何気ない会話の中で私が20代後半と思しき若者に「自由とは何だろうね」と私が独り言のようにつぶやいたら、若者はすかさず「決まってるじゃないですか。自分を変えることです」と胸を張って言い返してきた。私は下を向きながら「そうだね」とボソッと答えたが、心の中に遠くの春雷の音がこだましていた。
もちろん若者の答えも正しいと思う。ただ、「自由」とはそんな簡単なものでは無い気もする。
私の祖母は満州からの引き揚げの時に弾丸が顔のすぐ近くをかすめ、命からがらに逃げて来た。その時に祖母はどうか普通の生活が出来るようにと願ったそうだ。
ある雑誌のコラムにフランス人の俳優でもありプロデューサーのピエール・パルーのコラムが載っていた。彼はクロード・ルルーシュ監督の「男と女」にも御亭主役で出演していた。トランディニァンのことは皆さんもご存じだろうが、この人の事は案外知らない。この人の父親や母親はトルコ系ユダヤ人で、それは大変な苦労をしてヨーロッパを遍歴しながら彼らを育てたのである。彼はその父親たちの「自由」と私の「自由」そして娘の「自由」はそれぞれ違い、同じものではないと言っていた。
私も彼の意見に賛同する。そして最後に彼は当たり前の自由は人を不自由にするのではないかと締めくくっていた。
私も含めて生まれながらにして自由が当たり前のようにこの国には存在する。自由が奪われるなどと言う事は微塵もないと考えることもしない。
学校は教える。自由は権利であると。若者が自由を無限大の大きさに解釈し考えるのも無理からぬ話である。
権利の行使できない社会において、自由とは何なのか世界中を見渡せばいくらでもある。そうした国の人に「自分を変える」と言ってもピンとこないだろう。その世界にはその世界の自由がそんざいするのだから。
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