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2013年12月11日水曜日

評論家と実務家

日出る国の国民はどうして猫も杓子も評論家気取りで自分のことを棚に上げて天下国家主義主張のことを論ずるのだろうと公言したことがある。それは今も変わらない。いや、以前にも増してその傾向が政治家ならまだしも一般の庶民にまで広がっている気がする。

今日ではSNSの普及で誰でも簡単に自分の意見を公開することが出来る。それはそれで良いことだが、そうした発言の中に主義主張、理念、宗教といった、本来、より個人的なものを己の吐露を絞り出すかのように世に問いている。それ自体が悪いのではない。主張するなら吐露ではなく、その論理的根拠を説明するべきだし、神がいるというのならその存在を証明してほしい。こんなことをいうと盲信者の怒りを買うだろうが、これがエスカレートすればテロリズムの発端となるからだ。

特定秘密保護法案についても私には賛成か反対か論ずる資格はない。何故ならそれを決定するほど内容を知らないからだ。法案の中味が片手落ちのことはわかる。ただ、反対の先鋒であるはずの民主党も自ら政権を運営していた時の原発対応の詳細を雲散霧消せず秘密裏にしていることはこの問題を論ずる資格すらないと考える。

SNSを見ているとまるでアレルギー反応のようにこうした事に反応する人がいる。生まれ育った環境と言ってしまえばそれまでだが、何故か高学歴の人に多い。

ドイツで暮らしたことがある人が言っていた。ドイツでは自分の家の前の道路しか清掃してはいけないそうである。何故なら、それを生業としている人の食を失わせることになるからというのだ。もちろんそれは比喩であるが、中には日本に帰ってもそのまま踏襲する人もいるから驚きだ。ゴミがあれば拾う。当然のことなのではないか。

私はスタッフにもよく言う。やらなければならないことをやらないのは、やらなければならないことを知らないのと同じかそれ以下であると。そしてフリーライドそのものであると。残念ながら本当にこれが多い。

電球が切れていれば交換する。ゴミが落ちていれば拾う。汚れていれば清掃する。当たり前のことだ。この当たり前のこともせず、天下国家、主義主張を論ずる。嘆かわしいばかりだ。そうした当たり前のことが出来なくても組織の中なら何とか生き延びられる。中級以下のサラリーマンに多く見られるが、組織を束ねる主たる人はこうした先送りをする人を見たことがない。実務家が消え失せ、国民が総評論家になる日も近いのかもしれない。