青年が10号通りの中華屋を出る頃には雨はあがっていた。商店街のモザイク模様の歩道は街路灯の冷たい光と月明かりを反射している。
商店街を抜けると青年の住んでいるアパートはすぐそこだ。築50年以上の木造二階建てのアパートは贔屓目に見ても綺麗とは言いがたい。水道道路に面して建っているため大きな車が通るたびに激しく揺れた。
開け放しの玄関から中に入ると細長い廊下が続く。天井にはいくつかの裸電球がついているが半分くらいは切れていて光を放っていない。どの光も弱々しく、そのまわりを夥しい夏の虫が飛び回っている。
階段を登ったすぐ左側が青年の部屋だった。階段を一歩一歩ゆっくりと上がる。それでもギシギシと音がしてしまう。階段の踏面はコンクリートで塗り固められていてそれがすり減って手前に傾斜している。後ろから誰かに引っ張られているそんな重さを感じる階段だ。
ここに住んでいるのはほとんど老人だった。いや、青年は誰一人正確には入居者の歳など分からなかったが勝手に独居老人と決めつけていた。
何故なら廊下で出会う誰もの目が精気を失っていたからだ。人生に疲れたのか、病み上がりなのか分からないが、とにかく老人たちを凝視してはいけない気がした。
青年の部屋は四畳半で赤茶色をした隣の建物の壁が窓を塞いでいた。トイレも台所もないからっぽな部屋だった。
緑色のナイロンの安いプリントカーテンの隙間からガラスに止まっていた蛾が見える。蛾の羽には目玉のような大きな円が描かれていた。どうして蛾はこんなに気持ち悪いのだろう。毛が生えた触覚、寸胴の身体、地味な色彩、どれをとっても同じような昆虫の蝶とは違う、全ての不幸と引き換えに手に入れたようなその体を蛾は何故受け入れてきたのだろう。
青年はカーテンで蛾が見えないように塞いだ。
ドアがノックする。居留守を決め込もうとしたが、先程の足音とドアが開く音でわかったのだろう。このアパートの管理人だ。青年はこの管理人が苦手だった。
管理人の名前は中田さんといった。恐らくこのアパートでは青年の次に若い女性だった。若いと言っても五十歳にはなっている。この中田さんも独身だった。
中田さんは悪い人ではない。どちらかと言えばいい人だ。青年には優しかった。しかし、その優しさとは別の顔を持っていた。彼女はよく人を観察する。人知れず観察するのではなく、足の先から頭まで舐めるように観察し、自分の仕入れていた知識と合致させ少しでもそぐわないと感じると質問をしてくる。その質問は容赦なく、拷問のように感じる。
青年は一度本当に大学に通っているのか質問をされたことがある。良家の子供が多く通う大学と青年の姿が一致しなかったようだ。青年は学生証を見せた。すると中田さんは「へえーえ」と言って。金歯を見せて笑った。青年は何故この人に学生証を見せなければならないのか、行き場のない怒りを覚えた。それ以来、中田さんのことが苦手になった。
蛾が窓から居なくなった。蛾は街路灯の周りにうつり、他の虫達と一緒にうろうろ飛んでいた。
青年はドアを開け、預けられた小包を中田さんから受け取った。小包は開けた跡があった。小包は実家の母からの貰い物のお菓子だった。青年はそのまま中田さんに菓子箱を渡した。中田さんは「エヘヘ、悪いねえ」と言って部屋をもう一度ぐるっと見回しドアを閉めて帰っていった。青年がそのアパートを出たのは二か月後のことだった。
※注意、本文は架空の話です。登場するは人物も架空のものです。