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2013年10月31日木曜日

TENTATION DE JIBIE

正式にはgibierではなくsauvageです。何故ならgibierには一定の条件下で飼育された獣肉も入ってしまうためで戴いたこれは正真正銘の野生だからです。
フランス語で鹿はcheveuil=シュヴルイユといいます。野生の肉の中でもすぐに血抜きしないと血が回ってしまう扱いの難しいものなのですが、我が家にはこの季節になるとこの嬉しいこの贈り物が届きます。もちろんこれとてご主人のハンターの腕のなせる技でしょうが、
この美味しい贈り物を届けてくれるのは黒のラブラドールを飼っている横浜在住のご夫婦です。セプとさくらに感謝。犬がいなければ出会えなかった縁だからです。
ご主人が狩猟し、奥様がそれを捌くというなんとも仲睦まじいご夫婦であります。
昨日も新鮮な蝦夷鹿のもも肉と貴重な心臓を戴き、家族で美味しく食べさせていただきました。
飼育された獣肉との違いは何と言ってもその肉の持つ生命力です。肉を噛みしめれば今まで生きていたその動物の命を感じます。私達がいかに多くの動物達の犠牲の上に成り立っているのかつくづく考えさせられます。それだからこそ骨まで大切に味わいたいと思うのです。
ということで今回は蝦夷鹿のもも肉のグリエのレシピです。もし手に入ったら是非チャレンジしてみてください。秋の深まりとともにこのジビエでとったフォンは格別でありますから。

蝦夷鹿のもも肉のグリエ

■用意するもの■
蝦夷鹿もも肉 塊、蝦夷鹿の骨、クズ肉
香味野菜
セロリ、人蔘、エシャロット、タマネギ、パセリの茎、にんにく、ローズマリー、タイム
お酒
赤ワイン、ポルト酒、ブランデー
調味料
塩、胡椒、キャトル・エピス、バルサミコ酢
その他
バター、網脂、ピーナッツオイル
付け合せ
きのこ各種、じゃがいも、根セロリ

■作り方■
①    血や筋を掃除した肉に赤ワイン、香味野菜(半量)を入れ一晩マリネする
②    骨、屑肉、香味野菜(半量)にピーナッツオイルを掛けてオーブンで焼く
③    大鍋に半量の水を入れ②をこそげ落とすようにして入れて、灰汁を掬いながらよく煮込む
④    ①の一晩マリネした肉を取り出し、水気を拭きとり網脂をかぶせる
⑤    ①のマリネした野菜、ワイン、さらにバルサミコ酢を大鍋に加えさらに煮込む
⑥    煮汁が1/3程度になったら野菜や浮遊物を漉す。これでソースの基本が出来上がり。
⑦    千切りにしたじゃがいもと根セロリに塩コショウしピーナッツオイルで片面ずつ焦げ目がつきカリッとするように炒める。
⑧    きのこはバターでさっと炒め塩コショウしておく(肉が出来上がる寸前)
⑨    網脂の上からバターを塗り、塩コショウ、キャトル・エピスを振り、肉の表面をさっと色づく程度にフライパンで焼く
⑩    肉の上にステンレスのボウルなど被せて10分休ませ、次に200度のオーブンで5分焼き、さらに同様に被せて10分休ませる。これを5回から6回繰り返す(肉汁が出なくなって肉が膨らんできたら出来上がりです)
⑪    ⑥の基本のソースにブルベリージャム、ポルト酒、ブランデーを加えアルコールを飛ばし、バターを加えモンテする。最後に塩コショウで味を整える。(ジャムはお好みで加減してください)






2013年10月30日水曜日

サーフィンが教えてくれたこと

 30代のはじめサーフィンから離れていた時期がありました。離れていたというよりサーフィンをやっていることをあからさまに公言しなくなったのです。子育てや仕事でそれどころではなかったという理由もありますが、サーフィンをやっているというとみんなが怪訝な顔をするからでした。ある年配の人に「そんな若者のスポーツより紳士的なゴルフをやりなさい」と勧められたこともあります。要するにサーフィンは世間の目からすると「そんな若者の」スポーツだったのです。

私が初めてサーフィンを知ったのは19歳の夏でした。正確には初めてその時サーフボードを触ったのです。それから6か月が過ぎた頃、アルバイトで貯めたお金を握りしめて中古のサーフボードを買いました。タウン&カントリーのデーンケアロハモデルのボードはところどころリペアの跡が黄ばんでいてお世辞にも綺麗な板とは言えませんでした。あの頃、日本ではサーフボードがロングからショート変化し、ボード自体にもコンケーブやチャンネル、ツインフィンにトライフィンと新しい性能がどんどん取り入れられていきました。

