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2012年6月29日金曜日

老化とは  インターネット

前回は生物学的老化について書きましたが、今回は精神的老化についてです。

私も齢50を過ぎ、まさに老境のあたりをいったり来たりしているのであまり偉そうなことは言えませんが、少なくともまだ現役で仕事をせねばならず当分は息子の学費のため働かなければならないので一応社会的接点は多かろうとは思います。(笑)

まわりの人を見渡してみると、私よりずっと年上なのに風貌もさることながら、考え方も老人然としておらず、私より若いと思える人もいる反面、この人どうしちゃったたんだろう、つい4.5年前とこんなに変わっちゃったのと不思議に思える人もいるのです。

仕事をしていれば若いかと言えば、それも違います。

老いと感じるのはおそらくその人のそれが社会全体から見ると微妙にづれが生じ、そのづれが次第に拡大していることを感じるからではないでしょうか。そうです社会的適合力です。

うまく人の意見に合わせたり、おべんちゃらを言うことが社会的適合力ではありません。

種種の情報を、正しい情報と間違った情報に正しく分類し、世の中の流れを感じ、予見(Prospect)していく力のことです。

では何故その予見が見当違いの方向になったり、予見そのものの論理性が崩壊しているのでしょうか。

おそらくそれは情報取得の方法とその分類にあるのでは思われます。

PCを全くさわることすらできないというのも問題ですが、下手にインターネットにはまりその情報ソースが偏っているという人も多いのです。以前にも書きましたが、情報の片務性が解消されると同時にインターネットは自分の好きな情報のみに偏る傾向があるのです。これはインターネットを使う上でよく知っておかなければならない前提です。

私の場合も情報が偏らないように意見を参考にさせていただく場合には必ず正反対の人の意見も聞くようにしています。これは最低限のリテラシーだと思っています。人間オールマイティではありません。ある分野では優れた人物も全く違う分野では家僕であるということも多いからです。

SNSではよくU tubuの映像を流しながら、感情的に原発廃止を求める論調が多いのも気にかかります。これなど劇場化の最たる所以ではないでしょうか。

原発が存在している事実、原発の危険性、代替エネルギー政策、社会インフラの整備、そしてその原資となるお金のことなど包括的に考えなければならないのに、どこか一点で反対をするこの考え方は軍事独裁国家的とも通ずるものがあります。

保守化とは自分にとって都合の良いものを選択する思想です。そうです、だからインターネットは好都合なのです。

2012年6月28日木曜日

生命科学 限界寿命

この分野の発展はめざましく、つい最新だと思っていた理論が古臭いものになっていたり、とにかく新陳代謝が速いのである。

以前、本川達夫氏の「ゾウの時間、ねずみの時間」という本を取り上げたが、これとてもう少し古い話になっている。しかし、生命科学いや時間という概念を相対的に考えると言う点ではこの本は未だに良書であると思うが。

ガラパゴス陸ガメの「ロンサム・ジョージ」が100歳で亡くなったと言うニュースが流れた。早死にである。皆さんは怪訝に思うかもしれないが、同種の「ハリエット」君は175歳まで生きたのである。

もっとも亀の多くはゾウよりずっと長寿の記録を持つ。

マダガスカルのホウシャガメ、「トゥイ・マリエ」君は188歳まで生きたと聞く、さらにセイシェル諸島のゾウガメの一種、アルダブラゾウガメの「アドワイチャ」君は250年以上生きたと言うのだから恐ろしく長寿な遺伝子を持っている。

250年前と言えば1700年代である。鎖国して海外との関係を断ち、元禄文化に酔いしれていた頃である。もし人間だったらと思うと・・・ぞっとする。

神が生物に寿命を与えたのだとしたら、きっと生きている間の苦労を勘案して決めてくれたのかもしれない。我々人間は少しや長すぎていませんかね・・・・・・



背広を着たゴロツキ

誰かが本題のようなタイトルの本を出していた。誰だったか忘れた、西部邁だったかな・・・まあ、私に言わせればゴロツキのままだったら良かったのにと思うのである。何故なら、ゴロツキは負けを分かった戦いはやらないし、強いものには噛みつかないからだ・・・・

そもそもあの人はもともと消費税10%必要と言っていたような気がする。自民党の派閥政治の中にいて数と力の理論を嫌と言うほど分かっている人がどうしても人望を得ることが出来ない、しまいにはパチンコ玉宜しく組織からはじき出される。みんなは壊し屋と言っているけれど結局はその組織の中に収まりきれないのだ。

このまま40数名を引き連れて出て行っても結果はどうにもならないだろう。

国民の9割近くが消費税の増税は必要だと思っている。彼はそこを見誤っている。そして彼は内に目が向き過ぎる。外国ばかり気にするのは問題だろうが、ある程度の国際感覚は必要だ。

