このブログを検索

2013年2月26日火曜日

よい住宅とは

ロサンゼルスでシンドラーの建てた住宅を見てきた。





しかし同時にそれは私にはもはや住宅ではない。

巷では100年、200年の持ちこたえるような高品質な住宅を売り物にしている企業も多い。

確かに安かろう、悪かろうの住宅では困るが、100年も200年も持つ住宅と言うのは如何なものだろう。

10年近く前にあまりに多くスクラップアンドビルドされる東京の街に対して、私が苦言めいた事を言っていたら、外国人が変化するから面白いんだと全く反対の事を言っていた。

昔英語の教材に「転げる石は苔蒸さない」というものが取り上げられていた、そうローリングストーンズ。確かに変化しているから苔蒸さないのかもしれない。

みなさんは蜑戸を知っているだろうか。そう海辺に立つ海女さんが暖を撮ったり、仲間とひと時の休息をとる小屋のこと。



それはいつ壊れても可笑しくないような、簡易的で質素なものだ。

台風や津波で流されても、また建てられる。彼女らの生活の知恵だ。

そう発想の転換。

住宅は何のためにあるのだろう。私はそこに住む人のためだと思っている。

そこに住む人は定常ではない。時と共に全てが変化する。若かった犬も年を取り老犬になるように、私達も年を取っていく。

子供は成長し新しい社会に飛びだし、また新しい家族を作る。

建物はそうした人に寄り添う存在でなければいけないのでは。

だから私にとってのよい建物とは柔軟に対応できる建物の事だ。

我が家では2部屋を1部屋に改造した。それとてあと2年もすれば使わなくなる。

そして私達が混沌とこの身の崩壊に向かう頃に都合よく朽ち果ててくれれば最高ではないだろうか。

それが私にとって良い住宅・・・



2013年2月22日金曜日

写真論 「私にとっての」


写真論 「私にとっての」
 

先般、キャパの崩れ落ちる兵士のことを文末に記したので、もう少し補足しておく。

この写真の真贋を後世に検証した人がいたと聞いた事がある。その上、澤木氏が21世紀になって新たな方法をもって再確認したのだから事の顛末はある程度想像できる。

澤木氏は他の著作でも精密な筆致で私達を旅の世界に誘う、名文筆家である。私も彼の著作を通じて既に2.3回ハノイを旅している。今回も同じように我々をスペインまでその検証の旅に連れて行ってくれるのである。

普通ならこれで十分楽しめるのであろうが、私にはややひっかかった。

何がひっかかったのか、それはそこまでして物の真贋を確かめる必要があるのかという漠然とした疑問だった。

実はキャパについての本を読んだ事があるのだが、彼はこの写真を含めて、色々なプレッシャーを受けてきたようだ。それは真贋についてというより、彼の最愛の人の死そしてそれとは別に高まる彼の名声、私がキャパだったらとても耐えられないであろう。実際、彼はそれ以降、危険な戦場に誰より先に出掛けるのである。まるで死に場所を探しているように。

写真とは一体何であろう。スーザンソンダクは彼女の「写真論」の中で、「自分では何も説明できない写真は推測、思索、空想へのつきることのない旅である」と言っている。

まさに、澤木氏にとって兵士の写真はそのものだったはずだ。だから、彼は堪え切れず答えを見つけに行ったのだろう。

一方、バルトはその著書「明るい部屋」で「写真とは他人の視線で自分の外見と直面すること、つまり鏡でみたのとは違う、自分が完全にイメージになってしまったという、死の化身となったことだ」といっている。兵士はまさにこれだったのではないか。

 

ここにもう一冊の写真集がある。武田花の「眠たい街」という写真集だ。武田花は「ひかりごけ」の小説家武田泰淳氏と随筆家武田百合子の長女である。

彼女が80年代に撮りためた写真を集めたものだ。

何故この写真集を取り上げたのか。恐らく、何も知らない人はこの廃墟の様な景色に嫌悪感さえ覚えるものの、何回も見返したいとは思わないのではなかろうか。

私はこの写真集の街で暮らしていた。だからこの街の衰退を知っている。私にはこの廃墟の様ながらんどうの空気の中にも、ここで暮らしていた人々の息づかいが聞こえてくる。

 

