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2012年11月26日月曜日

Daiquri


Daiquri ダイキリ

乾いた石段に日差しが容赦なく照りつけていた。茶褐色をした石段の角は丸まっていて、なだらかに港まで続いている。ときおり魚網を頭にのせた女性たちが通り過ぎるくらいで人通りはまばらだ。階段の途中に小さな踊り場がある。踊り場の横の家には上げ下げ式の鎧戸のついた緑色した木製の窓があった。窓のペンキはみごとに剥げ落ちそして傾いていた。

部屋の中は戸外の明るさのためか全く見えない。猫はその窓枠で気持ちよさそうに午後の昼寝を楽しんでいるようだった。

どこからともなくトロンボーンの音が聞こえる。遠くでかき鳴らされた楽器の音が青い空と白い雲に吸い込まれていく。

石段を登り切るとそこは旧市街だ。石で造られた建物はいずれも旧く指で数えながら階数を確認できる。どの建物も青い空と白い雲そして茶褐色をした道路と一体となって融け込んでいるのに看板だけが夜になると異様な光を見せる。看板に配されたネオン管はスペイン語よりも英語の方が多い。壊れていて光らないものや曲がって書かれているものがほとんどである。ネオン管は時折ジッジッという音を立てて点いたり消えたりしていた。

旧市街の通りに目をやると、半世紀はタイムスリップしたような車が当たり前のように走っている。そう広くない歩道に点在するように街路樹が植えられ、人々はそこでつかの間の休息を取っている。赤と黄色の縞模様の木綿のワンピースを着た恰幅のいい黒人女性がその樹の下で幼い女の子の靴紐を直していた。

この国は奇跡の国である。ある一方のイデオロギーが急激に大きく膨張をしようとすると、それを膨張させまいとする反作用を起こすイデオロギーが生まれる。最初は拮抗していたそれらであるがほんの少しでもバランスが崩れると一方は消滅してしまう。そして残ったものはエーテルのように実体をもたない軽い気体。意外にもその残滓たるものは郁福として豊醸である。

この海でクジラは子供を産み育てる。食べ物は少ないが敵から襲われることのないゆりかごのような海。クジラはここで体力と知力を備えて地球を回遊する一生の旅を始める。

クジラにとってのすべての原点がこの海。

老人が言っていた。クジラは人間の化身だと。クジラの寿命は50年である。少し前の人間も同じようなものだったが最近は長く生きすぎると老人はつぶやく。人間が死ぬと一度クジラになりそしてまた人間に化わるのだと。くじらの目を見てみるといい。老人の言葉が胸に刺さる。

歩きすぎた脚をいたわるように薄暗い店のカウンターに腰を下ろす。その店には戦う美女神の名前が付いていた。カウンターはマホガニーで出来た重厚なものだったが、時の年月に皺と滲みを増やしていた。椅子の足置きにつま先をちょこんと掛けて、フローズンダイキリを頼む。甘くないものを頼む時はパパスタイルというそうであるが、かの文豪がこよなく愛したこの店でそう口に出すことは憚られた。グラスにはラムメーカーの文字が記されている。運ばれてきたグラスから水滴がしたたり落ちる。ライムの香りが鼻をつき、冷剌なる液体がのどを通る時に戸外からパレードの音が聞こえた。
 
 

 

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