彼の駒沢の屋敷の前にはたえず警備員が待機する。彼への極端な誹謗中傷は後を絶たない。身辺警護は必要であろう。今日も多くの報道陣が待機していた。

日本の政治の問題はずばりオールマイテイ化である。全国民に全て平等に受け入れられ賞賛される政策など存在しないのに、いつも万人化を目指す。

そもそもマニフェスト選挙を行った民主党に対して、国民は本当にそんな事が出来ると思ったのだろうか。思ったのだとしたら国民が悪い。原資もないのに出来る出来るという政策こそ間違いなのだ。

政治家や官僚が国民の犠牲の上に立っていて、搾取されているとしても、感情論としては理解するが現実にそれだけの原資をそこから汲み上げることは出来ないのだ。

今多くの病院は改革を実行している。入院患者を減らし、保険点数の高い治療に切り替えている。

病院とて資本経済の中なのだから当たり前といえば当たり前の話である。つまり、経済や産業はなるようにして大きなうねりの方向に動き出しているのである。

我々が出来るのはこの動きを止める事ではなく、少しでも正しい流れになるように注視、管理することだと思うのだが如何であろう。

もうそろそろ市井の主婦や高齢者に消費税の問題のアナウンスメントを求めるのはよしたらどうだう・・・


2012年6月25日月曜日

優しい外国人

日本にいて分からないことも一歩海外に出ると感じることも多くあります。

我々にとって台湾も中国本土もあまり意識して区別はしませんが、実は大きな隔たりを感じます。

私が乗ったビジネスの前の席には台湾出身の王さん(しゃべっているのを聞いたので)ご家族が乗っていました。

ご主人は背が高く、奥様も流暢な英語を話します。お嬢さんは小学校の高学年と思しきスレンダーの女の子です。

私がバッゲージを降ろすのを手伝うととてもチャーミングな笑顔で母と娘さんが英語で御礼を言ってくれました。


私の父は晩年、台湾の山村部に陶芸の技法を伝え、台湾の政府から表彰されたことがありました。

父は台湾は良い国でとても親日的だと話していました。(20年以上前の話ですが)



そんな台湾についてある調査が発表されました。

一番、好きな国はどこかというアンケートに対して41%の人が日本と答えているのです。

中国やアメリカの8%に対してすごい数字です。

私も台北に行った時に台湾人の優しさを感じた事が何回もありました。

孔子廟のガイドさんもとても親切でした。また、ホテルのボーイさんも本土とは違う優しさを持っていました。

台湾のGDPを人口と消費物価を徐した数字は日本以上です。つまり、日本以上に豊かな国なのです。

その国が日本を好きだと言ってくれているこの現実を私達は理解しているのでしょうか。

こんなに優しく豊かな隣人が居るのに私達はその人達を理解していません。

優しい外国人をもっと理解しましょう・・・・とりあえず今晩は腸詰でも食べてかの国に対して゜理解を深めたいと思います・・・・・・

2012年6月23日土曜日

コンセンサスを求める日本人

ジエットラグも治り頭もしっかりしてきました。海外では色々な新聞に目を通すようにしています。

もちろん現地の地域新聞の場合もあります。

あちらの新聞に同じ政党なのに党首の旗振りに対して、首を縦に振らない議員に対して何故そこまでコンセンサスを求めるのか、それが不思議だという論調が載っていました。

さらにその方法が日本式なのかとため息交じりの筆致でした・・・・

形式主義と言えば聞こえは良いですが、後になって禍根を残さないとする旨を良しとする精神構造は今の凋落する日本を代表している気がしてなりません。

自民党もそうだったように、民主党も同じです。そして国民も・・・劇場化したマスコミに自らの無知を委ね、自らが正しいと「キヨキココロ」を同期させるのです。

原発はいらないと声高に叫んでいる人が、今中小企業の製造業とくに電気を大量に必要にするような業種に携わっていたら、本当にそんな事が言えるのでしょうか?

以前、私はメッキ工場の社長さんとお話したことがありました。社長さんと言っても毎日、油まみれになって働いているような人です。メッキは長い間通電していないと製品にならないそうです。

それが停電したら、製品は御釈迦です。当然会社は倒産し、従業員は路頭に迷うことになります。

私は絶対に原発を今すぐ停止しろなどその人の前では言えませんでした。

物事が単純化されています。マスコミは劇場化しています。我々が正しいと思うことをするときに、その事で被害をこうむることの事も考えましょう。

原発が良いエネルギー政策とは思っていません。しかし、次の政策をきちんと策定せず、ただむやみに感情論でこの日本を導いて良いのでしょうか・・・

閑話休題

私は日本が鎖国をしたらどうなるのかしばし考えていました。江戸時代のようにです。ある米国の著者も同じように考えたようです。不均衡な貿易、空洞化する産業、それらをもし保護主義的な政策で国内に残置することか出来たらどうなるのかと・・・・答えは驚くべきものでした。結果はみなさんご想像下さい。