この街は戦後繊維業で栄え、北関東の上海とまで持ち上げられ街は活気を帯びていた。私の幼かった頃には郊外の農家が絹糸をリヤカーに載せて織物工場に運んでいた。

多くの職工がいた。出稼ぎで来ているものも多かった。彼らは給料日になると如何わしいネオンの煌めく歓楽街に薄給を握りしめて消えて行った。この廃墟に見える街の残映の向こう側に、当時の人々が私には重なって見えるのだ。

 

そう写真はその観る人によって様々な感情を呼び起こす。その感情とは見る者個人の歴史と密接に結びついている。では写真はあくまで見る者個人としてのよりプライベートな性格なのかと言われればそうでもないものもある。多くの見るものに共感と感動を与える写真である。恐らくキャパはそれだろう。


こうした写真はその見る人達がいる社会のシステムに影響される。いわば時代の空気感とでも呼べるものかもしれない。

私は今でも、銀行に置かれた(当時アサヒグラフは銀行に置かれた書籍の代名詞だった)アサヒグラフに載っていた一枚の写真を覚えている。その写真は爆撃で村を焼かれて逃げ惑う人達を撮ったものだった。ベトナム戦争がどのようなイデオロギーと政治システムによって引き起こされたものなのか知る由もない子供でも、その戦争がどんなものか想像できた。後世になってその写真はアジア系の通信社のカメラマンが写したもので、ナパーム弾で必死に逃げ惑う住民を写したものだと知った。

カメラマンの名前もその通信社の事もすっかり忘れてしまってもその写真の事は覚えている。そう実際にそこに立ち会っていないものが、私によって客体化され「死」した。一方、彼らは私の意識の中で再構築される。写真は「死」と「再構築」の作業そのものではあるまいか。






 

 

私の記憶法

もうこの歳になったので記憶がイイなんて間違っても言えないけれど、若い頃はとても良かったのです。もっとも能力が高いとかそういう類ではなく、ただひとつ特別な記憶法があったからなのです。

ちなみに高校の頃の世界史は履修期間の中間、期末テストの素点平均が98点でした。

これは先にも述べた記憶法によるものなのです。

それは耳と目を同時に使うというものです。

まず、机の前にカセットデッキを用意します。それに自分の声で質問してその声を録音していくのです。

そしてその質問を後で聞きながら声に出してまた答えるのです。

ひとりでぺらぺらしゃべっているので息子が頭がおかしくなったのかと母も心配したらしいですが、暗記を必要とする科目は全てこれで対応していました。

よく書かないと覚えられないと言いますが、あれは嘘です。問題は映像としてどの個所を頭にインプットするかです。

ですから質問に会わせて答えると同時に、その質問の答えが載っていた書籍に目を通すのです。

書かないから時間を節約できて、処理できる量もアップします。

時には風呂場にデッキごと持って行ったりして聞いていました。これは本当に効果的でした。

30代を過ぎた時にある事に気づきました。海外に行って帰る頃になると耳が慣れてきて、会話が分かるようになのです。

これをなんとか短縮できないものか考えました。ある時にリモコンスイッチに目の不自由な人用の字幕がある事に気づいたのです。

それからはニュースを見るたびに字幕を流すようにしました。すると半分の期間で耳が慣れてくる事が分かりました。

そうは言っても英語が母国語のアメリカ人の会話ほど聞きづらいものはありません。

慣れてきても60%がやっとだと思いますが、それでもこの方法の効果は高いと思います。

高い月謝を払って駅前の*****とかいう英会話教室に行くくらいなら、是非この方法をお薦めします。

今ではデル単にCDが付いて耳から覚えるようになったそうです。私は30年以上前にそうしていましたよ・・・



2013年2月21日木曜日

川エビの唐揚げ 緑が丘 芝松


川エビの唐揚げ 緑が丘 

緑が丘に芝松というチャンコ屋がある。最近、中目黒の駒沢通り沿いにも2号店を出店した。私はここの川エビの唐揚げが大好物である。もちろん良く冷えたビールと一緒に。

一言でビールの味といっても個人の好みに分かれる。辛口ですっきりしたドライ系のビールが好きな人もいれば、濃いビールが好きな人もいる。
 
私の場合にはその土地や場所で好きなタイプが変わってくる。アメリカの乾燥した暑い場所では軽くてあっさりしたものが飲みたくなるし、タイやベトナムのように素肌に湿気がからみ付くような熱帯モンスーン気候ではもう少し重たいものが好みだ。
 
