シャリアピンステーキ 鎌倉 コアンドル
あれはまだ夏の熱気が残る秋のことだった。雨が降り始め掘り出し物の古書をパーカーで覆い隠すように傘をさしながら、近くに雨宿りとワインでも飲める店はないかと探していた。昨晩、イタリアンだったので今日はフレンチが良いと小町通りの看板を縦に追っていたところ、蔦のからまった一軒家が目に入った。歴史を感じさせるその佇まいは私の経験からするととびきり最高かそれとも全くの外れかどちらかである。ましてや小町通りである。少し心配になった私をよそに妻はさっさと入っていってしまった。
タータンチェックのベストを着たそのオーナーと思しき男性に奥の席に案内された。
妻の名誉のために断っておくが、妻は英米文学の専攻だったので、日本の純文学というものには詳しくない。おそらく英文の原書はそうとうな量を読んだであろうと推察する。
メニューを開いてみると、フレンチというよりは上等な洋食屋のそれである。その中に
「大仏次郎先生が好きだったシャリアピンステーキ」とあった。
ご存知の方も多いと思うが、このシャリアピンとは女性の名前である。この女性音楽家が来日したときに当時のオークラだったか帝国ホテルだったか忘れたが特別にお依頼して作ってもらったレシピと記憶している。ところが世の中のシャリアピンの多くは、ジンジャーソテーである。あれは違う。ただ、玉ねぎと生姜がのっているだけのそれはシャリアピンもどきである。シャリアピンはしっかりとマリネされなければならない。それにより肉は柔らかくなり、芳しい香りをまとうのだ。それにこのステーキはご飯と抜群に合う。
私はオーナーの薦めるワインをグラスで頼み、迷わずこのシャリアピンステーキを注文した。妻も同じものを注文した。ただし妻が発したのは「ダイブツジロウセンセイノスキダッタシャリアピンステーキ」だった。
オーナーはピクリと目を動かしたが何も言わず奥に消えて行った。おそらく厨房では笑いの渦となり、料理を作るどころではなかったのではないか。出されたそれは丁寧な仕事をしたもので、肉は柔らかく厚さも丁度良い。そしてソースが抜群にうまい。満足した事は言うまでもない。あれ以来妻に誘ってみるが中々応じようとしない。今年の夏あたりにもう一回チャレンジしてみよう。ほとぼりは冷めてますから・・