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2011年8月30日火曜日

ボストン 姫沙羅と西洋ヤナギ

レンはアメリカにきてすでに18年が経過しようとしていた。

若い頃、レンの研究の世話をしていてくれた中ボスは、突然、アメリカの大学に引き抜かれ移って行った。中ボスの年齢を考えると最後のチャンスだっろうから仕方が無かった。しかし当時のレンは自分を引っ張って来てくれたその人がいなくなる漠然とした恐怖と研究者としてこのまま道を閉ざされてしまうのではないかという不安に取りつかれ、その災禍を払うがごとく、新しいボスに気にいられようとやっきになっていた。ジュネーブの学会に出席したのもその頃だった。

その後、レンは細胞の老化に関するプロモーター配列の解析に成功し、論文も認められ大学で順調に進んで行った。研究室も潤沢な予算をもらうことが出来るようになり、自分の進めたかった研究に拍車がかかった。

そんな順調な大学教授ではあったが、金銭的には普通のサラリーマンとは変わらなかった。それでも自由に研究が出来るそのことでレンは満足していた。

そんな折、アメリカに引き抜かれて行ったかつての中ボスがレンに手紙をよこした。

手紙の内容は最近のレンの研究を高く評価するもので、最後に、もしレンにその気があるならアメリカに来ないかというものであった。アメリカの大学でその専門の研究者を探しており、終身教授の待遇で迎えたいというものであった。

アメリカの教授は終身教授とそうでない教授がいる。そうでない教授はいつレイオフされるかわからない。だからこの申し出は破格のものであった。さらにその研究にはアメリカの政府と某製薬会社も共同で関わっており、大学のラボ以外にも世界で有数の施設を持つこの製薬会社のラボも使え、毎年、国から莫大な助成金が下りるといおまけもついていた。もちろん、渡航に掛る費用の他に住宅、車も全て出してくれる。

レンの母が腰椎管狭窄で手術後も回復せず寝たきりの状態であったことが気がかりたったが、父親はレンの渡米を後押しした。同じ医者として、一人の患者を治すのも医者、数億人という人の病を治すのも医者と口癖のように言っていた父だったらなおさらだった。

レンの母はその年の暮に亡くなった。脳梗塞だった。突然だった。父も母を追うように次の年の夏に亡くなった。死因は熱中症、猛暑の中での農作業だった。

レンは母と父の葬儀の度に日本に戻ってきたが、父が菜園として借りていたその畑を地主に返すと日本に戻ることはなかった。

製薬会社のラボも大学の研究室もボストンにあった。レンはボストンから南に4マイル程離れたクインシーという街の海を見下ろす小高い丘に住んでいる。

レンの住む家は真っ白で窓には同色で塗られた鎧戸が付いている。屋根にはささやかながら暖炉の煙突がその口をのぞかせていた。

このあたりの住宅は日本のように無粋なブロック塀や金網のフェンスはない。丈の短い生垣があるだけで、通りが見渡せる。その生垣も春には白い花を楽しませてくれる。

芝生はまるてビロードの絨毯のように端正に刈り込まれつやつやしている。

その緑の絨毯のところどころにほっそりした姫沙羅と西洋ヤナギが交互に植えられている。レイは西洋ヤナギがウィローということは知っていたが、姫沙羅をCrepe Nyrtleということをこの家に引っ越して初めて知った。その木立の中を2匹のリスが楽しそうに登ったり降りたりしている。

レンはラボからの帰り道、かなり遠回りになるのだが、クインシーショアドライブという海沿いのルートを通ることが好きだった。

レンはBMWのオープンカーに乗っている。色は白だ。内装は薄いベージュで落ち着いた色だ。
帆布の色をどうしようか悩んだが、オーシャンブルーという濃い青にした。

片側二車線のその道路はよく整備されている。大西洋の風を左ほほに受けながら、のんびりと走ることがつかの間の自由な時間だった。

レンはカーナビのハードディスに録音しあった、ラフマニノフ交響曲第2番を第二楽章まで聞くと、スイッチをラジオに切り替えた。

初夏の夕暮れのしんみりとした風が心地よかった。

ラジオからビートルズのザ・ロング・アンド・ワインディングロードが流れてきた。レンはビートルズの世代ではなかったが、この曲でビートルズの解散が決定的なものになったと父親から聞かされていた。