日本ではどうかという季節によって好みが変わってくる。今のような寒い時期には黒ビールとピルスナーのハーフ&ハーフをストーブに当たりながら飲みたくなるし、もっと暖かくなればオランダのグローイッシュやキリンのハートランドを飲みたくなる
 
これを自分なりに分析してみたのだが、どうやら最後のあの鼻に抜ける香りに関係があるようだ。
 
冬は活動量も低く、ひっそりと息をしている。そこへ行くと夏は大量に発汗し息使いも荒くなる。当然、鼻から取り込む空気も多くなりより敏感になると言うわけだ。
 
皮膚粘膜の感受性と言うのはどうやら湿度、温度に影響されるようである。今度、論文でも書いて発表してみる事にする。
 
冗談はさておき、そんな日本の夏は無性にビールが旨い季節でもある。そんな無敵のビールに合う料理は数あれど、川エビの唐揚げほど合うものはないと断言できる。
 
ビールの持つ匂いを川エビの香ばしい匂いでひれ伏せて逆に川エビの脂っこさをビールの豊潤な炭酸が洗い清める。これぞ相乗効果というやつである。肝心のちゃんこはどうだって?川エビしか記憶にないのである。歳を取るとこれだから困る。
 
もう少し量があってももちろんへっちゃらでペロリといける・・
 
 



 

ネットワーク時代の真贋


ネットワーク時代の真贋

友人に勧められてブログやフェイスブックを初めて数年になる。もっともフェイスブックはまだ始めたばかりなので偉そうな事を言える訳ではないが、このところ気になった事を書いている。

私の場合、ブログとフェイスブックの住み分けが大分はっきりしてきた。日々の日常の事はフェイスブックで、そして少しまとまった考えや実験的なものはブログで行うようになってきたからだ。

フェイスブックを初めて自分の内面が見られるとか、プライバシーが無くなると心配のあなたはこれ以上読まなくてよろしい。もう少しレベルの高い話なので。

フェイスブックはその設定の仕方如何でどのようにもなる。内々だけの内容ならそう設定すれば良いし、もう少し世間の中に入り込みたいと思えば設定を変えれば良いだけである。

私の場合はフェイスブックでは「それとはなしに」私の考えを伝えている。ネットばかりで実際のコミュニケーションが無くなったと嘆いている向きもあるようだが、私の場合はネットが無い時よりも伝えやすくなった。それも細かなニュアンスのような難しい感覚的事柄もネットでは伝えやすい。

仕事の本質はプロとしての意識をどこまで相手に共感させるかだと思っている。これが出来なければ良い仕事など出来ない。

つい先日、私がLAに行って見てきた事もSNSにその断片をアップさせることで多くの人が私の知っていることを共有する。

もうお気づきの方もおられようが、つまりSNSとは個人的な事なのだが、その人の役職や仕事によってはよりビジネスに直結するのだ。ソチオリンピック一番乗りの女子アイスホッケーチームがフェイスブック禁止令を出されたように、大企業の役職ならば緘口令ならぬSNSの投稿禁止は無理からぬ話なのだ。何故なら私の様な個人商店ではないのだから。

ところでユーチューブや写真の投稿サイトを見るととても面白い作品が掲示されている。
これもネットワーク時代なればこそ誰もが簡単にプロになれる訳である。

しかしここに落とし穴がある。楽しいねと無料で見ているうちは良いのだが、いざお金を払って見るかと言えば、そこには大きな垣根がある。こうした現象が多くみられる。

実際の世界だったら、いくらたまに作る料理が旨いねと言われてもプロのコックを目指そうとは思わない。でも仮想の世界ではそれらの一切の厄介な事が取り除かれるので、勘違いしてプロの料理人を目指そうと思う人が出てくるのだ。

大変失礼かと思うが、何とか食堂のレシピ本が出ているがあれはまるで病人食だ。あれが旨いと言う人はどんな舌をしているのだろう。仕方ない、彼らはプロの料理人ではないのだ。プロの料理人と栄養管理士は全く別の次元の話なのだ。どっちが高いとか低いとかといったものではなく、つまりは次元が別なのであるから。

