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2012年8月31日金曜日

夢の話

数年前まで見た夢を記録していた事があった。私の夢は白黒だったり、カラーだったり、音があったりなかったり、冷たかったり暖かかったり、その夢によって違う。

中には明らかに昨晩のこんな言動や体験がそえさせたものだろうと思えるものがあるが、多くは潜在意識の奥に澱のように淀んでいる記憶の断片の事が多い。

今朝方、30年近く前に亡くなった父親の夢を見た。私が電車を降りるとカーキ色のトレンチコートをきつくベルトで結んで、帽子を被った父親の姿が見えた。

私は父親と分かりながらも、先を急ぎ見て見ぬふりをする。しばらく進むと、こんな機会はもう訪れないのではという焦燥感にかられ、引き返す。

そこには父親に会えて感激して両手を握る叔父(父の兄)の姿があった。

死んでしまった父親の手は冷たいのだろうと思って、腕に触れると暖かい。その時夢は終わった。

考えてみるとここ1.2か月は娘の結婚が目の前に迫って、親と子の関わりや、やがて消えゆく運命の私達や、新しい命との関わりなど今まで考えもしなかった感情が生じていた。

娘や息子の年齢には考えもしなかったような老境を迎える親の感情である。

妻も私も寂しいからの感傷と言う訳ではない。友人は新しい家族が増えるのだから嬉しい事ではないかと私に言う。確かにそうなのだ。世の中の常なる流れであり、何一つおかしなことはない。

ただ、割り切れぬ感情なのである。

別の友人は娘の父親は永遠に孤独であると言う。なるほど言い得て妙である。

考えてみれば子供を授かり育て上げる喜びは何物にも代えがたい。ただし、それはいっとき神が(無宗教なので一般的例えとして)私達に与えてくれた至上の喜びなのかもしれない。

そして喜びを与えると言う事は、永遠の孤独をその裏側に隠しているのだ。

数年前アボリジニの画家の絵を見た。彼女の死の数時間前に描いたと言う絵はまさに混沌に向かう一瞬の映像のように感じられた。

CMに人生の意味など考えても仕方ないというのがある。そうかもしれない。人生の最後が混沌に向かう一瞬の曳航だとすれば、その一瞬に走馬灯のように記憶の断片に残照される映像そのものが人生なのだから。

今日で8月も終わりです。夏の終わりの海は季節の中で一番寂しいと思います。




2012年8月30日木曜日

失敗と成功

昨日タケシさんの絵描き小僧展観てきました。会場を訪れた人は口々にタケシは天才とか、全く作品が理解できないとか言っていました。

確かに才能は認めます。でもタケシさんが芸人にならずに絵描きを本業としていたらどうでしょうか。

私は上手く行かなかったような気がします。芸人であって、映画監督であって、そして絵描きなのです。この順序が大切なような気がします。

若い人の中には自分はこの職業があっていないとか、自分の事をこの会社は過小評価しているとか、はたまた会社のやっていることは社会正義にあらずと陳腐な義にかられて分かりもしないうちに会社を飛び出したりして悩み続ける人がいますが、世の中の職業ってそんなもんじゃないような気がするのです。

理想は変わります。変わらないのはその人が成長していない記です。

ここで人間は成長体験と失敗体験を混ぜこぜにして、判断していくものなのです。

知り合いに某国立大学を卒業して大手商社に就職するも高校生の時にブラスバンドで味わった高揚が忘れられずに、もう一度音楽大学に入り直して音楽家を目指しましたが旨く行かず、結局40歳を過ぎた今も音楽だけで食べて行けず、飲食店の手伝いをしてなんとか生活している人がいます。

もう一人は中学の時に数学オリンピックに出場しメダルまで獲得したのですが、彼はその時自分より数学の能力がある人がこの世界にいる事を十分理解し、結果、数学の道には進まず現在国立大学のとある病院長をしています。

もちろんこの二人はそれぞれ満足しているかもしれませんし、不満を持っているかもしれませんから他人がとやかく言う事はないのですが、要するに私が言いたいのはバランスを欠いた成功体験だけでも、失敗体験たけでも人間の判断はバイアスが強くなり、極端な方向に向かわせる傾向があるということです。

