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2011年10月18日火曜日

HALEKULANI HOTEL

オアフ島のホテルはベッドのスプリングが飛び出していたコンドミニアムに始まって、シェラトン、モアナサーフライダーなど15年にわたり、色々なホテルに泊まりましたが、このところハレクラニとワイキキビーチマリオットを交互に使っているような気がします。

今回の11月はマリオットの予約は入れてあるのですが料金が大幅にアップして、かつ最低宿泊が掛っているのです。

ならばハレクラニの姉妹ホテルワイキキパークホテルの予約状況を確認すると満室でした。

結局、最低宿泊の掛っていないハレクラニの方が格安になるためハレクラニにしました。

行動は別々でも友人家族が一日遅れで到着の予定です。彼らとここハレクラニのサンセットをハウス・ウィズアウト・ア・キィで楽しみたいものです。

このショーには元ミスハワイの優雅なフラが観られます。オアフ最高のサンセットが楽しめます。

この写真は昨年の11月のものです・・・・



西園良太選手

初めてオーストラリア国籍の新しいチームに移籍する事が決まった別府選手・・良かったんじゃないですか(素人ながらに何となくランスのチームでは無駄な働かされ方が多かったような・・・)

それとこの時期になっても海外のレースに参加し必死にアピールしている新城選手・・・これからも頑張って下さい。


そして今年、シマノレーシングに個人的に注目する選手が入りました。西園良太選手です。

息子の大学の先輩だからと言う訳ではありません。本当に強いんですよ・・・



以前神宮前のクリテリウムを淡青のスクールカラーのジャージを着て走る姿を実際に見たことのある、東大出身の選手です。

彼はシマノに入るや否やTTでも3位の好成績を収め、全日本選手権ではほぼ3人が横並びの4位、ちなみに1位は別府選手、2位は新城選手でした。

いつかは西園選手、ツールやジロでの活躍を観たいものです。いや大丈夫彼なら出来ます。

ロードレース界にも彼のような人材は必要です。応援しています。

彼のブログです。中々、色々なものに興味を持っているようで面白いですよ・・・

http://blog.nishizonoryota.jp/blog/2011/10/post_f66b.html



インフォームドコンセントと死生観

医療現場でよく耳にするインフォームドコンセントという言葉は「正しい情報を得たうえでの合意」という意味になる。

昨日、友人が自らの2人の家族を看取った体験を踏まえた死生観をブログに綴っていたので、ともすると暗い話題になりがちのこの問題について少し考えてみたい。

死生観とは民族、宗教、国家、集団そして個人特有のものである。従って死生観は人それぞれである。

一方正しいインフォームドコンセントとは何であろうか。全てを開示することが正しいのか。

妻の友人は末期の膵臓がんで昨日、一時退院した。もちろん積極的な治療は何も行われない。本人もそのことを熟知している。しかし、それでも入院中、周りの患者が抗癌剤投与を受け、髪の毛が抜けている姿を見ても、自分も施してもらえたらと思うようだ。

3年前に亡くなった私の先輩も、体中転移し、腹水もたまり、足も3倍くらいに膨れていても、何とか積極的な治療を望んでいた。縁故を頼り治験まで考えていた。もちろん治療はなされなかった。

二人とも自分の病状を良く知っている。普通なら、少しでも家族と長く居たいとか、思いでの場所に行きたいとか思うのではないかと考えるがそうではなかった。

息子の教科書に「患者の死生観の変遷」という章が載っていた。

患者は告知されそれが治らない病だと知ると、まず混乱すると書かれていた。そして、時間と共に徐々に感情の乱高下を繰り返しながら、その現実を受け入れ、最後に死も受け入れるのだと言う。

その時間的経過にそって医師や看護師が適切なアドヴァイスを加えることが肝要であり、その助言は患者個々の歴史や考え方を理解したものであるべきだと書かれているる

このことがインフォームドコンセントの中核をなす。

つまり正しいとは時間的経過における適切さであり、相対的なものなのだ。

以前お世話になった内科の先生は「特に内科は人を診るのが商売といっていた。病気を見るんじゃないとも」

患者を全人格的に把握するのはもちろん限度もある、だから患者の側もここに寄り添わなければなるまい。

私は医療従事者ではないので正しいとか、間違っているとか分からないが、患者の側であまりに強い死生観を持つと言うのも如何なものであろう。例えば輸血の拒否のように。

強い死生観とは科学的根拠の無い宗教のようなものだ。

もちろんブログの彼女の場合には「もっと可愛いお洒落な洋服をきたい」「美味しいものを食べたい」といったものなのでこの点の心配はしていない。

死生観の外殻を持つことは良いと思う。人間は所詮、自己の経験によってしか判断しないのだから。しかし、時と場合により死生観の内格は変化しなければならないとも思う。

医療のモラルを持ったドクターなら誰しも治らない病気なら手術は薦めないし、治る病気なら最適な治療法を提示するものなのだ。

私は病気になったら最適な治療法にゆだねる。それが緩和ケアなのか、手術なのかはその時々で違うものだ。

息子が成長していたならば実験台とて構わないとも思っている。

チャランポランな私ゆえ、死生観も変わってしまう。その時々で・・・・これが私の死生観である。






多田富雄 「ビルマの鳥の木」

この歳になるまで多田富雄氏の存在や、著作を読むことがありませんでした。

今家にある多田富雄氏の著作はこの3冊です。




息子がこの方面の研究を始めたからこそ興味が湧き、先人の歴史や功績、私的情動とも思える氏の考え方に触れるようになりました。その意味で息子に感謝です。

多田氏のことはご存じとは思いますが免疫学の研究かたわら日本文化、特に能についての知識が深く、自ら能舞台をこなすなど精力的に活動されていましたが、晩年は病床に着きながらも思想を巡らし、往復書簡など多くの書物を残しました。

時折り、私の事務所に訪ねてきていただけるN新聞社の編集委員でもあるH女史と話していたところ、この多田富雄氏の話になりました。H女史はN新聞社の社長より年長ですが、その人脈は経済界にとどまらず、ファション業界、政界と幅広く、多田富雄氏とも直接会って、著作を薦めたとのことでした。

本日もH女史がこの多田氏の最初の頃のエッセイ本を届けてくれました。嬉しい限りです。既に絶版になっているものてす。

装丁、タイトルがまた良いです。「ビルマの鳥の木」です。



H女史とはその後、日本経済の状況、政治家の同質化、日本社会の階層の分化(氏は世代を超えた歴史や文化のフレア化が必要と述べていました)など多岐に及び気が付いたら2時間経過していました。

そういえば開口一番に銀座にできた某百貨店のメンズ館のオープニングに立ち会われたとのことで、どうでしたかと伺ったところ「目玉が無い」の一言でした。

朝一番、我が社のA女史と話していた通りでした。

隣接するル**の社長(エキナカを進めた人物)とも知り合いの様子でしたが、流通業の売り手側の同質化も危惧していました。流通業に限った事ではありません。日本社会全体が異質なものを嫌い、仲間意識とでもいう同質化を求めた結果です。やはりジョブズ氏のような革新者が現れなければ何も変わらないでしょう。

如何ですか?リーシングに悩んでいるみなさん革新者の私を使いませんか?無給で働きますよ・・ただし、既存の枠組みは破壊しますけどね(笑)・・・・・