SNSを使っている皆さん。プロでない限りあくまで自分はアマチュアである事を自覚して、くれぐれも少し儲けてやろうなどと邪な考えは持ちませんように、そうすればみんなが楽しく繋がれるのだから・・・

追記

最近デジタル化以前の写真を整理した。過渡期のAPSという規格の物もあったが、大方はフィルムである。驚いたことにデジタル化する以前の写真はデジタル化された写真の10分の一しかなかった。
我々はデジタル化されるまで様々なものを削ぎ落して来たのだ。良く言えば精査してきたのだ。今もなお心に残るキャパの写真はそんな中に秘められていたかと思うと尚更愛おしくなる。
博覧強記のRパパのお薦めのこの本、そろそろ届きそうである。週末にしっかり読んでその後横浜美術館に行ってキャパの削ぎ落としの傑作を観てこようか・・そのあとはライカを持って中華街へ・・・










2013年2月20日水曜日

パンのための学問

息子が研究者を目指すと決めた時に私が一つだけお願いした事がある。

それは「パンのための学問をするな」ということである。

何を偉そうな、所詮食べるために働かなければならず、お前の言っている事は詭弁だと反論する向きもあろうが、敢えて私は申し上げるのである。

人は食べるために働かなければならない。それはその通り。

しかし、多くの色々な業界の人に会っていて、特に成功をしている人の概ね、食べるための大変さより仕事をしている楽しさの方が前面に出てくるのである。

そうした人は会社を褒めこそすれ、上司の悪口を言うことも無い。嬉々としたその表情を見ている内にこちらも安心して、その人を信頼する。

一方、上司や会社の悪口を言っているような人(私は交わらないのだが)は魅力が全くない。魅力どころか自己弁護と言い訳の塊のようなそうした人物は当然のごとく回りから嫌悪される。

奥田碩氏が講演で日本人も嫉妬からそろそろ賞賛のできる国民になるべきだと言ったときに、もうひとつ経営者にオンとオフは要らないと言った。その後の私の座右の銘になるその言葉だった。

退職したら蕎麦打ちをするといのは私の辞書にはない。やりたいなら、今やるべきである。なんで短い人生嫌いな事をして生きていかなければならないのだろうか。

だってそうでしょう、人生にオンもオフもないのだから・・・・・

どうしたら食べていけるかという話ほどつまらないものはない。どうしたら楽しいか、好きな事を話す方が何倍素敵であろうか。

美味しい料理の話、楽しい旅行の話、これから完成する家の話、昨日乗っ面ツルの波乗りの話・・・

そうした事を共感できる人と一緒に仕事や遊びもする、それで良いのでは・・・

以前にも書いたけど私の幸せの方程式を再掲する。

幸せ=happiness=√(健康)×(人間関係+価値の共有時間)

※√は全体にかかっています。健康は係数です。







2013年2月19日火曜日

科学技術の進歩とその汎用化


昔の写真です。日付に93年10月7日とあります。

見て戴きたいのはその後ろに移っているパソコンです。

義父が新しい会社を立ち上げ、その運営スタッフからどうしても必要と言われて購入したマックです。

結局、何も貢献しないまま、私のところに用済みでおろされました。当時の価格で200万円しました。

私が覚えたのは「エイリアス」位なものです(笑)


一方こちらは昨日購入したHDDです。容量は1.5Tあります。

そしてUSB3.0が2.0と併設されています。これで1万2000円です。

私のようにSEでも、工学系の知識も持ち得ていない典型的文系人は次のように考える訳です。

科学技術の進歩というものは日進月歩です。新しいからと言ってすぐに飛びつくのは、20年前のマック同様、お金をどぶに捨てるようなものです。

メーカーは次から次に新しい技術を市場に投入します。過去の例を挙げればレーザーディスク、ベータ方式のビデオ、MD、メモリースティックなどなど・・・枚挙の人間がありません・・・