日本はもは一等国にはないのです。それなのに安穏に高福祉、平等を求めることがどれだけ矛盾しているのか・・・

2012年6月16日土曜日

Twilight of the elites

MSMBの番組でエンロンとリーマンの問題からエリートと呼ばれる人をクローズアッブしていたが、私はある私見を持って見ていた。 断罪されている彼らの誰一人この不思議なシステムの行く先を知らなかったとすれば、すでに我々は大きなシステムに飲み込まれ個人や英雄の意見など無視して突き進むシステムの一部になっていたのかと不安を覚える。 この国の風潮は余りにお粗末である。感情論と自意識が闊歩して論調を作る。絶対に自分が正しいという強い錯覚が蔓延している。 日本は国債を国内で所有しているから安全だと誰かが言っていた。本当か?原発にはあれ程敏感なのにこの問題にはナニヒトツお構いなし、、、!! 年金も保険もこれを大量に買っている。紙くずになってもいいの?? 私は原発賛成でも反対でもない。ただこの国が喫緊に進めなければならない問題を誰一人言い出さない。 余りにもお粗末な国民感情、、、、福祉も、安穏も 国勢あってのもの、それとも鎖国が出来るとでも思っているのか??? 日本が進めてきた自由と平等の教育などとうの昔に破綻しているのにまだ幻影をみているようだ。 国民がエリートのせいにしているその心持ちこそ、西欧化のもたらした最たるジャポニズムという事をご存知ないのであろうか??? 憂国を海の向こうで想う。

2012年6月12日火曜日

ドメスティクラバー

40代と思しきサラリーマンと恰幅の良い中小企業の社長と思われる二人のある日の会話・・・・

40代のサラリーマンA氏
「社長は国産の物にこだわって持っておられると聞いたのですが、その鞄もそうですか」

社長B氏
「そうそうこれ銀座のTというカバン専門店にオーダーして作らせたもの。皮も国産に拘ったのだよ」

A氏
「なるほど丁寧な仕事ですね。つい先日新築されたお宅もそうですか?」

B氏
「国産の檜をふんだんに使った和風の住宅だよ。家具類もほとんど松本の銘木家具で合わせた。」
「もっとも若い頃より車だって国産しか乗った事がない。今乗っているのもそうだ。」
「外国製は頼りにならない。壊れても国産ならすぐ治る。それに費用だって安い」

B氏の携帯に自動車修理工場から電話が入った

修理工場
「社長の車なんですけど部品が手に入らないのです。あの部品タイの工場で作っているのでもそのタイの工場が水没して再会の見通しが立たないんです。もう少し待っていただけますか」

社長は顔を真っ赤にして下を向いたまま顔をあげることはなかった。ちなみにこの社長の妻は年齢が二周りも違うチリ人の妻だった事は伏せておく事にしましょう・・・・・

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これは一部脚色はしていますが実際の会話です。多かれ少なかれ、この頃の日本人は好きか嫌いかとすぐ白黒付けたがる方が多い。

世の中そんなに簡単に割り切れるものばかりじゃないのに、すぐに2項対立に持ち込もうとする。

原発事故後に東北の野菜は一切食べないという人が増えているらしい。そういう人は理屈じゃないのよね。科学的根拠なんてどうでもいいの、つまりは「正しい事」をしているということが大切な訳。

息子の高校の先生がオウム事件を含めたカルトの研究をしていた。

極端な宗教やカルトには知るには実はこの「正しき事」の動機づけが大切なのだそうな。

拘らないのも困るけど゛、拘り過ぎて科学的知見を忘れてしまうのも問題だ。

好きこそものの上手なれ 開口 健

開口 健の小説と言えば純文学として芥川賞を獲った「裸の王様」や「夏の闇」「輝ける闇」など人間の内面、心の闇に迫った作品も多いが、なんといっても彼が好きだった食べ物やワインそして釣りに関する雑文にこそ彼の魅力が詰まっていると思うのは、私の勝手な思い込みであろうか。

先日買った、「完本 釣魚大全」はまさに開口の面目躍如、起死回生の一冊である(もともと死んではなかったか)