ノンシャランを気取った自由な学生生活も就職というごく当たり前の工程表の中で忘れ去られていきました。リーのジーンズにTシャツの生活から、紺色のリクルート用の背広に着替え生活は次第に海から離れていきました。
あの頃、なぜ自分が実力もないのにあれほど過信していたのか分かりません。分からないですが絶対に自分は志望企業に受かると思っていました。その世間知らずの確信は一日であっけなく崩れました。

私にとって教職を諦め企業就職を決めてからそれが人生初めての挫折でした。私は折れた心を携えて友人とサーフボードを車に付けて西浜に出かけました。しばらくぶりの海でした。オフショアの風に飛ばされる水飛沫きを見ていて、ちっぽけな自分が何かに固執していることに気がつきました。その固執こそ自分を視野狭窄にしているのだと。それまで企業の就職担当者から志望理由を聞かれて、紋切型に暗記した内容を答えていた自分が馬鹿らしくなりました。それから知名度や売上でなく好きな事に携われる会社を候補に入れました。
おかしなぐらいにこちらはトントン拍子に運んでいきました。そして数社から内定をもらいました。その中でも蓄音機と犬のマークのレコード会社では、何が得意かと聞かれ、謝ることですと伝えると担当部長が大笑いして、「それゃうちに向いているよ、君は洋楽より演歌の方がいい、きっといい仕事をする」とも言われたことがありました。

私のサーフィンは少しも上手くならないのは今に始まったことではありません。当時もショートになってからろくに海に入っておらず、新しく買ったアイパのツインフィンは浮力もなく、時々サーフィンをする鈍った身体には扱える代物ではなかったからです。
それから数年が経って二人目の子供が生まれ、仕事は相変わらず二足のわらじどころか三足のわらじで多忙を極めましたが生活の息苦しさは変わりませんでした。
ちょうどその頃ロングボードが復権し始めていました。ロングボードの最後の時期にサーフィンに触れた私にはこの復権には全く抵抗がありませんでした。

初めて買った新品のロングボードは9フィートの水色のティントの美しいサーフボードハワイのものでした。シングルフィンではなく、小さなフィンが付いていました。それから数本を買い換えているのですが一向に上手くならない。いつになったら大きくて深いボトムターンが出来るのだろうと上手い人を見ると羨ましくなります。それでもサーフィンを続けています。どんなに風で波がぐしゃぐしゃでも、小さくてテイクオフが精一杯な波でも笑顔で楽しむことにしています。海に入った以上嫌な顔でサーフィンをしたくないと思うからです。だって、好きな事をしているのですから。

 海の上から陸を見ると、陸から見える風景とは全く違うものが見えます。ハワイだって海の上からワイキキを見ると自分が違う世界からやってきたと錯覚を覚えます。

 それにしてもこの古い写真はサーフィンを始めた当時のものです。場所は伊豆の大浜です。断っておきますがTシャツをトランクスに入れているのはシャツのコーラが溢れたからでいつもではありません。()いくら田舎者でもその程度は理解しておりました()

そんな昔も懐かしみながらもそれでもいつかはサーフィンもできなくなります。でもそれまで何とかサーフィンを続けたいのです。だから無理は禁物ソローリソローリと様子を伺いながら身体と相談してサーフアップをするのです。ただし、みんなにサーフィンを続けているとこれからはしっかりと公言しながら・・






2013年10月29日火曜日

大局と小局


大きなスタジオを運営している人が売上が減少しているのは若者の雑誌離れが顕著でその煽りを受けているのだと言った。その時はなるほどそうなのかと思った。
その後知り合いのプロカメラマンのスタジオは震災で多少の落ち込みはあったがその後は順調に推移していると聞く。この違いが何故なのか分からなかった。そしてつい一昨日、仕事を一緒にしている設計士さんが大手の雑誌社のスタジオの回収を手がけているという話を聞いた。全体はコーディネイトするがスタジオの中味はその雑誌社の人たちが手作りで行うという。
このスタジオをつくるには理由があったそうだ。まず、既存のスタジオの中に自分達が使いたいスタジオがないということ。そしてとても高額な使用料に辟易していること。だから自分達で作ったという。