当時レンはこの曲が解散のきっかけではなく、もっと前から既にその崩壊は始まっていのだと子供心に思っていた。

車が住宅街に差し掛かると、老夫婦が歩道で立ち止まっている。レンはゆっくりスピードを落とした。

止まりながら、左手でフロントガラスの上に付いたクローズスッィッチを押して屋根を閉めた。その老夫婦が道路を渡り終えることを確認して、ゆっくりアクセルを戻し、滑るように車をカレージに止めた。

玄関を開けると白いタートルネックのセーターを着た女の子と男の子が駆け寄ってきた。レンが代わる代わる抱き上げて、ただいまのキスをする。

女の子は髪を後ろで束ねてポニーテールにしている。タータンチェックのスカートを履いていて男の子より背が10センチ近く高い。男の子はカーキのチノパンツをサスペンダーで留めている。セーターは誰かの手作りのようだ。

着替えをしようと階段を上ろうと一段目に足を掛けたときに、キッチンから妻の声がした。

「今日は日本食よ。早く着替えてきて。レンの大好物のおでん。ちゃんと大根も入っているのよ。レンの好きな餅入りの巾着も鰯のつみれも全部自家製。朝から作ったんだから」

妻は嬉しそうに声を弾ませていた。今日は15回目の結婚記念日。

着替えを済ませ手を洗ってうがいを済ませてから、レンは見られないようにそっと持ち帰ったケーキの蓋をあけ、妻の好物のシャンパンを空けた。
シャンパンは今日は奮発してルイ・ロデレールのクリスタルを買った。15周年は水晶婚ともいうから。そしてケーキにはR&Rと二人のイニシャルがチョコレートで描かれていた。



レイがレンに渡そうと思っていた本はD・H・サリンジャーだった。ただ他の本と違うのは、本のタイトル「The Catcher in the Rye」のスペルのeとyを入れ替える矢印がいたずらっぽくえんぴつで記してあった。

今でも黄ばんだ背表紙のその本が暖炉の上の書架の一番隅に置かれていた。

(終)










味憶 ぎゅうてん コロリンシュウマイ 子供洋食

名前さえ忘れていたのにここ何本か郷里の特集をする番組が続いた。

アドマチック何とかという番組で名物のベスト20なんてそんな数あるのだろうかと心配していたら思い出せなかった懐かしい食べ物が次々と出てきた。

ちなみにゲストコメテーターで登場していたプロゴルファーのN氏の家は藪塚でK氏ではない。高校のころに一度だけ球ひろいのアルバイトに行ったことがあったが、私より年下の妹の躾の悪い事、口の悪い事に驚かされた。もちろんバイト料はもらえず、一日で辞めた。

食の話に戻します。

子供洋食と言うのは今でも時々作る、ジャガイモの料理で、青海苔と生姜のアクセントで中々乙なものです。


コロリンシュウマイというものは肉らしい肉はなく、まるでこんにゃくのような食感で、私はあまり好きではなかったが、リヤカーでよく売りに来ていた。


ぎゅうてんというのはよく母親がよく作ってくれた。ぎゅうてんというのに牛肉は入らず、くず野菜で作ったものだ。名前は完全に忘れていた。東京にきて初めてお好み焼きを食べた時にその美味しさに驚いた。似て非なるもの・・・



この3つの料理に共通するものは?それはソースです。しかもウスターソース。

東京に来るまで、濃厚なブルドッグソースなんて食べた事が無かった。

私のウスターソース好きはそうやって親から私に、私から息子たちに繋がって・・・・ツリー・オブ・ライフのように・・・・なんてたいそうなものではないのだが、舌の記憶として残っていくのだろうか??

そうそう、ソースかつ丼はもちろん、ウスターソースです。は志多美屋派ですが、N氏のようにNスペシャルなんて頼みません。普通の皆が食べているヒレかつで十分です!!

あのどんぶりにかつ四個が基本ですから!どんぶりの宇宙を侮っちゃいれません!