魚をとらえて万物の流転の転成を論じてみたり、魚の餌を話題に世のグルメ高級志向にチクリと釘をさしたり、読んでいて実に面白い。

そういえばヘミングウェイも好きなカジキ釣りの描写は他の作家には類を見ないダイナミックでそして静謐な表現だった。

そう好きこそものの上手なれ。私はそれで良いと思うのだが・・・・・

野上彌生子 「森」

先日、鎌倉の古書店で野上彌生子の遺作となった「森」を購入した。この作品は最後の数ページを残してほとんど完成したものが後になって補筆され出版された。

九州のご出身の方ならば「フンドーキン醤油」はご存じであろう。また最近では女子プロゴルフのトーナメントでもその名前を聞いたことはあるかもしれない。

野上彌生子はその老舗の醤油製造所の娘であった。野上の作風は一貫して世間を少し離れたところで鋭く観察し、歯切れのよい言葉でばっさりと示す。

武田百合子もそうであったように、この時代の女性の強さは驚きである。世の中に媚びず、常に批判的精神を忘れない、そんな姿勢が今の時代に読んでも頼もしいである。

野上は鎌倉の寺に眠っている。鶴岡八幡をすぎて大船に向かう途中にある東慶寺である。

この寺には海外に日本の禅文化を広めた鈴木大拙が設けた「松が丘文庫」が存在する。

鎌倉の古書店には東京では中々お目にかかれないような書籍と出会うことがある。やはり文士が多く住んだ街のお陰であろうか・・・



2012年6月11日月曜日

オールマイテイ

オールマイティとは便利な言葉である。簡単に言ってしまえば何でもOKという事なのだ。

私の音楽の趣味はまさにオールマイティ、ジャズやボサノバ、ロック、クラシック、ポップスと良いと思えば何でも聴く。

私のi tuneにはそんな何でもアリの音楽が6000曲以上も入っている。

この頃、好きなアーティストと同じミュージシャンが好きという事を発見した。もっとも好きなミュージシャンの嗜好が同じベクトルを向いているのは至極当然かもしれない。

全部のアルバムを持っているParis matchのミズノマリさんがCorinne Bailey Raeが好きだと言っていた頷ける。わたしも大好き。

さらにpat methenyも凄いと言っていたEsperanza Spordingも好きだ。彼女のリズム感尋常じゃない。

誰の物真似でもない。すごい人がいるもんだ。

彼女のBlack Goldという曲凄く良い。自分のルーツを否定せず真っすぐに力強く歩いている。カッコヨイね・・・・

日本のアーティストもそうであってほしい・・・まあKpopや日本の芸能界では無理なお話かもしれないが・・・

体はひとつ

20代よりゴルフを続けていた。とはいえ30歳を超えたあたりからめっきり練習もせず。お誘いがあれば便乗するお遊びゴルフだった。ゴルフをやめた事には二つの理由があった。

自律神経が弱っていた頃に頸椎狭窄が判明し左手の握力がなくなったのだ。

最初はゴルフクラブが握れなくなったなったのだから驚いたが今はその握力も大分改善してきた。

今となってはその事は過去の事。もう一つの理由が重要。

それはゴルフをすると丸一日つぶれてしまうからだ。つぶれてしまうという感覚を持つ事自体ゴルフには向いていないことの証左であろうが、要するにゴルフ以外にしたいことが沢山あるのである。

波が良ければサーフィン、風が弱ければバイク、軽やかな天気ならば読書そして犬達との長いお散歩・・・やりたい事がありすぎるのだ。鎌倉の古本屋廻りなんてのもある。私の場合、ゴルフよりどうしてもそれらの事が上位に来てしまうのだ。

梅雨の晴れ間の良い気候の頃、気の合う仲間と冗談を言いながら、時折り天使が舞い降りるような華麗な自分のショットに感歎し、美味しいビールを飲む・・・その楽しみは分からない訳ではない、でもどうしてもを私の場合は前者を選んでしまうのである。

40代の時に、周囲に口外して夜のお酒の付き合いをやめた。だから仕事のお付き合いでの酒宴は皆無である。もっともそんな付き合いをしなくては来ないような仕事ならこっちからお断りである。

それ以来、とても体が軽くなった。夜の酒宴に同席する事を生業としている女性には失礼かもしれないが、どうしてお客の方が彼女達に気を使って話をしなければならないのか私には理解不能である。

私と息子がここ数十年坊主にしているのと理由は一緒だ。あのくそいまいましい会話が存外なのだ。

こんな我儘の私であるからもちろん友人など数えるほどである。でも数えるほどの友人でいいのだ。

私のこのへそまがりの性格はどうやら息子に遺伝したらしい。言いたい事を言う息子は決して友人が多いとは思えない。でもね、それでも君を認めてくれる人は必ずいるから心配は御無用である。嘘とおべっかで上塗りした友情はあっという間に剥がれおちるけど、長い間に培われたそれはより強固になり君自身を助けてくれるから・・・・・それはこの歳になって生きる滋養となるのです・・・・・・

2012年6月9日土曜日

ゼノフォーブ 生活保護問題

片山さつき議員が指摘したことに端を発した生活保護問題を取り上げるマスコミと彼女に関して妙な違和感を持っていた。もっとも彼女の場合、そうすることが次の選挙のための施策の一つであり、劇場化するマスコミをうまく煽動していると思うが、喉の奥にツッカエタ骨のように気分が悪い。
2チャンネルに跋扈する反日、在日のように誰かを悪者にして自己弁護するそんなナチス的偽善も感じていたところに、内田先生がなるほどという論を説いている。レビィナスの専門家としての一面からも相互扶助を推考しているので是非皆さんにも読んでいただきたくここに紹介します。

以下・・内田 樹氏のブログより

相互扶助と倫理について

片山さつき議員による生活保護の不正受給に対する一連の批判的なコメントが気になる。
「相互扶助」ということの本義に照らして、この発言のトーンにつよい違和感を持つのである。以下は朝日新聞の報道から。