私は仕事をしていて同じようなことに遭遇する。それは物事をすぐ大局で済ませてしまう評論家のような人が多いことだ。こうした人達は自分の足元のことに気づかない。スタジオは箱だと思っている人がいたらそれは大間違いである。スタジオがただの箱の時代はもう終わったのだ。単純な写真ならばPCで好きな様に加工できる。どうしてもそこでないと撮れない写真は海外に出かけて撮ってくる。その間を埋めるときだけ必要なのだ。そしてカメラマンが劣悪な環境で作業する時代も終わったのだ。考えてみればスタジオに集うすべての人が酷い環境だと思っているのならばそのスタジオには明日はない。

つい最近テレビで大阪の有名ホテルがメニューの偽装をしたと報じられた。残念ながらあそこで出されていたジュースが搾りたてだとは私は思わなかったからいいのだが、本物を飲んでいたらすぐ分かるはずだ。この問題の芽は彼ら自身の経験のなさにつきる。前述のスタジオもそうだが運営している本人達にプロとしての自覚も興味も感じられない。だからこんなものでいいだろうと思ってしまう。

親戚筋に当たる人が長らくアパレルメーカーを経営している。昨今の経営環境を考えると驚きである。もっともその人は小売からの叩き上げの人でたとえ息子であっても好きでなければ続けられないと会社には二人の息子は入れていない。そして今も黙々とデザインを研究している。

これは人ごとではない。私のところも貸しホールを運営している。オーナーの懐具合や経営環境をつい考えてしまうと利用者側に立った助言が遠慮がちになってしまう。それではいけないのだ。絶えず利用者の目線に立たなければ明日はないのだ。自戒も込めて。




2013年10月28日月曜日

キャッチ&リリース


我が家は昨年、長女が愛知県に嫁ぎました。長男は来年よりレジデントとして勤務するため、自宅からは通えないので病院の近くで一人暮らしの予定です。そういう意味では二人共大方巣立ったようなもので子育ての総仕上げの段階です。

子供は確かに可愛いです。でも親が彼らの一生を背負ってあげることは出来ません。子供が幼い時、また彼らが色々な壁にぶつかってもがいているようなときには、親は手を差し延べ優しくキャッチすることも必要です。ただ気を付けなければいけないのは、このキャッチが行き過ぎてリリースが上手く行えない人が多いのです。子供を自立させるためには子離れは辛くてもいつかはリリースしなければならない。多くの親達はこのリリースの時期を逃してしまっている。中には、結婚後も子供をずっと縛り付けて、それが子供の幸せだと思っている人もいます。こうしたところでは子供の方も親の安全な囲いから決して抜けだそうとはしないものなのです。

教育に限ったことではありません。お金についても同じ。お金をいくら持っていてもそれはただの紙切れです。使い方を知って初めてお金になるのです。若い時貧しかったから執着するのは仕方がないという人もいます。衣食足りて礼節を知るともいいます。確かに貧しさは心を荒ぶらせることも多いでしょう。しかしその境遇を脱してもなお、心荒ぶるではまずいのではないでしょうか。こうしたリリースの出来ない人は裏を返せば、現在に満足していないのです。昔は良かった昔は良かったと自分の遺構にすがりつき、こんなはずじゃなかったと人生を恨んでいる。だから何かに執着しないと生きていけないのです。
ではどうすれば良いのか。答えは簡単です。自分と違う職業や考え方の多くの人に出会う事です。そう簡単には出会えないと機会の少なさを嘆く前に自らこれを消失していませんか。

私はスタッフによく言います。人との会話の中で言葉が多すぎるのも困りものだが、阿吽の呼吸宜しく、何も話さなくても意思が通じると思うのは大きな間違いであると。私達は毎日知らず知らずのうちに人を選別しているのです。この人とならもう少し話をしてみたい、また会ってみたいと思わせる言質が必要なのです。ではその言質は何ぞやと考えるとこれは最後にその人の興味ということになるでしょう。その人の引き出しの多さということになるのです。実は勉強するほんとうの意味はこのくだらない使いもしないような知識の習得こそが本意なのです。

みなさん今日もリリースしていますか、全てのものをキャッチし続けるのは無理なことですし、難儀な事です。だったら、どんどんリリースしていきましょう。ほら、軽くなったでしょう。私の頭のなかはそんな息子のこととホットレジンに混ぜ込むポリマーの量が果たして何パーセントが最適解なのか並考しているのですが・・







