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2011年8月30日火曜日

シャルルドゴール 第2ターミナル

階段の左手にあるレストランの看板を眺めていたら、下からレンが上がってきた。ここは階段だけなのでそのスーツケースを重そうに両手で一段ずつ引き上げながら、途中で一息しながらレイの方を見上げた。レイは手にベーアッシャベー(BHV)と書かれた袋か持っている。

「なんでそんなに荷物あるの?」

「資料やら、PCやら色々中に入っているんだよ。それにホテルのランドリーは高いから、着替えとかもあるしね」

「いつからそんなに綺麗好きになったの」

レンは少しむっとしたが、すぐ笑顔で「大人になるといろいろ大変なの」

レイにはその言葉が引っかかった。

「私だっていろいろ大変なの。学費や生活費も稼がなきゃならないし、付き合いもあるし」



二人は黙ってしまった。そのまま何もしゃべらずに、アトリエ洗濯船という名前の由来が書かれているそのホテルに向かった。

建物は瀟洒な感じで、ブルーのストライプのシェードが窓に掛けられていた。

しかし、建物は小さくホテルというよりアパートを少し綺麗にしたようなものだった。

フロントは狭く3人もいれば満員になってしまうようなところだった。

チェックインの際、お一人ですねと上目づかいに睥睨された。レイは部屋には行かなかった。

レイはホテル前のベンチに腰をおろし、レンが戻ってくるのを所在なく待った。外は冷たい風がざわざわと落ち葉を拾っていく。

レンの部屋は狭くスーツケースの置き場もない。仕方なくベッドでトランクを開けシャツを着替え、上着を羽織って部屋を出た。

表に出ると、空は薄暗くなりはじめていた。

パリの緯度は高く、よるでも薄明るい白夜のような空になる。

薄暗いモンマルトルの坂道をくねくねと蛇行して歩く。途中にラパン・アジルというレストランの横を通りかかると中から、フランス語の歌が聞こえてきた。シャンソニエが歌うその歌は物悲しく切ない。

歌声が遠くなるころテルトル広場についた。

いつも賑やかな広場も、画家たちは荷物をまとめすでに広場は閑散としていた。

レンは「ビール飲みたい。のど乾いた」と子供のようにレイにいう。

レイは「この時間だとカフェはもう閉まっているし、下まで行かないと飲めない、下まで待てないの」と少し困った顔で窘めるように言った。

「待てない、待てない、早く飲みたい!!!」

レイはうんざりした表情で一人で歩き出していた。

アペス駅近くまで坂を降りて、小さなカフェレストランに入った。レイは白ワインとキッシュ、レンはビールとムール貝をオーダーした。レイはムール貝にビールはないだろうと思ったが、レンはどうしてもビールが飲みたいというので仕方なかった。それにレイはこの時期にはどのレストランも得意料理といって皿いっぱいのムール貝を出すので、その料理には辟易していた。
レイのキッシュは冷めていて美味しくなかった。ワインも酸味が強く、チクチクとし美味しいとは感じられなかったが、レンは美味しい美味しいとニコニコしながらまたたくまに皿を平らげ、ビールのお代わりもした。

レイは一番好きな場所をレンに見せようと思ってこの坂を登ったのだが、途中から疲れたを連発するレンとビール騒ぎで結局何も言わなかった。それだけはない、手紙にあれだけ書いていたのに全く気づかないレンの無神経さに少し頭に来ていたのだ。

二人はお互いの近況を話したが、お互いそれぞれの言い分を言っているだけで会話ではなかった。そう、それは説明に近しいものだった。

あるときにレンはレイがペンダントをしていないことに気がついた。

レイはペンダントを数日前にクリニャンクールの蚤の市に行った時に無くしてしまったのた。あれだけ大切にしていたものを無くしたのでレイはショックだった。しかし、レンには知られたくなかった。

蚤の市のまわりにはジプシーが集まる。彼らは子供も含めて集団でやって来て。スリを行う。取られた時には大声を上げるのが鉄則なのだか、レイはその時取られたことに気づかなかった。

確かに、プツッという僅かな音は聞こえたような気もするが、首には全くの衝撃もなかった。

レイは取られたことよりも、学校の講師の一人の男性と食事をするためにこのペンダントをして来ていたことが後ろめたかった。もちろんこの男性とは時々食事をする程度の間柄であったが、後ろめたい気持ちと何であんな場所にしていったのかという後悔が増幅した。

「なくしたの、数日前、たぶんすられたと思う。友人の男性と食事に行くときにスラれたみたい」

「一人でその男性と食事?」

「一人だけど、何もないよ」

「何かあるとかが問題じゃない。そもそも、もう帰ってくるといっていたのに1年延ばし、さらに1年、学校の講師をしているといってもそれじゃ食べられないからアルバイトまでしている。結局、日本で言うフリーターと同じじゃない。それでこれ、ひどくない」

さらにレンの言葉続いた。

レイは異国で懸命に生きている自分をこんな風にいうレンに悲しくなった。レイは涙を拭うこともなくそのまま席を立ち、走ってレンの前からいなくなった。

レンはフォークを強く持ちそのまままだ食べ続けた。立ち上がったレイには目もくれず、反対の手で残ったパンにムール貝のソースをつけ食べ続けていた。

翌日の夕刻、シャルルドゴール空港は夕闇に包まれていた。

レイは一晩中、自分が何をしているのか、何故ここにいるのか、そしてレンのその厳しい言葉を反芻した。人はなぜ好きな人をそこまで人を傷つけることが出来るのかレイには理解できなかった。離れていることはお互いのストレスではあるが、心の中で通じていると言う思いが、レイを勇気づけたし、心強くもあったのに、それが昨日の一言で脆くも消え去った。

シャルルドゴールにはターミナル1とターミナル2がある。レイはターミナル1が好きだった。レイは新しくてピカピカしたものより、少し人の使った温もりのあるようなものが好きだった。ターミナル1はロサンゼルス航空の建物のようにその姿は前時代的なものだ。エスカレーターも決してスムースではない、ガクガクッと時折り音がしたり振動もある。でも機械が動いているという実感がある。

今日のエアラインはエールフランスなのでターミナル2だ。天井はガラス張りで鳥の形をしている。
モダンで明るいその建物はターミナル1とは対照的だ。

レンはターミナル2の方が好きだと言った。あれほどハイブリッドカーや電気自動車は嫌いだと言っていたレンなのに今はハイブリッドカーに乗っている。

二人はターミナルの長椅子に腰をかけた。一人分の席をあえて空けて座り、ほとんど無言だった。

出発の最終案内が聞こえた。レンは機内用のバッグを持ち直すと、レイに儀礼的に体を気遣う言葉を掛けながら、足早にゲートに消えて行った。

レイも飛行機が離陸するのを待たずに空港を後にしてパリにもどって行った。手には渡しそびれたBHVの袋の中に一冊の本が残ったままだった。

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