人気お笑いコンビ「次長課長」の河本準一さんの母親が生活保護を受けていたことが、週刊誌報道をきっかけに明らかになった。4月12日発売の週刊誌「女性セブン」が最初に匿名で報じた。「推定年収5千万円」の売れっ子芸人なのに母親への扶養義務を果たさないのは問題だ、と指摘した。翌週にはインターネットのサイトが河本さんの名前を報じ、今月2日に自民党の片山さつき参院議員が「不正受給の疑いがある」と厚生労働省に調査を求めたことをブログで明かすと、他の週刊誌や夕刊紙が相次いで取り上げた。
報道を受け、所属事務所よしもとクリエイティブ・エージェンシーは16日、コメントを発表。河本さんの母親が生活保護を受けていたことを認めたが、「違法行為はない」とした。 同社によると、母親が生活保護を受け始めたのは河本さんの無名時代の12年ほど前から。
同社の担当者は朝日新聞の取材に「収入が年によって増減し、将来も安定的に援助できるか見通しが難しかった事情もあるが、認識が甘かった」と話す。
親族間の扶養義務は、民法730条に次のように定められている。
「直系血族及び同居の親族は、互いに扶け合わなければならない」
自治体は生活保護の申請を受けると、扶養義務のある親族に扶養の可否と年収を尋ね、受給開始後も毎年調べる。しかし、調査に強制力はなく、回答の真偽を検証する手立てもない。
自治体の担当者からは、調査権限の強化を求める声が上がっている。
「親族に尋ねても『余裕がない』と断られるケースが大半だ」
「これまでは『親に生活保護を受けさせるのは恥』の意識があったが、『もらわないと損』の感覚が広がれば、法改正の必要があるかもしれない」
生活保護法では、親族から援助を期待できるかどうかは、生活保護を受ける際の要件ではない。高収入の子供がいるからといって、不正、違法となるわけではない。
だが、扶養義務の調査を厳正化すると、生活保護を受けるべき人たちが申請を控える事態を招きかねない。
専門家は「扶養は法律で強制するのでなく、当事者の話し合いで解決するよう導くのが本来の行政のあり方だ。生活保護を減らすには、就労支援など、先にすべきことがある」と話す。(朝日新聞5月25日による)

