Schneewächte
橋本は冬山の支度を終え最後にもう一度荷物の点検をしながら、小学校の時、母と父と3人で登ったアルプスでの登山を思い浮かべていた。
橋本は高校の時から登山を始めた。もっとも山好きの教員であった父のお陰で小学校の低学年から日本中の夏山を登っていた。小学校を卒業するころには登った山の数はアメリカの州の数を上回っていた。橋本にはそのほとんどが過去の記憶となって断片のみがかろうじて存在するのだが、珍しく残照が結節をもって繋がる記憶があった。それが母も参加したある年のアルプスを登山した記憶だった。母膝を痛めたこともあり父との登山にはほとんど参加しなかった。母は家で専ら橋本と父の話を聞く係だった。そんな母が行きたいと唯一言ったのはその夏のアルプスの登山だった。何故母が行きたいと言ったのか今になっては真相を知る由もないが、途中にある地名が母の名前と同じ紀美子だったからなのかそれとも単なる気の迷いか分からない。たぶんにそれは聞き役だった母が自分の目で確かめてみたいという、生きていることへの挑戦でもあり欲求であったのかもしれない。
一家は上高地から梓川を上流に向け歩いて行った。橋本はある程度高い山ならどこの山でもある一定のところからがらっと植物の相が変わることを知っていた。専門用語ではこれを限界森林と呼ぶそうであるが、ここも同様だった。暫くは雑草と笹に覆われていた登山道が急に明るくなる、木々がそれまでと彰かに異なったものに変わる。さらに稜線を登るとそれまで登山者を覆っていたその植物さえ視界から離れ背の低い這松だらけになる。
父は母と山で出会ったといっていた。父の最初の言葉「よい天気ですね」だったらしい。母はその言葉を聞いた時に今にも雨が降りそうで下山の支度をしている最中に変な事を言う人がいると思ったそうである。結局、その日雲は北に流れて雨は降らずに太陽と並走する下山になったようだ。
その山登りは母の体調を気遣いながら進められた。母の前には槍ヶ岳がくっきりと姿を現し遠くには立山も見えた。
上高地にあるそのホテルは、父がここは山男には分不相応といっていつもは目もくれなかったものである。そのホテルに父が急に3人で泊ろうと言いだしたことが橋本には驚きだった。今でも実家には大きなマントルピースの前で少し顔を赤らめた母と父が橋本が仲良く映っている写真が飾られていた。
母が亡くなったのは翌年の11月だった。悪性の腫瘍と診断された3か月後だった。
橋本は胸騒ぎを感じていた。先月登った時にもルートの途中にある雪庇がふだんの2倍ほどの大きさになっており、いつ稜線から雪崩が起きるかもわからないと地元のガイドが心配そうに言っていたからだ。高校からの山仲間の隆三と恵子は合計4人のパーティでその同じコースを2日前からトラバースしていた。橋本は仕事の都合がつかず出遅れていたが、出掛けの恵子の電話が気になっていた。出掛けにアイゼンの歯が欠けたのだと言うのだ。鋼鉄製のアイゼンは滅多なことでは壊れない。何ともなければ良いがと胸騒ぎを一端、心の奥の方に畳みこんでザックを背負った。
0 件のコメント:
コメントを投稿