しかし、今残っているのはほんのわずかなものです。それとて変化の中では定状している訳ではありません。

このHDDが3.0と2.0を併設している意味はそういうことです。

断っておきますが、一部のどうしてもその先進機能が無ければ仕事のできない人は別です。

プロのカメラマンのように撮影に数100万円を掛けて海外に出掛ける仕事となれば、RAW画像と一般的JPEGなどを一緒に記録するということになります。そうするとこの送信速度が大きく影響します。

結局、USB3.0の搭載したスペックのPCと組み合わせることになります。そしてやっと新規格のメモリーカードが本領を発揮する訳です。

これにはこの価値がありますが、私のような一般人はやはり技術が汎用化されるのを待つべきです。

ではいつこれが汎用されるようになったと考えるか、これが難しい問題でもあります。あまり長い間新しい技術を使わないのは、逆に時間の浪費になりますし、さりとて早く手を出し過ぎれば環境が整備されない・・・


えっ??きょろきょろと回りを窺う・???その通りかもしれません・・人生に最適解がないように・・



2013年2月14日木曜日

玉子 三橋農園 伊勢原


玉子 三橋農園 伊勢原

卵料理の上手な女性は男性を惹きつけると何かの本に出ていた。本を持ち出すまでもなく世の男性の多くは玉子好きである。かくいう私も玉子とピーマンの醤油炒めがあれば他は何も要らない。嘘。

以前もブログでちょこっと紹介したのが、そんな玉子好きの私が一押しする伊勢原の三橋農園の玉子である。朝一番に行かなければ買えないのであるが。

生玉子用として売られているブランド玉子の中には普通の倍も3倍もするものもある。食べてみるとあれっと思うものもあり、ここより美味しいと感じたことはない。もっとも始めはどんなに新鮮でも、食卓にのぼるまでには時間は掛るだろうし、高ければ中々売れないということもある。

そこへいくとここでしか買えないこの玉子は新鮮の折り紙保証付きである。そして価格がまた嬉しい。スーパーの生卵の価格とさして差が無いのである。生玉子用の醤油と言うものも売られているが私は生玉子には切れ味のヤマサより少し田舎っぽいキッコーマンが合うと思う。もっと甘みが欲しければたまり醤油もよかろうが、私はキッコーマンの丸大豆醤油の封を切りたての物と決めている。何故なら醤油は封を切るとすぐに風味が損なわれてしまう。玉子と一緒だ。

難点なのが伊勢原まで行かなければならない。車だと厚木まで東名で走ってから下に降りる。当然高速料金が掛ってくるわけだ。それにガソリンも掛る。なんだ結局、高いじゃないかと言うなかれ、新鮮さは保障されているのだから。それとそんな考えが脳裏にあるとつい買い過ぎてしまう。すると何日かして玉子の新鮮さは失われ本末転倒となってしまう。新鮮なうちに食べられる分を買うのが宜しい。





Diversity

ロサンゼルスを訪問して驚いたのは12年前と比較して、どの場所も安全になっているということだ。

もっとも今でも深夜や女性の独り歩きは危険極まりないが、こと昼間に限ってはそんなことはなかった。

景気が良くなると街は安全になるというが、今のアメリカが本当に景気が良いとは言い難い。

ロサンゼルスに暮らす二人の日本人男性に話を伺ったところ、二人とも異口同音に「珍しくなくなったから」という言葉を聞いた。

1992年に起こったロス暴動のその根源は人種間軋轢であることは明白だった。

その直後に訪れた私達は言わば同類のアジア人として見られていたのだろう。差別や攻撃的な人達に何回も遭遇した。

当時も今も一部のアングロサクソンの人達は言葉にしないまでも、決定的人種的偏見を持っている。

ところがアメリカという国は他の国の民族を取り入れることによつて成長している。ニューヨークが人種の坩堝として教科書に掲載されている通りである。

アメリカと言う国はこの”Divesity”こそが生命線なのであり、一部の人達の偏見や優位性を除いてマスとしてはこの特徴を受け入れているのではないだろうか。

それが彼らの「珍しく無くなった」という言葉の意味ではないだろうか。

片や我が国はどうだろう。

人工減少高齢社会と誰もが知りながら、この”Diversity”を受け容れたがらない。

フィリピンやマレーシアに厚生労働省が介護や看護の分野の門戸を開いたと言っても、実際には言葉の壁や官庁の横並びの弊害により、多様性には程遠いのが現状である。

こんなことを嘆いていたら、良い本が見つかった。

鈴木 鍵氏の「なめらかな社会とその敵」である。

本の内容については内田 樹氏が紹介しているのでそちらを参考にされたし、鈴木氏はサルガッソーという会社も運営している。サルガッソーをご存じの方なら著者の慧眼はお分かりのはず。