複雑な問題である。
It’s complicated というのは「簡単には説明できない事態」について、相手に判断の保留を求めるときのシグナルである。簡単に理非正邪の判定ができないことが私たちの社会にはある。
そういうときには、「とりあえず座って、お茶でも一杯」してから、長い話を始めるというのがことの手順である。
複雑な問題には、複雑な解決法しかない。
「複雑な問題」に「簡単な解決法」を無理に適用する人は、「散らかっているものを全部押し入れに押し込む」ことを「部屋を片付けた」と言い張る人に似ている。
そのときは一瞬だけ部屋は片づいたように見える。だが、そのままにしておけば、押し入れの中はやがて手の付けられないカオスになる。
生活保護の問題は「相互扶助」という複雑な問題にかかわりがある。
複雑な問題に簡単な解決法は存在しない。
弱者の処遇についての考え方は、単純化すれば二つしかない。
(1)社会的弱者は公的な制度が全面的にこれを扶助する。
(2)社会的能力の多寡は本人の自己責任であるので、公的制度がこれを扶助する理由はない。
「大きな政府」論と「小さな政府」論も、「コミュニズム」と「リバタリアニズム」の対比も論理的には同型である。
私たちが経験的に言えることは、「落としどころはその中間あたり」ということである。
ある程度公的な支援を行い、ある程度は自己努力に頼る。そのさじ加減はときどきの政治状況や景況や、何を以て「弱者」と認定するかについての社会的合意にかかわる。
社会的弱者を支援する事業を行政が専管するというのは、いいことのようだが、長期的には問題が多い。
べつに金がかかりすぎるとか、そういう野暮な話ではない。
もし、政府が弱者を実効的に救済するシステムが機能していれば、私人は弱者救済の義務を免ぜられるということである。
目の前に、飢え、渇き、寒さに震え、寝る場もない人がいても、「行政で何とかしてやれよ」と電話一本すれば済む。たいへんけっこうな社会のように思えるだろう。だが、そのような社会に住む人々はいずれ「目の前で苦しんでいる人を救うのは、他ならぬ私の仕事だ」という「過剰な有責感」を感じなくなる。
これは人間として危険な徴候である。
「世界を一気に慈愛深いものにしようとする」企ての挫折をレヴィナスはスターリン主義のうちに見た。
「スターリン主義とはつまり、個人的な慈悲なしでも私たちはやっていけるという考え方のことなのです。慈悲の実践にはある種の個人的創意が必要ですが、そんなものはなくてもすませられるという考え方なのです。そのつどの個人的な慈愛や愛情の行為を通じてしか実現できないものを、永続的に、法律によって確実にすることは可能であるとする考え方なのです。スターリン主義はすばらしい意図から出発しましたが、管理の泥沼で溺れてしまいました。」(エマニュエル・レヴィナス、『暴力と聖性』、国文社、1991年、p.128)
この世の中を少しでも手触りの暖かい、住みやすい場所にしようと思ったら、「永続的に、法律によって」それを確実にできると考えない方がいい。
レヴィナスはそう教えている。
慈愛の実践のためには制度だけでなく、「個人的創意」の参与が不可欠である。
「正義がさらに義であるように」「社会的公正がさらに公正であるように」するためには、生身の個人が、自分の身体をねじこむようにして、弱者支援の企て関与することが必要である。
けれども、「個人的創意」ばかりを強調すると、今度は「公的制度による支援は無用」というリバタリアンのロジックに歯止めをかけることができなくなる。
苦しむものは勝手に苦しむがいい。それを見ているのが「つらい」という人間は勝手に身銭を切って、支援するがいい。オレは知らんよ。
今回、一部の政治家たちと一部のネット世論が求めている「生活受給条件の厳正化」は、ある意味でリバタリアン的である。
親族による扶養を強調しているが、その趣旨は「相互扶助」ではない。
問題になっているのは、「いかにして、孤立した弱者を救うか」ではなく、「身内のことは、身内で始末しろ(他に迷惑をかけるな)」という、弱者(とそれを親族内に含むものたち)の公的制度からの「切り離し」である。
なぜ「親族間の扶け合い」をうるさく言い立てる保守派が、その舌の根も乾かぬうちに「公的制度にすがりつくな」というリバタリアン的主張をなすことができるのか。
これは矛盾しないのか?
もし「相互扶助」ということの大切さを言いたいのなら、公的制度を介しての「相互扶助」の必要も指摘すべきではないのか。
でも、彼らは「親族間の扶け合い」は人間として当然のこととして求めるが、公的支援は「本来ならやらずに済ませたいこと」という表情をあらわにする。
というのは、リバタリアンにとって、「公」というのは国家や地方自治体という非人格的な行政組織のことであって、それ以外は全部「私」に分類されるからである。
そして、親族は「私」なのである。どれほどの規模でも、所詮は「私」なのである。
だから、「親族間で」弱者の面倒を見ろと言うのは、要するに「自助しろ」と言っているのである。
彼らは「相互扶助」ということそれ自体に「価値がある」とは思っていない。
この世界は本質的には無数の「私」たちの競争と奪い合いだと思っている。
弱者への支援は「ゴミ収集」とか「屎尿処理」と同じような「面倒だけれど、やらなければいけない仕事」だと思っている。個人の責任に任せてしまうと、かえって市民一人あたりの社会的コストがかさむから、やむなく行政が引き受けている仕事だと思っている。
だから、ぎりぎりまで軽減したい。理想的にはゼロにしたい。
だから、「誰が『公』の負担を増やしているのだ?」という問いに強迫的につきまとわれてしまう。
生活保護の不正受給について論じたあと、ブログでは片山議員は引き続き外国人の国保の納入率が低いことを難じている。
いずれの場合でも、社会保障制度の「フリーライダー」が標的にされている。
社会的公正の達成というのが建前だが、そこに一貫するのは「誰が国富を収奪しているのか?」というなじみ深い「ゼノフォーブ」(xenophobe)の定型的思考である。
ゼノフォーブは「外国人嫌い」と訳されるが、べつにそれは彼らが「同国人好き」であることを意味しない。
国籍にかかわりなく、彼の自己利益の確保を妨害するすべての他者は一括して「外国人」と呼ばれる(ネット右翼が批判者を誰かれ構わず「在日」と呼ぶのと同じメカニズムである)。
彼以外のすべての他者は限られた資源を奪い合う「潜在的な敵」とみなされている。
敵性のつよいものは「外国人」と呼ばれ、敵性の弱いもの(自己利益増大のために利用価値のある他者)は暫定的に「同国人」に認定される。
あくまで「暫定的」なので、自己都合により、「同国人」たちも一夜にして「外国人」や「非国民」に分類変更される。
それだけのことである。
片山議員の発言は、彼女の心情を吐露したものというより、選挙目当ての「煽り」という感じがする。
その政治感覚は決して鈍くないのだと思う。
たしかに今の日本に「ゼノフォーブ」的な気分が瀰漫しており、「外国人叩き」をする政治家はしばらくは高いポピュラリティを獲得する可能性が高い。
おそらく、片山議員が「成功」すれば、このあと、彼女の真似をして、「フリーライダー叩き」にわらわらと政治家たちが参入してくるだろう。
先ほどの書いたように、公的制度が至れり尽くせりの弱者支援をすべきだという思想は個人の責務を免ずることで社会そのものを「非倫理的」なものに転じるリスクを抱えていると私は考えている。
けれども、すべての人間は資源を奪い合う競争に参加しているのだから、自分の取り分は自力で確保しろというリバタリアン的な考え方も同じように「非倫理的」である。
私はこのふたつの非倫理を退ける。
集団成員の相互扶助の問題は、倫理問題である。
倫理というのは「同胞とともにあるために理法」のことである。
定型があるわけでもないし、文字に書かれているわけでもない。
同胞たちと穏やかに共生し、集団がベストパフォーマンスを発揮するためには、何をしたらよいのかという問いへの答えは状況的入力が変わるごとに変わるからである。
そのゆらぎに耐えることのできる人間を「倫理的」な人間と呼びたいと私は思う。