タケシさんはそういったことを知っていたのでしょうね。

失敗が多いから心配だとお嘆きのあなた心配はありません。人間の脳は都合よく出来ていて、失敗を覚えている脳は成功を覚えている脳の10分の1程度ということです(笑)

2012年8月29日水曜日

梅花皮 かいらぎ

父親が焼き物を作っていたのだが、往々にして息子や家族はそんな陶芸には興味を持たず、ましてや嫌う傾向にあった私だから多くの事は忘れてしまった。

ただ、一つだけ私の記憶にある言葉、それが梅花皮(かいらぎ)である。

父親が徹夜開けで釜明けした数十点の作品の中で唯一気にいったものがあったらしく、作業場の別のところに飾っておいた。

翌日、父親がその茶碗を手に取ってみると高台にあった梅花皮と素焼の淵が見事に綺麗にサンダーで削り取られていた。

一緒に作業を手伝っていたいた人が気をきかせて、塗りのテーブルが傷ついたらまずいと思ったらしい。

父に言わせれば、全くのお節介で、数日かけて作ったものがお釈迦になった瞬間だった。

その時に釉薬の微妙な縮が突然生まれ、器に雰囲気を与える事を知った。それを梅花皮と呼ぶということもその時知った。

もともとはエイの背骨のようにゴツゴツした形をした魚から転じた言葉のようであるが、この漢字でかいらぎとはどう考えても読めないので覚えているのだ。

多くの知識は忘却される。しかし、体験の記憶が重なったときに意識の最下層に鎮座し、中々散歩には出掛けなくなる。梅花皮もそんな一つ。

2012年8月27日月曜日

観光の受難

観光という言葉の語源はウィキペディアによれば『易経』の、「国の光を観る。用て王に賓たるに利し」との一節による。大正年間に、「tourism」の訳語として用いられるようになった。ただし、学者や論者によって定義が違うこともある。例えば、国土交通省『観光白書』では「宿泊旅行」を「観光」「兼観光」「家事・帰省」「業務」「その他」に分けている。この解釈によると、家事・帰省、業務、その他を除いた旅行が「観光」でとある。

全国各地に観光旅館、観光ホテルと名のつく施設も多く、観光バスは今でも多くの旅行客を乗せて活躍している。

こう書けば未だに観光は日本人の余暇の中心で、まだまだ地方活性化の切り札と思われるかもしれないが、実はこの観光が今窮しているのだ。

熱海の大型観光旅館が相次いで店じまいした。熱海は東京から近く日帰り客に変わってしまったからと論ずるかもしれないが、どうしてこの観光旅館の経営不振は熱海に限った事ではない。

20年前、北陸を中心とした超豪華な旅行に便乗させてもらったことがある。旅行会社の人に言わせればその二泊はK屋という海沿いのホテルと山代温泉のHという旅館が群を抜いて素晴らしいと言う。実際に泊った感想はただ建物だけが大きく、テーマパークのようなそれは私の思っていた北陸のイメージとはかけ離れたものだった。

今回逗留した旅館はこのK屋とHのようなホテルは除外した。除外したというより、私が停まったMという旅館は大型温泉旅館から辛うじて個人客にターゲットの変更がなされた稀有な旅館なのだ。
そこを観てみたかった。

案の定、山代温泉にしても山中温泉にしても団体客が激減していると聞く。もちろん柴山潟に面した片山津温泉も同様である。

大きな建物はボロボロで修繕の余裕すらなく、寂れる一方である。

私の泊った旅館はやはり観光客が激減する中、資金注入と回収を続け3期に別けて改装を行い、個人客に対応できるようになったという。

以前、水戸市内にある老舗旅館のリフレッシュを頼まれた事がある。お世辞にも綺麗ではないその施設を変えるには莫大なお金が必要となる。しかし、もっと変えなければならなかったのは経営者の気持である。何とかなっている(最低限)うちには次の手を打とうとしないのだ。それが顧客の減少を加速し、最後にはどうしようもなくなる。

その旅館の主にどんな宿屋に宿泊した事があるのか聞いて見たが、海外はおろか日本の話題になっている旅館にも忙しくて行った事はないという。それでは見込みはない。まずそこから変えなければ話にならない。