 
 
 
 

http://blog.tatsuru.com/

2013年2月13日水曜日

私のアメリカ

1979年の8月私は片道のチケットを握りしめてロサンゼルス国際空港に立っていた。

経由便に載せられやっとアメリカに着いた。外は雨が降っていた。

食費とアルバイトで貯めたいくばくかのお金で格安航空券を購入した。確か空港会社も何もかも決まっていない、まるでこれからの自分を暗示するような心細いスタートだった。

海外どころか飛行機にも一度も乗ったことのない若者が初めて降りたのがここロサンゼルスだった。

私にとってのアメリカはポパイや平凡パンチに掲載される西海岸の文化そのもので、そこには日本にない自由と新しさがいつもあった。

それから30年以上が経過し、そんなことを忘れていたときに、ふとしたことで青山のギャラリーに足を運んだ。

するとそこには当時にそれらの雑誌にアメリカから情報や写真を送ってくれていた小林昭さんがいた。

そう、彼の「P.O.P」の写真集の個展だった。彼は昨年からサーフィンを始めたらしい。

サーフィンはとても魅力的で、自然と一体になれると言っていた。彼らしい。

その中でも特に私の印象に残ったものがこの一枚。マリブの全景だった。

記憶の澱の中に忘れいた記憶が甦ってきた。

若者の暴力的とまで言えるエネルギーが当時のヒッピーやサーファーに静かに神託された自由と寛容と引き換えに広がっていたアメリカ、そのアメリカを観たかった。

果たしてアメリカは変わってしまったのだろうか。

答えは言わない。

この写真を見て考えてほしい。

日本とアメリカ、この二つの国は同じように年をとったはずなのに、ふたつの国の立っている場所がまるで違う。

どちらがどうのと言うんじゃない、ただ違うのだ。














2013年2月4日月曜日

パリ憧憬



初めてパリを訪れたのは1997年だった。
降りたシャルルドゴール空港は古いターミナルでエスカレーターがガシャコショと音を立てていた。
建物を出ると11月のパリはもう真っ暗になっていた。
タクシーにトランクを詰め込み行き先のホテルを告げた。
途中から雨が降り始めタクシーの窓にはしずくが横に流れた。
小一時間でパリの市内についた。暗闇の中、タクシーは石段の下で止まり、ここから先は歩いていかなければならないと言われ、重いトランクを引きずるように運びあげた。
石段の中腹にはちょっとした広場があり、ホテルはその広場の横だった。
雨は不思議にあがっていた。
部屋は狭く、トランクを置くと足の踏み場もなかった。
翌朝目が覚めると外はまだ暗い、小さな食堂は10人も座れば満席になる。
クロワッサンのバターの香りが疲れた胃にコタエル。
私はゆで玉子だけ食べて表に出た。
当時はまだ映画のアメリも上映されておらず、パリの下町のモンマルトルには日本人は少なかった。
坂道を上がり、頂上付近のテルトル広場に行くと観光客相手の似顔絵かきが広場に点在していた。
広場の隅に小さなカフェがあった。11月なのに夏のように暑いその日は何としてもビールが飲みたかった。フランス語でビールはビェールだった。そこからパリの屋根が見えた。
あれから何度もパリに通った。飛行機もエコノミーから上のクラスに変わった、ホテルも少しずつ高級な物に変わった、食べるところも次第に要領を得てきた。
しかし、この時のパリが無性に懐かしい。高級でなくても、美味しくなくても、何も知らなくても、私を一番心ときめかせたのはこの時のパリだったからだ。石段の下から2メートル近くの大男のセネガル人がやってきて、同胞と間違えられ大きな手で握手されたのはこの時だけだった。あの男が出稼ぎで働いていたイタリアレストランは今もあるのだろうか。今年はパリに行ってみようか。