「銀座 奥田」  「しち十二侯」

銀座 奥田」はミシュランで3年連続三ツ星を獲得している「銀座 小十」の奥田透氏が今年の8月に自らの名を冠して新規オープンしたお店です。

三ツ星にはさして興味はないものの、この人の料理は食べてみたいと思います。

そんな話題の新店がダイナースで特別の枠を作ってくれたのです。今日から予約開始ということで早速電話をしましたがすでに20名の枠は一杯で電話は今も鳴りっぱなしとのこと諦めました。

いつかチャレンジしてみます。奥田さんが今は徳島から鳴門に移った名亭「青柳」で修行を積んだことも興味があります。

もう一店行きたいお店があります。

こちらは六本木にオープンした斎藤章雄氏のお店で「しち十二候」です。

以前、Sパパが社長をされていた頃、同ホテルの風花の料理長としてその美味しさに驚きましたが、ホテルを辞められた後、出店したとのことです。

もっとも彼はだいこんやの料理長をしていたというので(私は代官山も、自由が丘も食したことがある)その当時食べていた事があるのかもしれません。

代官山はロックストーンと同じビルだったと記憶しています。自由が丘はなくなりましたが、代官山はどうなんでしょうね・・・・

そんな話題の2店です。今のところ個人的には京都「丸山」の日本料理が勢いがあり、美味しいと思っていますがこればかりは食べて見ないと何とも言えません。

食い辛抱の性であります・・・・

明暗 転機

先般、新首相の野田氏のことについて触れましたが、皆さんもすでに野田氏の経歴生い立ちについて調べられていると思いますが、彼が国会議員になったのは日本新党を細川氏と立ち上げ、当時のジバン、カンバン、カバンを持たないのスローガンで当選した人でもあります。

街頭演説を彼の基本とするのはこのころからです。

実は当時、私より一つ下の後輩もこの細川氏に可愛がられ日本新党から衆議院議員に当選したのです。彼も同じく軽トラックに乗り手弁当で農村をくまなく回り、その姿が認められ当選したのです。

つまりはそこまでは野田氏と同じ位置に立っていたのです。

しかし、その後後輩は何を間違えたか、この恩ある大人を裏切ってしまったのです。私は当時の公設秘書の方と懇意にしていたのでよくそのことが分かります。

ミスや間違いなら誰にでもあることなので仕方ありません。しかし、ルサンチマンを抱かせるのはいただけません。

そう考えると人間の人生とは常に選択と変化の連続なのだとしみじみ思うのです。

シャルルドゴール 第2ターミナル

階段の左手にあるレストランの看板を眺めていたら、下からレンが上がってきた。ここは階段だけなのでそのスーツケースを重そうに両手で一段ずつ引き上げながら、途中で一息しながらレイの方を見上げた。レイは手にベーアッシャベー(BHV)と書かれた袋か持っている。

「なんでそんなに荷物あるの?」

「資料やら、PCやら色々中に入っているんだよ。それにホテルのランドリーは高いから、着替えとかもあるしね」

「いつからそんなに綺麗好きになったの」

レンは少しむっとしたが、すぐ笑顔で「大人になるといろいろ大変なの」

レイにはその言葉が引っかかった。

「私だっていろいろ大変なの。学費や生活費も稼がなきゃならないし、付き合いもあるし」



二人は黙ってしまった。そのまま何もしゃべらずに、アトリエ洗濯船という名前の由来が書かれているそのホテルに向かった。

建物は瀟洒な感じで、ブルーのストライプのシェードが窓に掛けられていた。

しかし、建物は小さくホテルというよりアパートを少し綺麗にしたようなものだった。

フロントは狭く3人もいれば満員になってしまうようなところだった。

チェックインの際、お一人ですねと上目づかいに睥睨された。レイは部屋には行かなかった。

レイはホテル前のベンチに腰をおろし、レンが戻ってくるのを所在なく待った。外は冷たい風がざわざわと落ち葉を拾っていく。

レンの部屋は狭くスーツケースの置き場もない。仕方なくベッドでトランクを開けシャツを着替え、上着を羽織って部屋を出た。

表に出ると、空は薄暗くなりはじめていた。

パリの緯度は高く、よるでも薄明るい白夜のような空になる。

薄暗いモンマルトルの坂道をくねくねと蛇行して歩く。途中にラパン・アジルというレストランの横を通りかかると中から、フランス語の歌が聞こえてきた。シャンソニエが歌うその歌は物悲しく切ない。