今回、金沢で食した店で一番美味しかったのは、観光ガイドにも、本にも載っていない友達が教えてくれた店だった。本やガイドの店はどこもそれなりに混んではいたが、味はひどいものだった。
もはやガイドや本によるつまりマスメディアの情報より、SNSによる信頼に足る人の情報がより信頼出来るという結果であった。

インターネットの普及により情報の発信者と受信者が同質化する。マスメディアの片務性は解消され莫大なデータが集められる。もちろん玉石混交ではあるがリテラシーを持ってその情報を読み込めば知は集積される。

若い頃、お世話になったお客様の家の新築設計のプランニングをお手伝いしている時にその家の奥様から「オルセー美術館の2階のコリドーのような床にしたいの」と言われた。私は知らなかった。今のようにインターネットで調べることも出来ず、私は反省した。そして実際に見ることでそのお客様と情報の共有をやっと果たしたのだ。

観光に携わるひとにこそ、この事実を理解すべきだと思う。旅行がパーソナライズされ、楽しみ方が増えた今、受けての一方的情報提供とサービスが中庸なものとなり、顧客が望むものと乖離してしまったら、次はもう行かなくなる。

兼六園の徽軫灯籠の前で団体写真のお客を待つカメラマンと21世紀美術館の中でアングルを変えながらスイミングプールで写真を撮っていた若者を観て、その対極に今観光業界が置かれている縮図のようなものを感じた事を付記しておく。

片山津温泉で唯一、人々の往来が多く、元気だったのは谷口吉生氏が設計した地元住民の立ち寄る街湯だったのは皮肉である。










2012年8月22日水曜日

蜑戸のすすめ

昨日、新刊で発売されたばかりの三浦氏の本を読んだ。タイトルは「東京は郊外から消えて行く」というショッキングなものであるが、一昨年、光が丘団地を訪れた際に感じた高齢化と人工減少は私の住んでいる田園都市沿線とて他人ごとではないと思うことがあいまって納得していた。

住宅は多すぎるのであろうか・・・確かに今までのようなライフスタイルを続けようとするならば必要かもしれない。本にも書かれているが私達のライフスタイルが変化しているのだ。そうなれば今まで同様の住宅供給を続けても無理なのである。

私は100年住宅とか200年住宅という考え方に反対である。彼らはその方がエコロジーだという。果たしてそうだろうか。それはその住宅が天寿を全うした時の話であり、もし仮に主人が病死して後を継ぐ人が居なくなったらどうであろう、結局は掛けたコストは無駄にしている訳である。

日本には元来、危機管理意識から出来る限りお金を掛けずに、また災害があってもすぐ再建できるような家が存在していた。そう、海ギリギリにたつ海女小屋つまり蜑戸である。蜑戸はタンコと読む。

これは中々日本と言う災害の多い国に適した考え方だと思う。これには家なんて大したことない、人間の命が助かればまた建てれば良いさという天災に適応してきた日本人のやわらかさが伺える。

カトリーナ効果という言葉がある。カトリーナによる被害は甚大で多くの犠牲者を出した。しかし、一方ではこれを人災という考え方もあるのだ。本来、川の災禍流域であるデルタ地帯は土地が軟弱でさらに洪水や高潮の被害が予想され多くの人の住まない地域だった。それが被害を受けていない期間が相当数経過し、人々はそのリスクを忘れてしまっていた。日本だって埋立地の多くはそう言われて以前は敬遠されてきたのだ。

我々は忘却の人である。痛い思いをしても数日経てばすぐ忘れる。鶏と変わらない。だからまた痛い目に会うのである。だったら、ことさら気張らずに軽く考えて、住宅何ぞを建ててみたはどうだろう。災害が来たら、スタコラサツサと逃げるのだ。それが私の蜑戸のすすめである。

私が目黒通りに家具屋を入れたのはかれこれ20年前になる。当時の目黒通りはいくつかの外食チェーンと自動車販売のディラーがあった放射道路として商店街なるものは形成されていなかった。