2013年10月23日水曜日

MY FAVORITE SPACE

居心地のいい場所

バブルの頃には毎週のように夜の銀座に繰り出し日に何十万、何百万というお金を使っている人がいた。私には残念ながらそのような経験もないし、もし出来たとしてもやらなかっただろうがそこは価値観の違い、それが楽しいとして遊んでいたのなら他人が口を挟むことではないと思っている。何故なら、当時そうしてお酒を飲み歩いたのはその人がその場所こそ居心地のいい場所だったからだ。

若い時に出会った人がいる。当時、新進気鋭のデザイナーとして世界的に有名になった人のマネジャーをやっていた。デザイナーはほどなくしてエイズで死去し、そのブランドもなくなった。その人は白髪交じりの長髪に赤みを帯びたヘリンボーンツイードのジャケットを颯爽と着ていた。今でもこの柄のツイードの生地を探すが見つからない。そのくらい私にはインパクトがあった。ジェットセッターで世界中を旅するその人は一枚のブランケットを携行していた。そう、どんな場所でも自分にとってそこが居心地の良い場所にするために。その人は東京を離れた。今は益子の山の中で自分のしたい仕事をしている。きっと居心地のよい場所を求めて行き着いたのだろう。

私もずっと居心地の良い場所を探し続けている。しかしそれは決してバブルの頃の銀座の飲み屋でもないし、一食数万円もする高級レストランでもない。海岸の突端でハンモックに揺られながら擦り切れたヘミングウェイを読み過ごした時間、911のハンドルから伝わる路面の情報を楽しみながら、ほとんどブレーキを踏むことなくスムーズに運転できた通勤の30分間、空港のラウンジで青から茜色に変化する窓の外を眺めながら出発までの時間、そのどれも居心地を求めている。そう若い頃には居心地を作るのは場所だと思っていた。ところがこの歳になって気づくことは、居心地は経験なのだと。どんな場所でもどんな時でも居心地のよくなる方法がある。

先ほども事務所の近くの小さな額縁屋のおばさんに三連のペギーホッパーの額装について相談した。同じ町内なので実物を持ってきますと伝えるとおばさんが笑顔になった。居心地がよくなった。








2013年10月21日月曜日

CARRERAとCALERA


carreraとはそうポルシェ911のことである。私が50歳を過ぎたらなんとかして乗りたいと思っていた車であり、少し遅れたが念願かなって今手元にある。

私のクルマ遍歴は30年以上になる。自分の中でルールを作っていた。50歳まではスポ―ツカーとベンツは所有しない。理由は簡単、若い自分には似合わないから。

ある人が私に言った「どうしても新車が乗りたいなら国産にして10年以上乗りなさい。もし会社に利益が出て、できる限りお金を貯めたいなら中古の輸入車に乗りなさい」

私は理由もわからずただその言に従った。そして20年続けてきて今になってその理由がはっきりと分かる。人には好みがある。跳ね馬のスポーツカーも、悪魔のような名前のランボルギーニも乗ってみた。確かに一度ハンドルを握れば官能的ですらある。でも私には金庫のように堅牢で面白くはないかもしれないが勤勉で真面目な固くしまったボディで必要以上に咆哮をあげない911以外に所有したいと思う車は今のところ見当たらない。

初めて911のハンドルを握ったのは20年近く前、あんなにも運転の難しい車があったろうかとその時思った。上り坂で前輪が浮いてハンドリングが効かない。ジムカーナや悪路で腕を鳴らしたつもりがガードレールにぶつかりクラッシュ寸前の目にあった。そして50歳を前にした現代の911に試乗した。もはやそれは当時のようなじゃじゃ馬ではなく、ジェントルにして大人の風格を携えていた。そしてやっと手に入れることが出来た。本来なら素のカレラで十分だったのに縁あってsがやってきた。先程、ジェントルといったがそういう運転も出来るということで、本来のスボーツ性能は色褪せていない。

跳ね馬もそうだが、高回転型のv型エンジンというのは低速で転がしているとブスブスと嫌な音がする。特にv10など低速走行は苦手でサーキット以外は適さないと思う。その点フラット6はブルンという震えが一発で止まり、低速からトルクが盛り上がる。
こんな話もevになったら「何?」の一言で消え去ってしまうのだろうが今のところもう少しご容赦願うことにする。このcarreraはスペイン語でレースの意味だそうである。メキシコの公道を使ったレースにこの名前が冠されてもいる。


