8月17日に発売される三浦展氏の新刊「東京は郊外から消えて行く」楽しみにしています。
職業柄、日本の住宅は人工減少の傾向にありながら、多すぎると感じています。さらにそうして無理やり作られた住宅地は郊外に展開し、住む人たちが均質化していると感じます。
多摩ニュータウンの高齢化の話はマスコミでも取り上げられ有名ですが、神奈川県もこうした県営の住宅に住む人達の高齢化が顕著です。
公団に限った事ではありません。私の暮らしている田園都市沿線も比較的開発が早く始まったある駅のスーパーや百貨店は何処を見ても高齢者が多く、午前中は若い人を見かけるのも一苦労です。
こうした住宅地やニュータウンの人工減少は氏の本を待つまでもなく当然予想され、多くの空洞化現象を生むことでしょう。
パリ、ロンドン、ニューヨーク・・・世界中の大都市でここまで大きな都市圏を持つ都市は見当たりません。ニューヨークだってニュージャージーから通勤しているという声も聞こえますが、あちらでは働く場所と住む場所が東京のように連続していないのです。東京は川崎、横浜と繋がっているだけではなく連続しているここが最大の特徴だと思うのです。
何が良くて何が悪いのかという話をしている訳ではありません。
環境への負荷を考えて、長く持つ住宅、そうです。100年住宅を建てた知り合いがいます。
建ててすぐ奥さんに先立たれ、息子達も家を出たために5LDKの大きな家はほとんどの部屋が空室です。その彼は今でもその家にしがみ付くように大方のローンを払いながら一人で生きています。
この話は極端な例ですが、私達が住宅に思い描いていた考え方を少し改めるべきではないでしょうか。
私があるクライアントに提案したのは巨大な1LDKの住宅です。家族それぞれのプライベートな環境は導線と目線を利用し上手く利用して確保し、出来る限り固定化しない空間としての家です。
家族構成が変わってもまたすぐに再構成できるような家です。
これにより当然コストは圧縮され、当初予算の6割程度になりました。銀行への返済も大分少なくて済みました。
日本的ものづくり(工業化)ではガラパゴス化が叫ばれて久しいですが、何も携帯に限った事ではありません。後席からみるテレビ、花粉シャッターなどなどとにかく全てのものが付いていればよいとばかりに全部載せの発想で作られる車も良い例で、住宅とて例外ではありません。
話をもとの高齢化した都市に戻します。
この高齢化した都市の問題は実は高齢化と同時に階層化が進んでいるということなのです。
郊外のこうした住宅地を購入できる人は収入が多いか、親からの援助によって取得します。
当然、これらの経済力は階層化をもたらします。
今までの学校教育では頑張れば出来ると教えていました。本当に頑張れば出来るんでしょうか。
この呪術めいた平等論こそが曲者で、教育の階層化を引き起こしているのだと思うのです。
自分の周りに努力して成功した大人が多く、そうした人を見ながら育った子供の「がんばる」意欲とそうでなく育った子供の意欲では当然異なってくるからです。
泥水いた魚を清流に話しても上手く育ちません。また、その逆も同じです。
つまり都市の郊外では人口が減少し空洞化が起こる一方で、教育におけるこの階層化は助長され、さらに子供の教育は危機的状況に追い込まれて行くのです。
教育行政を行っている人は教育についてのみ議論します。そうです。現場の問題とばかり学校の中での問題だけを取り上げ、子供たちか取り巻かれている社会的ムーブメントには目も触れない。
これでは上手くいくはずがありません。学校だけの教育で子供が育つのではありません。学校、家庭、社会それらが互いに影響しながら子供の教育は行われているのです。
先日、家の近くのゴミ置き場の近くにすーっと大型の外車でやって来て、ゴミ袋をそのまま捨てて行った人がいました。言うまでもなく傍若無人の行為ではありますが、まずいことにすぐ近くで登校中の子供が見ていたのです。
するとゴミ置き場の掃除に出てきた近所の方が「こんなところに出しちゃだめなのよね」と子供に聞こえる声で話しながら、そのゴミを片付けたのです。
些細な事かも知れませんが、彼女の登場でそうした大人が普通なのかそうでないのか、彼の心象風景は変わったはずです。
都市の階層化、空洞化を防ぐ手段として「シェア」があります。若者を中心にかなり浸透してきた感がありますか、郊外の保守層の間ではまだまだ他人とシェアする発想には至らないようです。
明解な解決法は分かりませんが、この郊外に住む身としては、家に思い入れをしすぎず、いつでもどうなってもいいや位に軽く考えるようにしていきたものです。現実は中々難しいでしょうけど・・・
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