家具店など集まる筈がないと言われたが、当時、前の会社で丁度渋谷に家具と雑貨のビルをオープンさせたこともあり、家具や雑貨の買いまわり性り高さを知っていたので、自動車がこの買いまわりを助けてくれるのではとヒントを得て勝算はあったのだ。

それから雨後のタケノコのように家具店が増えた。でも今はどうなのだう。駐車違反が煩くなり、かといって駐車場を備えた家具店は少なく、利便性に欠けている。これじゃ駄目だ。

賃料も上がり、広い売り場面積を必要とする家具店には逆風である。オーナーは今に胡坐をかいているといつかは足元をすくわれる。

世の中は移り変わる。変化は絶えず起こっている。常態を良しすれば苔むしる。高校の時に教わった。ローリングストーン(ころがる石)は苔むさない。

私の場合、鮎に食べてもらっても良いが、苔蒸さぬ老人と相成りたいものである。


ちなみに何故、魚へんに占うと書くか知っていますか。ちなみに中国では鮎と書いて「ナマズ」のことです。

2012年8月17日金曜日

日本人としての宿疴

北方領土、竹島、尖閣諸島と我が国は何故多くの領土問題を抱えているのか、考えてみれば全て我々が日本人として生まれてきた事により避けられない事前問題だった。

これらの問題は私達が生まれるずっと以前、たどりたどれば明治政府による日清戦争、日露戦争にまで及ぶ。

我々が今こうして太平洋戦争に敗戦し、多くの犠牲者を出したのも、元をたどればこの精神性に辿り着く。

外圧により開国を余儀なくされた明治当時の日本は、先進国の仲間入りを果たすために必死だった。

また当時は帝国主義の中、多少荒っぽいやりかたでも欧米列強は自らに火の掛らない極東の島国のことなどどうでもよかった。

いや、ロシアが弱体化してくれる方が好都合だった。ただ、それだけのことだった。

しかし時代が変わってもずっと相も変わらぬ精神性をこの国のトップが持ち続けていた。太平洋戦争の末期のこの国は情報を分析する力も、そんな慧眼を持った政治家もいなかった。

だからソ連の参戦が分かっていても講和に進まなかった。その結果、シベリア抑留者、原爆被害者、局地戦の死者を含め莫大な数の日本人が犠牲になって行った。

これらの一般の日本人にはロシアの参戦のことも、ポツダム会議のことも知らせられなかった。

なのに彼らに非があろうか。靖国参拝を他国が干渉する事に憤懣を覚える。一般の日本人も同様に戦争の被害者であり、犠牲者なのだ。私の祖父もシベリアで病死したので祀られている。

こんな災禍を経験したのに、戦後の日本人は平和ぼけをしている。いや、石原氏の言葉を借りれば平和の毒にやられている。

従軍慰安婦の問題、竹島の問題、尖閣諸島の問題すべて外交のせいにするのはお門違いである。慰安婦問題だって日本人が言いだしたのだから、我々自身が火をつけたのだ。それもきちんとした証明もせず、マスコミの劇場化を利用し声高に叫ばれたこの事がいまどんな問題になっているのか代議士としてのうのうとしている当時の犯人は知っているだろう。

我々は日本人として生まれてきた。もちろん極端なナショナリズムで自己武装をすることも嫌悪されるが、あまりに無頓着にマスコミや他の国の意見を耳にすると、自分の意見を持たないこの国の多くの人に憐れみを感じる。

日曜日にテレビをつければ政治は相手のあらさがし、バラエティ番組は無教養ぶりを面白おかしく映す・・・・

「法に照らして厳正に対処する」・・・・官僚のようなこの言葉では国民には何も伝わらない。

亡国の感強まれり・・・・

2012年8月16日木曜日

CAR GRAPHICS #101 Model991 carreraS/ Panamera GTS/BoxterS

久々の試乗報告です。お盆は道がすいていてとても走りやすく、今朝、息子を新横浜まて送った時も道はガラガラでした。

3時から少し時間が出来たので、PC横浜に電話してみると、お盆で試乗車はどれも空いていて時間してしなくてもゆっくり乗れるとのことでした。

実は911のニューモデルことモデル991は機会が合わず未だ試乗していなかったのです。さらに最初からポルシェの4ドアなんてと馬鹿にしていた、パナメーラのことをずっと911を乗り継いでいるクリス・ペトラーさんがパナメーラに乗り換えたと紙面にあったので少しばかり食わず嫌いの自分に反省です。

