前回は生物学的老化について書きましたが、今回は精神的老化についてです。
私も齢50を過ぎ、まさに老境のあたりをいったり来たりしているのであまり偉そうなことは言えませんが、少なくともまだ現役で仕事をせねばならず当分は息子の学費のため働かなければならないので一応社会的接点は多かろうとは思います。(笑)
まわりの人を見渡してみると、私よりずっと年上なのに風貌もさることながら、考え方も老人然としておらず、私より若いと思える人もいる反面、この人どうしちゃったたんだろう、つい4.5年前とこんなに変わっちゃったのと不思議に思える人もいるのです。
仕事をしていれば若いかと言えば、それも違います。
老いと感じるのはおそらくその人のそれが社会全体から見ると微妙にづれが生じ、そのづれが次第に拡大していることを感じるからではないでしょうか。そうです社会的適合力です。
うまく人の意見に合わせたり、おべんちゃらを言うことが社会的適合力ではありません。
種種の情報を、正しい情報と間違った情報に正しく分類し、世の中の流れを感じ、予見(Prospect)していく力のことです。
では何故その予見が見当違いの方向になったり、予見そのものの論理性が崩壊しているのでしょうか。
おそらくそれは情報取得の方法とその分類にあるのでは思われます。
PCを全くさわることすらできないというのも問題ですが、下手にインターネットにはまりその情報ソースが偏っているという人も多いのです。以前にも書きましたが、情報の片務性が解消されると同時にインターネットは自分の好きな情報のみに偏る傾向があるのです。これはインターネットを使う上でよく知っておかなければならない前提です。
私の場合も情報が偏らないように意見を参考にさせていただく場合には必ず正反対の人の意見も聞くようにしています。これは最低限のリテラシーだと思っています。人間オールマイティではありません。ある分野では優れた人物も全く違う分野では家僕であるということも多いからです。
SNSではよくU tubuの映像を流しながら、感情的に原発廃止を求める論調が多いのも気にかかります。これなど劇場化の最たる所以ではないでしょうか。
原発が存在している事実、原発の危険性、代替エネルギー政策、社会インフラの整備、そしてその原資となるお金のことなど包括的に考えなければならないのに、どこか一点で反対をするこの考え方は軍事独裁国家的とも通ずるものがあります。
保守化とは自分にとって都合の良いものを選択する思想です。そうです、だからインターネットは好都合なのです。
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