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2010年1月14日木曜日

死の哲学

以前にも書いたことがありますが、聖路加国際病院の名誉理事長の日野原重明氏や母校で教鞭をとっているアルフォンス・デーケン教授も言っているように、私もこの「死の哲学」を実践しています。

人は生まれながらに死に向かっているのです。死は突然訪れるものではありません。このあたりは福岡晋一氏の「動的均衡」をお読みください。そして死の哲学とはいいなおせば「生の哲学」でもあるのです。

アボリジニの画家「エミールウングワレー」の死の数時間前に描いた作品を昨年観たときに「死とは混沌である」と感じました。死には「意味はない」のです。

私たちの年齢になると親の介護という問題が生じてきます。仕事もなにもかも捨てて親の介護をする、出来るという人はそれでようでしょう。でも、親は本当にそんなことを望んでいるのでしょうか?

介護とは、私は見看(みとり)だと思います。つまり自分を生んで育ててくれたことへの感謝と敬意であり、食事や排泄の世話をすることだけが介護ではありません。看護とは最後に充実した人生を送れたことと子供に看取られて死んでいく幸せを混沌の中に閉じ込める作業かもしれません。

生物は自分子孫を残すためには、己の身さえ犠牲にします。昨年、逝去した先輩の「死は怖くない、しかし親より先に死ぬことがいやなんだ」という言葉が胸に刺さります。

親<子<孫この不等号の持つ意味は大切にしなければなりません。

そして生きてるこの今を大切にしなければならないのです。今日吸った空気は明日はないのですから。

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