試乗した911はカレラSのPDKです。装備品満載のこの車体は2千万近くします。まず驚いたのはチープな手動ドアミラーが電動になっていました。室内も豪華で一昔前のレーシングカーとは趣は異なります。走りもさらに誰でも運転できるポルシェになっていて、突き上げも皆無です。全長が伸びたことに加えて、最新のデバイスでコンフォートです。スポーツモードにしても雨の日はちょっとと思わせた以前ポルシェと違い、すこぶる優等生です。なるほどカレラもGTカー化していっているのですね。それにしてもガンメタとシルバー(写真でわかりづらい)のホイール・・かっこいい!!

もう一つのパナメーラはこちらはやんちゃなGTSです。思ったほど全長を感じさせませんが、比較するとその大きさに驚かされます。ハンドリングはリニアでしかも、剛性も高く、確かにすばらしいサルーンです。そう運転して楽しいサルーンです。決してスポーツカーではありません。しかし確かに良くできています。赤のステッチがアルカンターラに程よくマッチしてかっこいい内装です。

最後に以前、ボクスターとケイマンに乗った時に911と乗り比べて、価格に応じたパワートレインと感じたそれは格段に良くなっていました。古い911と似ているのはこっちのほうかもしれません。ブレーキングもミッドの恩恵からよく効きます。エンジン音も軽やかで、運転していて楽しい車です。

覆面のパトカーが居たので静かな運転??でしたが、堪能させていただきました。

営業の人が言うように、確かにニューケイマンが楽しみです。(カメラのバッテリーが切れてパナメーラとレーシングイエローのボクスターは撮れませんでした)




2012年8月10日金曜日

音楽と私

お店をやっていた関係でBGMは手作りだった。今のようにItuneなどという便利なものはなく、当初はLPからテープを作り、その後はCDを録音した。そんな関係からジャズやボサノバのCDは増えて行った。
一方、息子は楽器(テナーサックス、ファゴット)を部活で演奏していた事もありクラシックばかり、N響の会員にもなっていたことがあるほどのクラシック好き。でも彼は実際の演奏をコンサートホールで聴く事が好きで、オーディオはもっぱらi pod・・・・
妻と娘と言えば何となく今はやっている音楽、どちらかというJ popというジャンルを聴く事が多いようだ。
そのジャンルに傾倒し、より深く、それぞれの演奏や録音状態の違いまで拘って聞くというプロフェッショナルなマニアとしての楽しみ方も素晴らしいと思うが、あの機材を揃えて、環境を整えようとする事は私の今の経済力からは到底無理なお話である。

そんなプロの楽しみ方とは大分違うが、私にとっての音楽とは記憶装置を呼び起こすような、いわばタイムバックするための目覚まし時計のようなものだ。


つい先日、このパプロクルーズというバンドが30ぶりに来日するニュースとそこで流れた音楽を聴いて一気に私を30年前に連れ戻した。

このパプロクルーズを聴いた(直接でなく映画のBGMとして)のは1979年だったと思う。

友人と九段会館で上映される「FREE RIDE」というサーフィンムービーを観たときのことだ。

会場は髪の毛の長いおかっぱ頭の日に焼けたサーファーで溢れかえっていた。

お金の無い私達は近くのパン屋でパンとコーヒー牛乳を買い、夕ご飯とした。



パットメセニーの「サンロレンツォ」を聴くと大学の友人と中野サンプラザで開催された彼の来日コンサートに行った時のことを思い出す。

時間があったので友人宅を訪ねるともパットメセニーのことを良く知らない私に友人I君はよく説明してくれた。私は持っていなかったが彼は確かフェンダーを持っていて、ギブソンのアコースティクも欲しいと言っていた。