歌声が遠くなるころテルトル広場についた。

いつも賑やかな広場も、画家たちは荷物をまとめすでに広場は閑散としていた。

レンは「ビール飲みたい。のど乾いた」と子供のようにレイにいう。

レイは「この時間だとカフェはもう閉まっているし、下まで行かないと飲めない、下まで待てないの」と少し困った顔で窘めるように言った。

「待てない、待てない、早く飲みたい!!!」

レイはうんざりした表情で一人で歩き出していた。

アペス駅近くまで坂を降りて、小さなカフェレストランに入った。レイは白ワインとキッシュ、レンはビールとムール貝をオーダーした。レイはムール貝にビールはないだろうと思ったが、レンはどうしてもビールが飲みたいというので仕方なかった。それにレイはこの時期にはどのレストランも得意料理といって皿いっぱいのムール貝を出すので、その料理には辟易していた。
レイのキッシュは冷めていて美味しくなかった。ワインも酸味が強く、チクチクとし美味しいとは感じられなかったが、レンは美味しい美味しいとニコニコしながらまたたくまに皿を平らげ、ビールのお代わりもした。

レイは一番好きな場所をレンに見せようと思ってこの坂を登ったのだが、途中から疲れたを連発するレンとビール騒ぎで結局何も言わなかった。それだけはない、手紙にあれだけ書いていたのに全く気づかないレンの無神経さに少し頭に来ていたのだ。

二人はお互いの近況を話したが、お互いそれぞれの言い分を言っているだけで会話ではなかった。そう、それは説明に近しいものだった。

あるときにレンはレイがペンダントをしていないことに気がついた。

レイはペンダントを数日前にクリニャンクールの蚤の市に行った時に無くしてしまったのた。あれだけ大切にしていたものを無くしたのでレイはショックだった。しかし、レンには知られたくなかった。

蚤の市のまわりにはジプシーが集まる。彼らは子供も含めて集団でやって来て。スリを行う。取られた時には大声を上げるのが鉄則なのだか、レイはその時取られたことに気づかなかった。

確かに、プツッという僅かな音は聞こえたような気もするが、首には全くの衝撃もなかった。

レイは取られたことよりも、学校の講師の一人の男性と食事をするためにこのペンダントをして来ていたことが後ろめたかった。もちろんこの男性とは時々食事をする程度の間柄であったが、後ろめたい気持ちと何であんな場所にしていったのかという後悔が増幅した。

「なくしたの、数日前、たぶんすられたと思う。友人の男性と食事に行くときにスラれたみたい」

「一人でその男性と食事?」

「一人だけど、何もないよ」

「何かあるとかが問題じゃない。そもそも、もう帰ってくるといっていたのに1年延ばし、さらに1年、学校の講師をしているといってもそれじゃ食べられないからアルバイトまでしている。結局、日本で言うフリーターと同じじゃない。それでこれ、ひどくない」

さらにレンの言葉続いた。

レイは異国で懸命に生きている自分をこんな風にいうレンに悲しくなった。レイは涙を拭うこともなくそのまま席を立ち、走ってレンの前からいなくなった。

レンはフォークを強く持ちそのまままだ食べ続けた。立ち上がったレイには目もくれず、反対の手で残ったパンにムール貝のソースをつけ食べ続けていた。

翌日の夕刻、シャルルドゴール空港は夕闇に包まれていた。

レイは一晩中、自分が何をしているのか、何故ここにいるのか、そしてレンのその厳しい言葉を反芻した。人はなぜ好きな人をそこまで人を傷つけることが出来るのかレイには理解できなかった。離れていることはお互いのストレスではあるが、心の中で通じていると言う思いが、レイを勇気づけたし、心強くもあったのに、それが昨日の一言で脆くも消え去った。

シャルルドゴールにはターミナル1とターミナル2がある。レイはターミナル1が好きだった。レイは新しくてピカピカしたものより、少し人の使った温もりのあるようなものが好きだった。ターミナル1はロサンゼルス航空の建物のようにその姿は前時代的なものだ。エスカレーターも決してスムースではない、ガクガクッと時折り音がしたり振動もある。でも機械が動いているという実感がある。