2013年2月1日金曜日

サボテンと私


サボテンと私

小さい頃から何かを集めるのが好きだった。切手やコイン、観光地のバッジなんかも集めていた。この収集癖は何から来ているのだろう。小学校3.4年生の頃だった。毎月、お小遣いを握りしめて近くの園芸店に通った。錦桜橋という鉄骨製の橋のたもとにあった。その橋は厚い鋼鉄を無骨なボルトで締めあげられた男っぽい橋だった。今はコンクリートのぺらんとした無機質な橋に変わってしまった。

その園芸店の軒先には小さなプラスチックのポットに入れられたサボテンが大きな木枠に囲まれて数十鉢並べられていた。その中から珍しそうなものを見つけて1鉢ずつ買っていた。1年を過ぎた頃には10種類のサボテンが揃った。母は邪魔だと言わんばかりにサボテンをやじるがサボテンは動じない。

サボテンは決して寡黙ではない。サボテンは陽気だ。じっと見つめていると話しかけてくる。だが決して騒々しくもない。彼らは哲学者というより地理学者のようだ。
人間が容易に住めないような厳しい環境に適応するためだけに自分を進化させた。いや敢えて言うなら余分な物を切り捨てて退化したのかもしれない。そんな彼等は私達と同じ空気や水を吸って生きている。

事務所の新築祝いに何が欲しいか尋ねられ、サボテンと答えた。事務所には2鉢のサボテンが元気に育っている。そして昨日また小さなサボテンを6鉢購入した。

皆さん何故サボテンと言うかご存知か?元々は南蛮人がこの植物の樹液を石鹸代わりに使っていたから、シャボンテンがサボテンに変わったということである。

英語ではカクタス棘だらけの植物という原意とのこと、日本の方が面白い。


しばらくサボテンの声に耳を傾けよう。





まくら とよかつ 恵比寿



恵比寿で15年間飲食店を経営していた。経営していたと言っても雇われマスターだったので気苦労は多かったが実入りは無かった。人が足らない時には皿洗いまでして手伝った。あの頃はどうしてそこまで頑張っていたのだろうと思うが、人間そういうものである。
私の店は名酒菜席いちという45席ほどの居酒屋だった。駒沢通りに面して間口が狭くその奥にあった下宿をそのまま改装したものだった。当時は景気が良かったせいもあって、毎晩のようにウェイティングが出ていたこともあった。当初運営は外部に委託していたがバブルの煽りを受けてその会社は消えて行った。その後は職人を入れるも長続きせず店は荒れる一方だった。結局、自分たちでやるようになった。メニューも何度も試作して自分たちで作った。中でも評判が良く売り切れが続出したのがインド風の肉じゃがと鰯のコロッケだった。前者は所謂カレー風味の肉じゃがである。ただし、パプリカとトマトがアクセントになっている。鰯のコロッケは鰯を一匹手開きにしてコロッケを作る。昨今の鰯の不漁ではとても高くてお客様に出せないだろう。
そんなとき働いていたスタッフと夜食を取るのが日課だった。夜食と言っても掃除して店を出る頃には12時を回るのだから開いている店は限られる。当時は斜め前に美味しい頃の恵比寿ラーメンがあり納金所の隣にある香月でも良く食した。洋食が食べたい時には代官山のポエムでイカスミのパスタを食べたりもした。今考えると信じがたい夜型だった。店でも焼き鳥を出していたのでスタッフと焼き鳥屋に行くことはなかったが、遠くから客人が来て満席で自分の店に入れないときなど私が時間つぶしがてら使うのが恵比寿のとよかつだった。
ここはいわずとしれたホルモンの店である。ホルモン好きにはたまらないであろうが、実は私はあまり得意ではない。食感云々より脂っこいと感じてしまう。これは今も続いている。ここの名物につくねに韮を巻いたまくらという一品がある。実はこれが私の大好物なのである。店で出していたつくねには生ハムも入れたちょぃと西洋風の味付けであるが、こちらはホルモン屋で出す直球勝負のつくね串である。プレディナーとしてこの串を1本とビールを一杯飲む頃には店の席が用意出来たと連絡を受ける。今の様に携帯電話は無い。アルバイトの男の子が自転車で呼びに来た。この店のまくらを見るとあの頃、東奔西走して我武者羅に走っていた自分を思い出す。