彼はその後郷里の新潟に帰り、銀行に就職したと聞く。



バイトをした翌日、友人の車で茅ヶ崎に向かい、明けやらぬ空を眺めながらラジオのスイッチをひねるとFENからサンタナのギターが聞こえてきた。音楽が終わるころにはすっかり日が昇り、まわりでは一斉に緑色のサーフキャリアからボードを降ろす若者が見えた。

あの車は何色のセリカだったのだろう、海からの帰り道、バスと衝突してお釈迦になってしまったのは遠い記憶・・・ふたりとも無事だったのが不思議なくらいだった。今もそれを思う権田坂・・・・

記憶とは曖昧である。しかし、音楽という装置はその記憶を再構築してくれる。







2012年8月9日木曜日

都市の階層化

8月17日に発売される三浦展氏の新刊「東京は郊外から消えて行く」楽しみにしています。

職業柄、日本の住宅は人工減少の傾向にありながら、多すぎると感じています。さらにそうして無理やり作られた住宅地は郊外に展開し、住む人たちが均質化していると感じます。

多摩ニュータウンの高齢化の話はマスコミでも取り上げられ有名ですが、神奈川県もこうした県営の住宅に住む人達の高齢化が顕著です。

公団に限った事ではありません。私の暮らしている田園都市沿線も比較的開発が早く始まったある駅のスーパーや百貨店は何処を見ても高齢者が多く、午前中は若い人を見かけるのも一苦労です。

こうした住宅地やニュータウンの人工減少は氏の本を待つまでもなく当然予想され、多くの空洞化現象を生むことでしょう。

パリ、ロンドン、ニューヨーク・・・世界中の大都市でここまで大きな都市圏を持つ都市は見当たりません。ニューヨークだってニュージャージーから通勤しているという声も聞こえますが、あちらでは働く場所と住む場所が東京のように連続していないのです。東京は川崎、横浜と繋がっているだけではなく連続しているここが最大の特徴だと思うのです。

何が良くて何が悪いのかという話をしている訳ではありません。

環境への負荷を考えて、長く持つ住宅、そうです。100年住宅を建てた知り合いがいます。

建ててすぐ奥さんに先立たれ、息子達も家を出たために5LDKの大きな家はほとんどの部屋が空室です。その彼は今でもその家にしがみ付くように大方のローンを払いながら一人で生きています。

この話は極端な例ですが、私達が住宅に思い描いていた考え方を少し改めるべきではないでしょうか。

私があるクライアントに提案したのは巨大な1LDKの住宅です。家族それぞれのプライベートな環境は導線と目線を利用し上手く利用して確保し、出来る限り固定化しない空間としての家です。

家族構成が変わってもまたすぐに再構成できるような家です。

これにより当然コストは圧縮され、当初予算の6割程度になりました。銀行への返済も大分少なくて済みました。

日本的ものづくり(工業化)ではガラパゴス化が叫ばれて久しいですが、何も携帯に限った事ではありません。後席からみるテレビ、花粉シャッターなどなどとにかく全てのものが付いていればよいとばかりに全部載せの発想で作られる車も良い例で、住宅とて例外ではありません。

話をもとの高齢化した都市に戻します。

この高齢化した都市の問題は実は高齢化と同時に階層化が進んでいるということなのです。

郊外のこうした住宅地を購入できる人は収入が多いか、親からの援助によって取得します。

当然、これらの経済力は階層化をもたらします。

今までの学校教育では頑張れば出来ると教えていました。本当に頑張れば出来るんでしょうか。

この呪術めいた平等論こそが曲者で、教育の階層化を引き起こしているのだと思うのです。

自分の周りに努力して成功した大人が多く、そうした人を見ながら育った子供の「がんばる」意欲とそうでなく育った子供の意欲では当然異なってくるからです。

泥水いた魚を清流に話しても上手く育ちません。また、その逆も同じです。

つまり都市の郊外では人口が減少し空洞化が起こる一方で、教育におけるこの階層化は助長され、さらに子供の教育は危機的状況に追い込まれて行くのです。

教育行政を行っている人は教育についてのみ議論します。そうです。現場の問題とばかり学校の中での問題だけを取り上げ、子供たちか取り巻かれている社会的ムーブメントには目も触れない。

