レンはアメリカにきてすでに18年が経過しようとしていた。
若い頃、レンの研究の世話をしていてくれた中ボスは、突然、アメリカの大学に引き抜かれ移って行った。中ボスの年齢を考えると最後のチャンスだっろうから仕方が無かった。しかし当時のレンは自分を引っ張って来てくれたその人がいなくなる漠然とした恐怖と研究者としてこのまま道を閉ざされてしまうのではないかという不安に取りつかれ、その災禍を払うがごとく、新しいボスに気にいられようとやっきになっていた。ジュネーブの学会に出席したのもその頃だった。
その後、レンは細胞の老化に関するプロモーター配列の解析に成功し、論文も認められ大学で順調に進んで行った。研究室も潤沢な予算をもらうことが出来るようになり、自分の進めたかった研究に拍車がかかった。
そんな順調な大学教授ではあったが、金銭的には普通のサラリーマンとは変わらなかった。それでも自由に研究が出来るそのことでレンは満足していた。
そんな折、アメリカに引き抜かれて行ったかつての中ボスがレンに手紙をよこした。
手紙の内容は最近のレンの研究を高く評価するもので、最後に、もしレンにその気があるならアメリカに来ないかというものであった。アメリカの大学でその専門の研究者を探しており、終身教授の待遇で迎えたいというものであった。
アメリカの教授は終身教授とそうでない教授がいる。そうでない教授はいつレイオフされるかわからない。だからこの申し出は破格のものであった。さらにその研究にはアメリカの政府と某製薬会社も共同で関わっており、大学のラボ以外にも世界で有数の施設を持つこの製薬会社のラボも使え、毎年、国から莫大な助成金が下りるといおまけもついていた。もちろん、渡航に掛る費用の他に住宅、車も全て出してくれる。
レンの母が腰椎管狭窄で手術後も回復せず寝たきりの状態であったことが気がかりたったが、父親はレンの渡米を後押しした。同じ医者として、一人の患者を治すのも医者、数億人という人の病を治すのも医者と口癖のように言っていた父だったらなおさらだった。
レンの母はその年の暮に亡くなった。脳梗塞だった。突然だった。父も母を追うように次の年の夏に亡くなった。死因は熱中症、猛暑の中での農作業だった。
レンは母と父の葬儀の度に日本に戻ってきたが、父が菜園として借りていたその畑を地主に返すと日本に戻ることはなかった。
製薬会社のラボも大学の研究室もボストンにあった。レンはボストンから南に4マイル程離れたクインシーという街の海を見下ろす小高い丘に住んでいる。
レンの住む家は真っ白で窓には同色で塗られた鎧戸が付いている。屋根にはささやかながら暖炉の煙突がその口をのぞかせていた。
このあたりの住宅は日本のように無粋なブロック塀や金網のフェンスはない。丈の短い生垣があるだけで、通りが見渡せる。その生垣も春には白い花を楽しませてくれる。
芝生はまるてビロードの絨毯のように端正に刈り込まれつやつやしている。
その緑の絨毯のところどころにほっそりした姫沙羅と西洋ヤナギが交互に植えられている。レイは西洋ヤナギがウィローということは知っていたが、姫沙羅をCrepe Nyrtleということをこの家に引っ越して初めて知った。その木立の中を2匹のリスが楽しそうに登ったり降りたりしている。
レンはラボからの帰り道、かなり遠回りになるのだが、クインシーショアドライブという海沿いのルートを通ることが好きだった。
レンはBMWのオープンカーに乗っている。色は白だ。内装は薄いベージュで落ち着いた色だ。
帆布の色をどうしようか悩んだが、オーシャンブルーという濃い青にした。
片側二車線のその道路はよく整備されている。大西洋の風を左ほほに受けながら、のんびりと走ることがつかの間の自由な時間だった。
レンはカーナビのハードディスに録音しあった、ラフマニノフ交響曲第2番を第二楽章まで聞くと、スイッチをラジオに切り替えた。
初夏の夕暮れのしんみりとした風が心地よかった。
ラジオからビートルズのザ・ロング・アンド・ワインディングロードが流れてきた。レンはビートルズの世代ではなかったが、この曲でビートルズの解散が決定的なものになったと父親から聞かされていた。
当時レンはこの曲が解散のきっかけではなく、もっと前から既にその崩壊は始まっていのだと子供心に思っていた。
車が住宅街に差し掛かると、老夫婦が歩道で立ち止まっている。レンはゆっくりスピードを落とした。
止まりながら、左手でフロントガラスの上に付いたクローズスッィッチを押して屋根を閉めた。その老夫婦が道路を渡り終えることを確認して、ゆっくりアクセルを戻し、滑るように車をカレージに止めた。
玄関を開けると白いタートルネックのセーターを着た女の子と男の子が駆け寄ってきた。レンが代わる代わる抱き上げて、ただいまのキスをする。
女の子は髪を後ろで束ねてポニーテールにしている。タータンチェックのスカートを履いていて男の子より背が10センチ近く高い。男の子はカーキのチノパンツをサスペンダーで留めている。セーターは誰かの手作りのようだ。
着替えをしようと階段を上ろうと一段目に足を掛けたときに、キッチンから妻の声がした。
「今日は日本食よ。早く着替えてきて。レンの大好物のおでん。ちゃんと大根も入っているのよ。レンの好きな餅入りの巾着も鰯のつみれも全部自家製。朝から作ったんだから」
妻は嬉しそうに声を弾ませていた。今日は15回目の結婚記念日。
着替えを済ませ手を洗ってうがいを済ませてから、レンは見られないようにそっと持ち帰ったケーキの蓋をあけ、妻の好物のシャンパンを空けた。
シャンパンは今日は奮発してルイ・ロデレールのクリスタルを買った。15周年は水晶婚ともいうから。そしてケーキにはR&Rと二人のイニシャルがチョコレートで描かれていた。
レイがレンに渡そうと思っていた本はD・H・サリンジャーだった。ただ他の本と違うのは、本のタイトル「The Catcher in the Rye」のスペルのeとyを入れ替える矢印がいたずらっぽくえんぴつで記してあった。
今でも黄ばんだ背表紙のその本が暖炉の上の書架の一番隅に置かれていた。
(終)
0 件のコメント:
コメントを投稿