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2010年1月14日木曜日

アンリ=.ルイ・ベルクソン  石井敏夫 遺稿

南仏ニースで2005年に心不全により急死した、石井敏夫氏はベルクソン研究の第一人者で97年には「哲学と笑い」で和辻賞を受賞した経歴も持ちます。

今読んでいる「ベルクソン化の極北」はこの石井氏の遺稿をとりまとめたもので、ベルクソンが唱え続けている時間・距離・空間・認識といったものがコラージュされています。

とてもよい表現を引用します。「少なくとも思考にとって、、疎外すなわち表現を可能にするおのれ自身の距離は決定的である。この距離が死なのであり、このように絶えず死を孕むことで生が輝き出る。生と死は決して対立するものではなく、一体をなした一つのものを隈どる不可分の契機なのだ

死の哲学でも求められる解答です。「不可分の契機」とは言いえて妙であります。

死の哲学

以前にも書いたことがありますが、聖路加国際病院の名誉理事長の日野原重明氏や母校で教鞭をとっているアルフォンス・デーケン教授も言っているように、私もこの「死の哲学」を実践しています。

人は生まれながらに死に向かっているのです。死は突然訪れるものではありません。このあたりは福岡晋一氏の「動的均衡」をお読みください。そして死の哲学とはいいなおせば「生の哲学」でもあるのです。

アボリジニの画家「エミールウングワレー」の死の数時間前に描いた作品を昨年観たときに「死とは混沌である」と感じました。死には「意味はない」のです。

私たちの年齢になると親の介護という問題が生じてきます。仕事もなにもかも捨てて親の介護をする、出来るという人はそれでようでしょう。でも、親は本当にそんなことを望んでいるのでしょうか?

介護とは、私は見看(みとり)だと思います。つまり自分を生んで育ててくれたことへの感謝と敬意であり、食事や排泄の世話をすることだけが介護ではありません。看護とは最後に充実した人生を送れたことと子供に看取られて死んでいく幸せを混沌の中に閉じ込める作業かもしれません。

生物は自分子孫を残すためには、己の身さえ犠牲にします。昨年、逝去した先輩の「死は怖くない、しかし親より先に死ぬことがいやなんだ」という言葉が胸に刺さります。

親<子<孫この不等号の持つ意味は大切にしなければなりません。

そして生きてるこの今を大切にしなければならないのです。今日吸った空気は明日はないのですから。

点の記 剣岳


浅野忠信さん主演の「点の記 剣岳」を観ました。スクリーンで観たかったのに願いが届きませんでした。というわけでDVDです。残念ながらBDではありません。


高校時代、山岳部に入ろうととしたところ母親に「山とバイクはやめてくれ」と懇願されなくなく入部を諦めた私としては、近代登山に興味を持ち、高校時代は「新田次郎」を愛読していました。


私の頃には、旺盛な自己顕示欲で物議を醸したアイガー北壁最短登頂で有名な「ラインハルト・メスナー氏がマスコミに登場した頃です。そういえば石井スポーツでメスナーモデルなる極寒仕様のダウンを持っていたことがありました。


映画は明治人が前人未到の剣岳に挑戦し三角点を示し測量を行うというものですが、実際に登頂し、ロケをしたとのことで映像にはリアリティーがあります。


雪庇に立つシーンなど危険そのものです。迫力がありました。


それにしても、このところ坂の上の雲 正岡子規役、龍馬伝の岩崎弥太郎役とはまりにはまっている香川照之さんがここでも良い演技をしています。


才能と努力、これに勝るものはありません!!!!!