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2012年2月9日木曜日

ロゴ 素案

インターネットの新しいライフスタイルを提案するお店のトレードマークの素案です。

あくまでイメージを素人の私が作ったのですからプロの手が加わりもっとカッコよくなっていくと思います。

私が数年前に伊勢志摩の海女さんが素潜りをするときに洋服に縫い付けてあった魔除けのドーマンセーマンを見て日本古来のこんなマークが海の生活にふさわしいと感じていたものです。

もうひとつの赤い旗は国際船舶信号です。意味???危険物積載中!!!

人間ほど危険極まりないものはありませんから(笑)

もちろんこれから商標は調べて行きますので大きく変わってくるかもしれません・・・・・

賢慮 フロネティツク

若い時には分からないがこの歳になって分かることもある。

若い時にはすぐこぶしを振り上げて(実際にじゃないですよ・・・たとえですよ、たとえ・・笑)損をしたことがある。何故なら一度上げたこぶしは消し去ることは出来ないから。

賢慮という言葉がある。そうフロネティックだ。深く洞察して、物事の推移を見ながら、身の置き方を決めるのである。その時肝要なのが、力まずに、勁草のごとくしなやかに対座することである。

これをするには自分と同じような共感できる人間を増やさなければならない。そう賢慮は回りの人あってこその視座の転換である。

我が家のフローリングは張り替えたばかりなのに、ささくれて、棘が飛びだして危なくてタマッタものではない。材質はカラ松の厚さ19ミリの浮づくりのフローリング。これとてメーカーが浮づくりに固執するあまり、板目を逆にするという禁忌を犯したからであろう。サンプルでは全く分からない。表記もないのだ。

ましてやパンフレットには環境に優しく子供や老人のいる家庭で素足に優しいとある。監理者や施工者に責任は無い。

妻などこれじゃメーカーに詐欺じゃないかとまくしたてるが、いやいやまだまだ賢慮が足らない。

代替品と交換するとメーカーが渋々重い腰を上げたが、これとて責任は無いのに相手と折衝してくれた監理者の賢慮の賜である。あとは工務店がどの程度の賢慮をもって接してくれるか模様ながめである。

しかし、しかしである、これによって線引きがなされたのだ。賢慮のある者と無い者に・・・

自己保身と言い訳では成長などない。この段階でこのメーカーの質は問われるが、実は営業失格である。

諸問題もあるので実名は避けるが、無垢のフローリングではそこそこの会社である。

危機こそ最大のチャンスである。残念。これが私のモットー。

我が社のスタッフは・・・もちろん賢慮を持ち合わせている。

さくらの生まれ故郷

さくらは旭川で生まれました。旭川は最高気温マイナス7度、最低気温マイナス15度だそうです(おーさぶい!!)

ファンタジー・ドッグ・ステージさんで生まれた女の子です。

同体で生まれた男の子も東京に来ていて、一度ご対面したことがあります。杉並区成田西に住んでいます。

そんなファンタジーさんもレオンの繁殖をしばらくお休みしていたようですが、近頃また小犬がアップされました。

あんまり可愛いのでアップさせていただきました。(ファンタジーさんのHPより)







虚心坦壊  鶏鳴狗盗

今日まで虚心坦壊を虚心担壊だとばかり思っていました。ひとつ思いこみを治せました。歳をとるとこれが大事なのです。



それはそうとして、この地図を見て下さい。私は同じ日本人として忸怩たる思いです。

詳しく見たい方はこちらの池田先生のHPにリンクしてみてください。

http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51772011.html


大震災の後に被災地に対して寄付をしたり、ボランティアをしたり日本人も、海外の人も困った時には手を差し伸べる優しさがあるのだと心温かくなっていたのに、一年もしないこの時期に被災地のそれも放射線の許容範囲の残土やゴミを引き受けるところがこんなに少ないのです。

一番困っているのは被災地の人達です。何故、痛みを分かち合おうとはしないのでしょう。

まるで三歩いったら忘れる鶏宜しく、鶏頭狐盗のごとき浅ましさです。

これを作ったのは日本に放射線を拡散させない会ということですが、この人たちは被災地はそのままでいいと思っているのでしょうか?

日本のマスコミはこういうことを伝えたがらない、だから劣化していると言われるのではないか。

原発反対派や沖縄の基地移設問題で時折り、ねじり鉢巻きで頑張っている人を見かけるが私はウンザリである。何故なら、自己中心的、自己愛至上主義が彼らの延長には存在する。自分たちと違う意見は力づくでもみ消す。

石原氏(慎太郎)の発言には全く受け入れられないものから、同意できるものもあり一概に言えないが、氏が東京都が真っ先に受け入れを表明した時に「力のあるところがやらなければ誰がやるのか」と言った。まさにその通り、我々は被災地に対してNoblesse Obligeの精神で対峙しようではありませんか。

こんな事言っているから息子から、LightweightじゃなくてRightweightだねと言われてしまうのかも??

まあいいか

文章になると面白い人


以下、フランス文学者でレビィナスの第一人者でもあり、先般まで神戸女学院で教鞭をとっておられた内田樹先生の著書「期間限定の思想」からの抜粋であります。

 古人は「官途につく」ということを「ユージュアリィ・サスペクッ」として、「世間の疑いのまなざし」に身をさらしつづけるような生き方を選ぶということを道破していた。

 「冠がずりおちても」「履が脱げても」我慢しなければいけない。たしかに、帽子がずり落ち、靴が脱げれば、さぞや本人の気分は悪かろう。悪かろうがそれを我慢する他ない。そこで「ふつうの人」のような反応をしたら、その瞬間回りから、「どろぼう」と追い回されるのが公人というものなのである。

 その意味では今回名前があがっている人々はことの真相が法廷で決着する以前にもちろん全員「お疲れさま」である。たとえ事務的に潔白であるとされたとしても、一度「ドロボウ!」と「言われたら」もう「おしまい」というのがここでのルールなのだから。
 
 「ドロボウ」であるかどうかではなく、「ドロボウと想定されるかどうか」で判定する、というのが公人の基準である。だから「訴状を見てないからコメントできない」とか、「法の裁きをもって進退を決する」とかいう者は、このルールがぜんぜん分かってないということである。

 それはボクシングの試合が終わったあとになっても、「私と彼とがどちらが本当の勝者であるか、どちらが先に死ぬか見きわめない限り結論がでない」と称して、墓場に行くまで敗北を認めないボクサーのようなものである。

内田 樹著「期間限定の思想 148頁抜粋」

私は公人の定義をし直すつもりで引用した訳ではありません。世の中には文章にすると大変面白い人と言うのが存在するのです。ルリボシカミキリで有名な福岡伸一氏も、とある雑誌の中で京都の三月書房のことを取り上げていましたが、この人も対談を聞くより、文章になったもの「動的均衡」「できそこないのおとこたち」「生物と無生物のあいだ」などの著作を文章で読む方が俄然楽しいのです。養老先生なんかもそうかもしれません。文章の旨い人に、本当憧れます。文章が旨いのはやはり天賦の才なのですから・・・・

そんな話をしていると横から息子が「本を書いているということはその時点でアカデミックを手放しているね」ときついお言葉です。確かに一理あります。でも、ねぇ、読んで楽しくなきゃ、つまらん読書でしょう。そんな偉そうな事を言った息子の枕元に平松洋子著「焼餃子と名画座」がポツンと置かれていたのでした・・・(笑)