もうひとつ建築関係のお仕事に携わっておられるなら、イタリア産の白い大理石をビアンコ・カララと言うのをご存知だと思う。そうこちらの方はワインのcarelaのそれと同じで「石灰質」のと言う意味がある。偉大なるシャルドネの白ワインを作るにはこの土壌がとても大切である。

carela がカリフォルニアのロマネ・コンティと言われるには理由がある。当主がdrcで醸造の手法を学んだばかりでなく、その若木を持ち帰り植えたことに由来するというから、相当意識したのだろう。私も先輩や友人に勧められてこのcarelaをよく飲んでいた。ところが数年前から品質が急に悪くなった。いや確かに悪くなった。値段も急落した。理由は分からないが、インポーターのせいなのか、生産の問題なのか分からないが少なくとも魅力が失せていったのだった。ところがどうだろう数日前試しにと2011のシャルドネを飲んでみると、いやいやどうして良くなっているではないですか。

少し温まってくるとまずトースト、青りんご、ナッツの香りと複雑にアロマが重なってきて、牡蠣の殻のようなミネラル分を感じ、酸味は抑えられ喉奥に仕舞われた頃にはもう一度ブーケのような香りが鼻を抜ける。これは年代物のムルソーのように石灰質の土壌から懸命に水分をとるぶどう特有のなせる技です。この値段でこれは買わない手はないと思う。

ということで二つのカレラ、今のところ私は大変満足している訳です。




2013年10月3日木曜日

やがて悲しき外国語


やがて哀しき外国語

私と同郷で一つ年上の三遊亭竜楽さんという落語家がいるのをご存知ですか。師匠は円楽一門なのですが、なんと6か国語で落語が出来るのです。そんな師匠がラジオの番組で面白い話をしていました。ポルトガルでの講演の時のこと、なんでもポルトガル語の発音というのが大変難しく特にトイレを意味する言葉が喉の奥と鼻をつまんで時間差で出すような発音らしく(グゥガァクゥガァみたいな)ポルトガル大使館の偉い人に発音を教わって猛特訓したのだそうです。現地で試してみようとホテルの若いフロントマンに告げるも首を傾げるばかり、もう一回勇気を出して行ってみると今度は両手を挙げて全くワカンナーイのポーズだったらしいのです。そこへ日本からのポルトガル語が全くしゃべれないスタッフが旅行ガイドを見ながら一言二言話すとホテルマンはトイレの方向を指さして教えたそうなのです。これには師匠も驚いて訳を調べてみると、師匠が使っていたトイレという言葉は現地ではほとんど使われない古い言葉のようなのです。師匠も言っていましたが、目の青い外国人から日本の若い人が「セッチンドコニアリマスカ?」と聞かれたら答えられないだろうと、その時の様子を語っていましたが確かにこうした勘違いは外国語に見られることですね。

この題名はもちろん村上春樹さんのエッセイからとったものですが、彼もとても面白いことを言っています。うずまき猫の見つけ方というエッセイの中で、Bitch(ビッチ)という言葉を説明していました。この言葉は映画などで相手を罵るシーンで使われますが、この言葉を無理やり「このアマ」「売女」「あばずれ」とか訳そうもんなら、まるで一昔前の日活映画みたいだと言っています。確かに後ろから来たドライバーに「この薄らトンカチ」なんいいわれたら吹き出しちゃいますね。彼はこういった「サノノバビッチ」のような言葉はそのまま訳さずに使ったらどうだと言っていますが、ようするに翻訳するにも相手の言語にそうした言葉がないと言っている訳です。納得ですね。

そしてもうひとつ言葉というは誰が使っても同じという訳ではないのですね。たとえ危険な言葉でも同じ言語圏のひとなら、まあそのニュアンスも使い方も熟知しているので火花は散るけど爆発はしない、ところが言語圏の違う人がこういった言葉を使うとそれこそ爆発炎上してしまうことがあるんですね。私が30代のころ団体で南の島に行ったことがあります。ある男性が何のクレームだったのかしりませんが、ホテルのフロントの人に向ってFack you!と言ってしまったのです。私をはじめその場にいたほとんどの人が凍りつきましたが当の本人は全く分からない。そのうち、セキュリティや他の大勢がぞろぞろ現れて警察まで呼ぶ事態になってしまいました。そのうち団体の責任者がその男に謝らせ事なきを得ましたが、まさに言葉が爆発炎上してしまったわけです。

我々はどうしようもなく外国語の苦手な日本人であるのです。いいじゃないですか、流暢にしゃべれなくても、ひとつひとつ辞書を引きながらゆっくりと意志を相手に伝えることが出来ればそれでいいと思いましょう。