これでは上手くいくはずがありません。学校だけの教育で子供が育つのではありません。学校、家庭、社会それらが互いに影響しながら子供の教育は行われているのです。

先日、家の近くのゴミ置き場の近くにすーっと大型の外車でやって来て、ゴミ袋をそのまま捨てて行った人がいました。言うまでもなく傍若無人の行為ではありますが、まずいことにすぐ近くで登校中の子供が見ていたのです。

するとゴミ置き場の掃除に出てきた近所の方が「こんなところに出しちゃだめなのよね」と子供に聞こえる声で話しながら、そのゴミを片付けたのです。

些細な事かも知れませんが、彼女の登場でそうした大人が普通なのかそうでないのか、彼の心象風景は変わったはずです。

都市の階層化、空洞化を防ぐ手段として「シェア」があります。若者を中心にかなり浸透してきた感がありますか、郊外の保守層の間ではまだまだ他人とシェアする発想には至らないようです。

明解な解決法は分かりませんが、この郊外に住む身としては、家に思い入れをしすぎず、いつでもどうなってもいいや位に軽く考えるようにしていきたものです。現実は中々難しいでしょうけど・・・















2012年8月8日水曜日

偶然と必然

イトイさんのブログにも書いてあったように、世の中のほとんどの事は偶然である。

専門家と称するエセ未来予想家の言う事はほとんどあたらない。

この歳まで色々な人を見てきた。バブルの頃には随分と色々な人が現れて消えて行った。

とある証券会社の重役は私に「10億なら責任を取らされるが、100億なら取らされないから、お金を借りろ」と言ってきた。もちろん借りなかった。

ある人は建築違反の建物をどうしても建てたかったらしい。色々なツテを頼って、最後には超法規的手段を用いてまで完成させた。もちろんたかだか14坪程度の建物に5000万円以上のお金が掛った。

全ての事柄が偶然だとすれば、何もしない方が良いなんて言う気はさらさらない。ただ、あまりにもその時点で考えて強引な事は結果としてあまり良くない事になるような気がする。

世の中の全ての事象が全て自分に関係する訳ではない。その中のいくつかの限られた事象が自分との強い関係性を持つ。ならば他の事象は無視して良いのだろうか。

宇宙の粒子のごとく、いずれか一方の存在を否定してしまえば、その偶然も成り立たなくなってしまう。

偶然の関係性が必然なのだから、あくまでその全体が宇宙を構成するのと同じ。

親戚で大先輩でもあるアパレルメーカーの社長が良い事を言う。「寝ざめの悪い事はしない」

その通り。大賛成である。

今自分が不幸だと思っている人は自分から幸せを手放してしまっている。幸せは幸せだと思う人に集まってくるのだ。

人間誰しも自分が大切だ。ただ、その自分より大切なものが無い人は不幸になる。大切なものは配偶者でも子供でも犬でもよい。自分の身より愛しい存在であれば何でも良い。

私が大過を犯さなかったのは恐らくそのためであろう。

今日も大きな偶然が必然となるそんな一日だと思うと身が引き締まる。

2012年8月7日火曜日

武田百合子

ご主人の泰淳氏の「ひかりごけ」はだいぶ昔に読んだ事はありましたが、百合子さんのこの冨士日記を読んだのは、娘さんの武田花さんのこの写真集を購入してからでした。

このモノクロの写真集は丁度私が上京した頃の私の故郷を含めた、東武伊勢崎線付近の衰退していった地方都市を切り取ったもので、今はなき「新川球場」も載っていましたので私にはノスタルジックでもありました。

ところでお母さんの百合子さんの文章はなんというか、男より男っぽいというような、切り味の鋭いものです。

野上弥生子氏のものにも似た独特のものがありますが、彼女の表現はさらに男っぽさというか、斜めから見据えたようなニヒル感が漂います。そうかと思えばあっけらかんとして、全く拘りの無い純真さを見せたり、不思議な感性です。

この時代の女の人は現代の人にないような強さを感じます。その強さは我を張るというのではなく、人間の本質的な強さではないのかしらんと思えます。

昆虫や動物に対する冷めた目はそうした事を物語っているようです。

手に入れるには古本屋に足しげく通うしかなさそうです・・・・・・・・・・・