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2012年11月22日木曜日

原理的な人

巷には原理的な人が多くなった気がする。丸山眞男が「古層」で述べた日本人の意識は高度経済成長と自由と平等の毒薬を徐々に飲まされ変容してしまったのか、それともその宿瘂を引きずりながら今もなお成長し続けているのだろうか。

原理的という言葉はよく耳にする。しかし、原則的とどこが違うのだろうか、いや根っこは同じだと思う。

つまり、物事への柔軟性がないのだ。そして白黒をはっきりつけたがる。

原発廃止、原発存続そういう類である。

原発事故の時に多くの母親が子供を原発から遠くに避難させたり、食べ物に異常なほどに気を使うようになった。子供を守る母親として当然と言われればそれまでだが、その内の何人が原発や放射能の事を理解していたのだろう。

つまり彼女らの多くは、こうあるべきという原則を打ち出している。いや、原理かもしれない。

その原理の前では如何なる理論的説明も説得も用をなさない。

原理に置いて行動する人ほどやっかいなものはない。

ここまでくると丸山眞男の言葉を思い出す。「潔きことを重んずる日本人」である。彼はいう、「潔きこと」の前ではすべての論理的説明は太刀打ちできない。

日本が戦争(太平洋戦争)に突入した原因は軍部の独走とそれを止められなかった政治の責任ということをよく耳にするが、先般読んだ書籍にはこれにも増して国民の中に「潔きことをしよう」という感情が突き動かしたと記されていた。

この「潔きこと」を望む日本人が増えれば、原理が全ての論理や関係性を打ち消し、一人で盲目に歩いていかなければ良いがと思う今日である。

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