の8月で5年間となります。一日も休まなかったといううこともなく、風邪を引けば休むし、海外に出掛けたらサボるという、だらしない訳ですがなんとか5年間近く続いています。

この5年間で何が変わったかと言えば、ブログに日々の取りとめのないことを書いていたものの一部をFACEBOOKに変えて、ブログでは少しまとまった事を書こうとしている(一応努力 笑)くらいですが、書いている本人は蓬の白葉も多くなり、体中に故障が出るようになりいつでもスタンバイOKと行かなくなったことでしょう。

それ以上にセブとさくらは歳を取りました。セブは長い距離が歩けなくなったし、さくらもジャンプして車に飛び乗ることも一人では出来ません。

彼らにとっての5年間とは人間の30年以上かもしれませんから。

これからはそうして歳を取って老犬になった彼らとの楽しいこと、そしていつかくる別れの事、そんな老人の日々はFACEBOOKで、そして歳に贖うように毒づきながらも頭の中に巡る言葉を見こちらで綴っていこうと考えています。

昨年には娘が嫁ぎました。今年は予定では孫が生まれます。確実に年老いて行くのですが、ひとつ若い頃に感じていたものと違うものがあります。

子供を育てるのに大変な30代は一日を人生で言えばまだ午前9時頃でしょう。あの時には日没なんて想像さえ出来なかったのですが、今そこに近づくと夕暮れはそれはそれで良いものです。

たぶん朝のすがすがしい空気も、焼きつくような真昼の太陽も、突然降り始めたスコールもみんな経験したからそう思えるようになったのかもしれません。

尤まだまだ若輩、早いぞとの厳しい御叱りも聞こえますが、偽らざる心境です。

人間万事塞翁が馬、世の中に生かされているだけなのです。フランクルの言葉にあるように人生の意味を考えるより毎日を生きよ、そこに意味があるのです。

ニーチェが明る日昼間には暗闇の気持ちなど分からないと言っていますが、暗闇だって昼間の気持ちが分からないのですから、陰と陽はひとつなのです。

タウンアンドカントリー???

ハムカツサンド 戸部 開勢堂ベーカリー


ハムカツサンド 戸部 開勢堂ベーカリー

私の生まれた北関東の街には新盛堂というパン屋があった。今はなくなってしまったようだが、高校生の一時期アルバイトをしたことがある。どういう理由でアルバイトを始めたか仔細は思い出せないが、とにかく一時期ここで働いたことがある。
店は1軒半ほどでガラス製のショーケースが間口目いっぱいに据え付けられていた。そのケースの中には焼きそばパン、コロッケパン、サラダパン、そしてハムカツパンなどの総菜パンが並べられていた。
私は今でもキャベツの千切りが得意である。実はこの時に、今まで料理をしたこともない高校生が毎日毎日キャベツの千切りをしていたのである。キャベツの千切りにはコツがある。キャベツを外側から一枚ずつ使ったり、スライサーで千きりにする横着者がいるようだが、あれは良くない。大体、キャベツの外側と内側では味や食感も異なる。これらを上手くミックスしなければ美味しいキャベツの千切りにはならないのだ。そして芯の部分が実は一番甘いのだ。この部分も細く千切りにして使うのだ。つまり捨てるキャベツの多い人は千きりが下手という訳だ。同県の北部に一大生産地が広がるところでもあり、また赤城山の山麓でも栽培していたので安価で手に入りやすかった理由もあろうが、とにかく毎日沢山のキャベツを使っていた。
当時の肉屋にはコロッケとハムカツが主流だった。トンカツなんて高根の花、ショーケースになんて並んでなかった。せいぜいメンチカツが大将の様なもので、市民プールの帰り道胃袋を満たしたのはコロッケとハムカツだった。この頃、コロッケはまだしもハムカツはとんと見かけなくなった。あの薄くて弱弱しいハムカツこそがあの頃の私の様で懐かしいのに。
横浜の下町である戸部駅の近くを通り過ぎた時、昔ながらのパン屋を発見した。丁度、国道16号線と並行して走るJRの高架を少し入ったところだ。昔ながらのガラスのショーケースには私の思い憧れていたハムカツサンドがあった。店の名前は開勢堂ベーカリーとある。私は愛車を坂の途中に停め、ハムカツサンドを2個買い求めその場でコーヒー牛乳と共に食した。一瞬で昭和にタイムスリップしたのは言うまでもない。



AM7:00


AM 7:00
息子が父から話を聞いたのはその翌朝だった。父親が学校に相談したらどうだろうと言う提案をきっぱりと否定したのも息子だった。彼もいじめを受けていたことがあったからだ。
彼は幼稚園の時に東京の西部から横浜に引っ越し、そのまま家の近くの小学校に通うことになった。その小学校は郊外の公立小学校特有の気持ち悪いほど何もかも均質なものだった。教師はステレオタイプで誰ひとり高い志を持たない。いや持てない気風だった。
初めて担任を持った若い先生が放課後子供達と親睦を深めようと遊びの計画をしても、どこからその話が周りに伝わり、最終的には差別になるので良くないと教頭から横やりが入って結局お流れになった。それ以来その若い教師は子供達と一線を引くようになった。多くの教師は子供個人ではなく、親の職業や肩書で子供を判断していた。
彼は はひとつの科目以外は全て完璧なまでにこなしたが、体育は駄目だった。陸上、体操、球技どれをとっても平均点以下である。それでも休むことはしなかった。
ある日、体育の授業のため校庭に出ようと下駄箱の靴を取ると、両方の靴の中に砂が目一杯入れられていた。始めは無視していたが、そんな陰湿な声なきいじめは暫く続けられた。それでも彼はそのことを親や教師に話そうとはしなかった。
5年生になった時に急に塾に行きたいと自分から親に請願した。受験など考えていなかったが、あまりの頼みなので浩一郎は仕方なく承諾し塾に通わせた。元々体育以外の勉強は好きだったのでみる間に成績は急上昇した。そして全国的に行われる模試で彼の名前が上位者に掲載されるようになった。するとその噂はクラスの中で広まり、彼のことが話題になった。今まで彼をいじめていた男の子も急に馴れ馴れしくなり媚びを売ってきた。彼は「ウンチ」から「テンサイ」に渾名を変えられ、いじめはなくなった。そして卒業すると都内の有名進学校に通うことになった。
彼が塾に行き始めて丁度1年が経過しようとした頃、社会科の問題集の中に「ユトレヒト」という都市の名前を見つけた。彼と一緒の塾のクラスにリヒト君というスポーツも勉強も出来る学友が居た。彼の名前はドイツ語の「リヒト=光」から付けられたと知っていたのでこのオランダの都市の名前も隣国ドイツの光にならってドイツ風に付けられたのだろうと調べてみると、それは間違っていた。ユトレヒトはUtrechtと綴る。
これはUrTraiectumつまり橋渡しの場所という原意だと知った。塾の先生は中世に橋を掛けると言うのはとても重要な事で、深い場所や流れの急な場所に掛ければ流されてしまうし、また膨大な労力や資金も無駄になってしまう。まさに適所を見つけなければならないと説明を受けた。彼にとっての塾とはそんな橋渡しの場所に思えた。小学校のある岸から対岸に渡る場所のようなそんな気がした。
息子は浩一郎に週末時間が少しあるので、彼と話してみるといった。浩一郎と息子駅まで送った。