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2014年3月6日木曜日

通洞駅

少年は折角の夏休みを足尾で過ごさなければならない事が毎年苦痛だった。友達は家族で海水浴やキャンプに行き、学校が始まると口々に楽しかった夏の出来事を話し始める時に少年の夏はいつもきまって足尾だったからだ。

足尾といっても少年の住む場所は街ではなく、集落もない場所だった。駅は無人駅で1時間に一本通過する電車以外、人影も見当たらない。町役場に手当された住宅と窯は質素で雨風がしのげる程度のあばら屋だった。駅から住宅までおよそ6百メートル程だったが、人家は2軒だけだった。

そんな少年が母に買い物を頼まれたことがあった。今では考えられないが当時はいい意味で鷹揚だったのだろう。買い物と言っても近所に店はない。お醤油を買うために一駅電車に乗って買い物に出掛けなければならなかった。決められた時間に駅につき電車を待った。実家からこの無人駅までは何回も乗車したので駅名も諳んじていえる程だったが、この先には行ったことが無かった。
電車に揺られて見慣れぬ光景を進んだ先に駅はあった。通洞と書いて「ツウドウ」と読む。鉱山用語だと知ったのはずっと後になっての事だった。少年は駅に降り立ち、母から渡された地図の方向に向かって歩いた。扉を開けようとしたが閉まっていて開けられない。小さな拳でノックするが誰も応答しない。仕方なく、他に店がないのかその小さな街を歩きまわった。
大人になれば大したことのない距離だったが、少年には永遠に続く道の様に感じられた。ある場所を通りすぎようとすると酒に酔った男たちの怒声が聞こえた。生くさいホルモンの煙の向こうに一升瓶を片手に大声で騒いでいる男たちが見えた。
少年は咄嗟に目線を逸らしたが遅かった。下着姿に腹巻きを巻いた男が立ち上がって「オイ、坊主こっちこい」と叫んだ。少年は無我夢中で後ろを振り返らずに必死で走りだした。駅についた少年は汗でびっしょりになった額を手で拭いながら、あの男がやって来はしまいかとブルブル震えて物陰に身を寄せていた。電車がやって来たのはそれから15分後のことだった。
駅の裸電球にスズメガの気色の悪い目玉のような模様がはっきりと映しだされていた。
今でもこの駅の名前を聞くとあの時の男たちの声が蘇る。