2012年6月8日金曜日

銃・病原菌・鉄  ジャレド・ダイアモンド



しばらく前に買って読んだ本である。上下巻なのでなかなか読みごたえがあるうえ、下巻がやや間延びしている感じもするので時間が掛った。この著者「ジャレド・ダイアモンド」は進化生物学者であり、現在はUCLAの教授を勤めている。この本は、その彼がニューギニアの友人による「何故、西欧はニューギニアを征服し、ニューギニアは西欧を制服出来なかったのか」という単純な問に対して答えている内容である。

結論から言って、西欧人の優位性でもなんでもなく、ただ地理的要因によると彼は言ってのけているのだ。西欧至上主義者達にとってはとんでもないという内容だろうが、中々面白い洞察を重ねて彼は理論構成している。

そんな著作の中で「社会は自分たちより優れた(と思われる)社会があるとき、孤立は贅沢は許されない」つまり「社会は自分たちより優れたものを持つ(と思う)社会からそれを獲得する」「もし獲得できなければその社会にとってかわられてしまうだろう」という説である。

江戸から明治にかけての開国の嵐をみれば、新しい社会にとってかわられないために必死にその社会になろうとしている姿だと分かる。さらに戦争に敗れた日本が急速にアメリカ文化を模倣し、現在に至る姿とも重なる。

ただここで私は疑問を感じる。よりよい社会とは何であろう、よりよいとはどのくらいのスパンで考えるよりよいものなのであうか・・・・私にはよりよいと思うこの結節がポイントなのではないか、つまり江戸時代の前期中期あたりまでは自らの太平がより良い社会であり、誰もが西欧が良いなどと思っていなかったのではないか、つまり江戸後期にそのターニングポイントが生まれ、よりよい社会像が変化したのだと思う。

しばらく前に農水省を退職した人から聞いた話だが、インドネシアでは政府一丸となって「緑の革盟」という農産物の生産性を飛躍的に向上させようとという運動を進めたことがあった。

観光で有名なパリ島を見ても豊かな水田地帯が広がり、温暖な気候から2期作どころか、3期作、4期作さえ出来そうであるから、そう考えるのも無理からぬ話しである。ところがこの政策を実施したとたん害虫による被害がこれまでの5%程度から50%まで極端に拡大したのだ。この地域は古くから耕作の時期をずらして栽培していた。つまり、地域的特徴を歴史的に経験した先人たちの知恵が極端な効率化がいかに危険であるか示していたのだ。結局、政府はこの運動を取りやめ、伝統的農業に方針を転換したと聞いた。

この例からも分かるように私達がよりよいと思うのは実はとても浅はかな見識が多く、長いスパンで観ればどうでも良いような事なのではと考えてしまう。

産業界に目を戻せば、トヨタ自動車の躍進はトヨタが掲げるカンバン方式による生産の効率性だといわれ、世界中の自動車産業にかかわる多くの人が高く評価していた。ところが、東日本大震災やタイの洪水など「想定を超えた」事態が起こるとその様は一変する。生産は落ち込み、効率どころの話ではない。部品さえ集まらないのだ。また現在多くの企業がより労働対価の安い海外に生産をシフトしている。サービス業でもコールセンターを沖縄においたり、インドのバンガロールに電話が掛り、インド訛りの英語で返ってきたという話も聞くがこれらとて今よりよいという考えでシフトしているが、いつパラダイムが書き変えられるか分からない。

社会とは言ってみれば「メダカの群れ」である。よりよいと思う一部のメダカが方向を変えると他も一斉に方向を変える。他のほとんどは、よりよいなんて思っていないのである。ただ、そうすることしかできないのだ。

私は思う。少なくとも我儘なメダカも存在してくれないと、人類の将来は危ないのではと考えてしまう。多様性こそ生物の生き残る道なのだから、それとも神はメダカの数を調整するためにそう仕向けているのだろうか・・・いずれにせよ、そのスピードはマルチスピード化している・・・・

2012年6月7日木曜日

ぐわらんどうと蝙蝠

その穴は入口こそ狭いが、どんどんどんどん奥に繋がっていてどこまでも永遠に続く暗闇のような姿をしていた。穴は途中で折れ曲がり、くねくねと生き物のように形を変えどこまでも続く。