今日のエアラインはエールフランスなのでターミナル2だ。天井はガラス張りで鳥の形をしている。
モダンで明るいその建物はターミナル1とは対照的だ。

レンはターミナル2の方が好きだと言った。あれほどハイブリッドカーや電気自動車は嫌いだと言っていたレンなのに今はハイブリッドカーに乗っている。

二人はターミナルの長椅子に腰をかけた。一人分の席をあえて空けて座り、ほとんど無言だった。

出発の最終案内が聞こえた。レンは機内用のバッグを持ち直すと、レイに儀礼的に体を気遣う言葉を掛けながら、足早にゲートに消えて行った。

レイも飛行機が離陸するのを待たずに空港を後にしてパリにもどって行った。手には渡しそびれたBHVの袋の中に一冊の本が残ったままだった。

オムライス 自作



オムライスのことを考えていたら、オムライスの夢をみました。これはいけないとばかり自作のオムライスです。

添え物は千切りのキャベツのみ。

中々、旨くできました。鶏肉やマッシュームもきちんと食感を残しています。缶詰のグリーンピースが多すぎたのと玉子がやや厚くなったので評価は85点というところです。ポイントは熱々のご飯を使うことと、ケチャップの水分を飛ばしておくこと、バターを入れるタイミングです。

近々、近くにこの手のオムライスを食べさせるお店を発見したので感想をご報告します。

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我が社のA女史が作るお酒のおつまみ、作ってみました。

超簡単でも美味しいですよ。ビールのおつまみにはばっちりです。

キムチにカイワレをまぜ胡麻油をたらして、玉子をのせるたげです。玉子がキムチの辛さを調和して美味しいのです。

段々 久々

暑いのと鎌倉ベースにいたので段々は久しぶりです。

アンジュは嬉しそうにボールをもってお尻をくっ付けてきます。

ビヒリンりカエデちゃんは飼い主さんがフランスにいっているのでメイちゃん家がお預かりのようです。

みんな元気そうです。


政治談議 月曜討論

心臓血管外科の試験勉強のため珍しく家にこもって勉強している息子と政治談議です。

我が家の婦女子は参加しません。

野田佳彦氏が次の日本の首相と決まりました。あるマスコミに言わせるとどちらにしても民主党は次の選挙で敗れるのだから、誰でも良いし、それまでは何もしないでほしいとの意見がありました。

そうでしょうか、2年間この国はもちますか?2年間も何もしないでこの国は大丈夫なのでしょうか?

今の政局の問題は、民主党も自民党も右と左に膨張していることです。その中で民主党の右派、自民党の左派は実は集合で言うところの交わりにあたるのです。

例えば野田氏の靖国論は自民党の左派の一部の人より右寄りかもしれません。さらに外交姿勢にしても隣国の大国に対しても強硬論なのです。

総理に必要な政策を私が論ずると息子は「どこの知識の受け売りなの」と失礼なことをいいやがります。まあ、いくつかの論説の集合体であることは事実ですが、根っこはきちんとしていなければなりません。政治に無頓着な経営者はまず失敗します。

話は変わりますが、日本国債の格付けについて先般さらに下がったと聞きます。その筋の専門家に言わせると今の日本国債の格付けはおかしいとか、逆に独立性を保っていて好ましいという意見もあります。私は専門家ではないので分かりませんが、日本国債はバブルの後にもっとずっと低く評価されていたのです。私にはその後、財政出動のみで経済成長もないのにここまで格付けが上がったことが不思議でなりません。だって、何一つ成長していないのではないでしょうか。

話は次期総理について戻します。野田氏に期待するところは、親類縁者に政治家がいないと言う点と松下政経塾が堕落する前の一期生という点、さらに街頭演説を毎日のように繰り返したという体力です。自民党の二世議員は首相になって顔面蒼白、早々と辞任したではありませんか。

首相、お願いします。復興はチャンスです。世界に向かってこの国のアピールするまたとない機会なのです。世界が未曽有の災害を忘れ去る前に!!!