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2011年10月18日火曜日

インフォームドコンセントと死生観

医療現場でよく耳にするインフォームドコンセントという言葉は「正しい情報を得たうえでの合意」という意味になる。

昨日、友人が自らの2人の家族を看取った体験を踏まえた死生観をブログに綴っていたので、ともすると暗い話題になりがちのこの問題について少し考えてみたい。

死生観とは民族、宗教、国家、集団そして個人特有のものである。従って死生観は人それぞれである。

一方正しいインフォームドコンセントとは何であろうか。全てを開示することが正しいのか。

妻の友人は末期の膵臓がんで昨日、一時退院した。もちろん積極的な治療は何も行われない。本人もそのことを熟知している。しかし、それでも入院中、周りの患者が抗癌剤投与を受け、髪の毛が抜けている姿を見ても、自分も施してもらえたらと思うようだ。

3年前に亡くなった私の先輩も、体中転移し、腹水もたまり、足も3倍くらいに膨れていても、何とか積極的な治療を望んでいた。縁故を頼り治験まで考えていた。もちろん治療はなされなかった。

二人とも自分の病状を良く知っている。普通なら、少しでも家族と長く居たいとか、思いでの場所に行きたいとか思うのではないかと考えるがそうではなかった。

息子の教科書に「患者の死生観の変遷」という章が載っていた。

患者は告知されそれが治らない病だと知ると、まず混乱すると書かれていた。そして、時間と共に徐々に感情の乱高下を繰り返しながら、その現実を受け入れ、最後に死も受け入れるのだと言う。

その時間的経過にそって医師や看護師が適切なアドヴァイスを加えることが肝要であり、その助言は患者個々の歴史や考え方を理解したものであるべきだと書かれているる

このことがインフォームドコンセントの中核をなす。

つまり正しいとは時間的経過における適切さであり、相対的なものなのだ。

以前お世話になった内科の先生は「特に内科は人を診るのが商売といっていた。病気を見るんじゃないとも」

患者を全人格的に把握するのはもちろん限度もある、だから患者の側もここに寄り添わなければなるまい。

私は医療従事者ではないので正しいとか、間違っているとか分からないが、患者の側であまりに強い死生観を持つと言うのも如何なものであろう。例えば輸血の拒否のように。

強い死生観とは科学的根拠の無い宗教のようなものだ。

もちろんブログの彼女の場合には「もっと可愛いお洒落な洋服をきたい」「美味しいものを食べたい」といったものなのでこの点の心配はしていない。

死生観の外殻を持つことは良いと思う。人間は所詮、自己の経験によってしか判断しないのだから。しかし、時と場合により死生観の内格は変化しなければならないとも思う。

医療のモラルを持ったドクターなら誰しも治らない病気なら手術は薦めないし、治る病気なら最適な治療法を提示するものなのだ。

私は病気になったら最適な治療法にゆだねる。それが緩和ケアなのか、手術なのかはその時々で違うものだ。

息子が成長していたならば実験台とて構わないとも思っている。

チャランポランな私ゆえ、死生観も変わってしまう。その時々で・・・・これが私の死生観である。






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