 少し湿り気を帯びた穴の壁面には無数の穴が開いている。穴のまた穴は呼吸をしている。

 誰かがこの穴の先に不思議な光るものがあるといっていた。私にはそのものが見えないがきっとあるはずだ。私は体を縮めその光るものが「あるべき先」に近づいていみうとするが、荷物が邪魔をして思うように前進が出来ない。なんとか体をくねらせやっとのことでその「あるべき先」に近づく。そっと手を伸ばしてみる。

 光るものは鶏頭のような形をしている。動物なのかそれとも植物なのか正体は分からない。少し湿り気がありゴツゴツもしている。

 何故この真っ暗闇で光るという特徴を持たなければならなかったのか、生物に与えられた進化があるとすればどんな目的で光る事を与えられたのであろうか。

 蛍は東西で光る周期が違うと言う。また蝶の一種にも同様な住み分けがなされていると聞いたことがあるが、必ずそうしたものには境界型が存在する。いうなればハイブリッドだ。私はそうした者たちに共感する。

 進化は分化するしかし一定の時間を経て同化するこれも進化だ。この穴の形状は不思議だ。どこまでいっても終わりのない無限の闇など存在するのだろうか。それとも穴のまた穴を突き進むと全く次元の違う空間が現れるのであろうか。

 世界は予定調和されているようで実に混沌としている。ある事実はある事実の裏付けなどではない。存在そのものが幻である。生物と無生物の違いとは何であろうか。生きているということは実在する事実なのか。それとて忘却の彼方に葬り去られる。

 穴の外は天気が良いのだろうか、それとも大雨が森全体を覆っているのであろうか。でもこの穴はそんなことはお構いなしに存在する別の世界。手に取ったものが丸か四角かそんなことはもうどうでもいい。目が見えるからといって何故これが四角だとか丸だとか言い切れるのであろう。存在そのものが不確実な世界、混沌とした無音の世界・・・・・私は永遠に続く闇の世界の住人

2012年6月6日水曜日

つながりすぎた世界


久々に読書の時間が出来たので買っておいたこの本を読む。

著者は長らくインテルに勤務していた人物だ。SNSを礼讃する書籍は多いが、SNSのリスクについて書かれたものは少ない。

彼の説では20世紀初めにも電報という情報ツールと鉄道網という物理的ツールの発展が過剰になり、最終的には機能不全に陥り、輸送手段が自動車という輸送手段に取って代わられた経緯を今の情報化城社会になぞらえる。

私はそのまま彼の意見に賛同するつもりはない。確かに似ているがその規模、スピードはまるきり違う。そのあたりは「マルチスピード化する世界の中で」(マイケル・スペンス著)を参考にされたし。

ただ彼の言う過剰結合は多くの局面に置いて見受けられる。

匿名性の2チャンネルには多くの犯罪予備情報が横行する。また、人種差別主義者がナチ同様の意見を繰り広げる。

匿名性でないFACEBOOKはその点である程度の自浄作用が働き、そこまでひどい書き込みは少ないものの、ユーザーは全ての情報を委ねていることに変わりはない。

アイルランドの金融危機も、アメリカの住宅バブルもそのつながり過ぎたことが原因ではないかと著者は述べている。

情報化が過度に進み、そこの渦中にいる人間が本当の意味でのリテラシーを持たなかったら、おそらく彼の言う「情報のドミノ倒し」に突き進むだろう。

ただ一点、彼はつながりを断つことが唯一の解決手段というけれど、私はそうは思わない。

鉄道網が自動車輸送に取って代わられたのは、確かに鉄道網自身の混乱が一助ではあろうが、本質的には鉄道から自動車と言う、産業のイノベーションが進んだことが原因だと思う。

昨日、都市銀行の支店長が政府や与党に政策決定力が無い事が、国策としての産業を衰退させていると言っていたが、その通りだと思うが、私には今のこの段になってもTTPを反対する人々がこれほど多い事や未だにこの国は輸出立国だと言い張る企業や国民の知性の欠如に失念する。

インフレーションが起こっているということはその国が発展している証左である。その間は輸出立国であっても何ら問題はない。問題なのはその後デフレに進み始めたときである。その時こそがこの国の構造転換の必要な時なのに過去の成功体験にしがみついてばかりいる。

2012年6月1日金曜日

Burt Bacharach

今日のようなちょっと蒸し暑い初夏の日にはSぱぱ同様、訳もなく無性にポップスを聞きたくなります。

ポップスと言えば数々の名曲を送り出してきたバート・バカラックですが、私より歳が10歳以上離れているK先生がお好きとは知りませんでした。

数年前、エルビス・コステロの日本公演を東京フォーラムに聴きに行ったときも、バカラック名曲「アルフィー」やシャルルアズナブールの名曲「SHE」をカバーしていました。

バカラックのCDは数あれど私のお薦めは色々なアーティストの参加しているこのアルバムがお薦めです。アルバムのタイトルは"One Amaging Nihgt"




今日はそんな中から雨もいいじゃない、少しくらいの雨なら傘もささずに歩きたくなるこの曲をお聞きください。

"Rain Drops Keep Falling on My Head"  Ben Folds Five・・・・・・・・・