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2013年11月9日土曜日

REMINISCE

REMINISCE

今気になる洋服があるEG(エンジニアドガーメンツ)である。デザインを手がけるのは鈴木大器氏である。私より3歳若い。彼は日本にはいない。NYに住んでいる。今話題の人物である。
彼は27歳くらいからボストン、ロサンゼルス、ニューヨークとアメリカ中を転々としていた。彼の服の魅力は平均的でないことだ。何かが飛び抜けている。彼は押しなべて手頃で誰もが良いと思う服を作っているわけではない。例えば価格は高い、縫製はボロボロ、でも生地は特別という何か一つ特別なものがあればそれが商品として作り上げられる。

彼の商品は敢えてアメリカサイズで展開される。渋谷にある彼の商品がおいてある店は一見すると入口も分からない。店の名前は「ネペンタス」食虫植物ウツボカズラのことである。こうした不自由さを補っても買いたくなる服なのだ。胸囲107センチの私でもシャツはSサイズで丁度いい。19世紀のワークシャツをリメイクしたものではない。19世紀のシャツをイメージとして取り入れ、彼流の解釈で再構築される。だから全く別物である。

彼はユニクロを消耗品と思って割りきっても購入を躊躇すると。私も全く同感だ。しばらく前なら消耗品として割り切っていただろう。しかしこの歳になると消耗品だからというエクスキューズは身に付けるものには要らない。着たいものを着たいそれだけで良い。

彼が言っていたが、若い時に池袋パルコでNYの7人展という企画物を見たのを覚えていると。私はその現場にいた。時代の寵児たる箱がパルコで若者はそれぞれ刺激を受けた。彼はそういった一切合財のものを袋にしまって米国に渡ったのだろう。水槽のあちらとこちらで同じ魚を見ているのにその後の人生が全く異なる。よくあることだ。
彼が言うように当時は簡単には海外のことは分からなかった。NYがどんなところでどんなものなのか。赤貧の青年はせいぜい映画グロリアでジーナローランズがくわえタバコで闊歩するシーンからその街を想像するしかなかった。

彼は言う。天賦の才を持ったものは別として凡人は経験と知識を積まなければ何事も成功しない。確かにその通り。私も40才近くまで失敗の連続だった。熱が入り過ぎて周りが見えなくなる。そして案の定の失敗を繰り返す。でもこれだけは譲れない一線がある。その一線を簡単に明け渡す人間を私は今でも信用しない。結果として40歳を過ぎてからこの拘りが澱のように堆積し下地を作る。

渋谷の公園通りにアップスフォーというパルコの別館のようなものがあった。その中にREMINISCEという店が入っていた。商品はビンテージ風の破れたシャツやミリタリー調の古着もあったが、商品はとにかく混沌としていてどのジャンルにも属さなかった。あるイベントでこの店のファッションショーを行った。行わせた側から言うのも失礼だが見ていてこれほどドキドキしたショーはなかった。なにせ全てが手作り、ショーに出演するモデルもお店の子が演じたし、演出そのものもそうだった。素人ゆえステージに上る直前に緊張を和らげるためにテキーラ(たぶんそうだったと思う)をストレートで一気飲みしてステージに立った。ところがこれがかっこよかった。白々しいモデルの演技ではなく、この洋服が好きだという気持ちが伝わってきた。ショーが終わってその子は現場に座り込み大泣きをしていた。そういえば彼の渋谷の店は当時のREMINISCEに雰囲気が似ている気がする。

あれから30年、考えてみると好きなモノは変わらない。そう人間の本質的なところで気持ちのいいと思うことは変わっていないと思う。そういえば鈴木氏もサーフィンをやるそうだ。もちろん住んでいるロングアイランドだけでなくハワイでも。ここでも彼と水槽の向こう側で会っているのかもしれない。






2013年11月8日金曜日

テロワール

ロワール

その男は湖を眼下に見下ろす暖炉の前でイームズのラウンジチェアに脚を組みながら一人ワインを飲んでいた。指先を少し広げたチューリップの形をした大ぶりのグラスにそのワインは注がれていた。
ボトルには擦り切れたラベルにVosne-Romanee 1er Cre Cros-Parantoux 1979と書かれている。グラスに注がれたワインは縁に雫を残しながら底に落ちていく。沈む太陽を見送るようにわずかに残った青空に映しだされたその液体はすみれ色に染まりながらゆっくりと溜飲される。
男はこのワインのアペラシオンを見学したことがある。ブルゴーニュでは土壌、気候、ぶどう品種を総じて=テロワールと呼ぶ。そしてそのことが特に大切にされる。前年にどんなに良いワインを作ったとしても天候不順でその力量を伴わない年には生産されない場合もある。もっともこれは地理的な特徴が大きく、ブルゴーニュがボルドーと比べてより北にあり夏の日照時間こそ変わらないものの、夏暑く、冬寒い大陸性気候が南部より顕著でしかも春の降水量が多く、収穫期の秋に少ないというワインにとっての最高の条件が重なるからだ。そして結果的により敏感で繊細なワインを作ることになる。
ブルゴーニュの土地の特徴は石灰質だという人がいる。間違ってはいないが正しい表現ではない。白ワインに有名なMONTRACHETがある。これは禿山と言う意味である。この言葉が表すようにブルゴーニュの土地の多くは母岩の上に薄い表土が重なり、一般的には山の頂に近いほど表土が薄くなる。だからMONTRACHETになる。
ブルゴーニュの母岩は一般的にバジョシアンとバトニアンというジュラ紀のものである。つまり石灰岩が主岩である。たからひとくくりに石灰岩質と呼ばれる事が多い。この母岩により土地に自然な起伏が生まれ、斜面上部は表土が薄く、小石が目立ち、下部は泥灰岩層が入る。平坦部の表土は酸化鉄の多く含んだ粘土質が多くなり赤っぽくみえる。
このワインは数年前までアンリ・ジャイエという著名な醸造家によって創りだされていた。残念ながら彼は他界し現在では親戚筋にあたる人物が代わりに作っている。人は変わったが現在でも先代の醸造法を頑なに守っているようだ。
クロ・パラントゥーが生産されるのはリュシュブールの斜面に位置する。馬の背に近く北東を向いているため特に冷涼である。小石が多く粘土石灰岩質にさらに泥土が混ざっている。男はその畑が特に赤っぽく見えたことをぼんやり思い出していた。
男は昨日、日本から戻ってきたばかりだった。男はジュネーブ空港で着ていたカシミアのコートを車のトランクに放り込み、迎えに来ていた運転手にアヌシーの街に行くように告げた。空港から市街まで20分ほど掛かる。程なくして真っ白なベントレーは滑るように酒屋に横付けされ、運転手がドアを開ける間もなく男は早足で店内に入っていった。
男は日本に行く前に酒屋の店主にあるワインを探してくれるように頼んでいた。男はもし手に入るならば相場の三倍を出すと店主に約束した。店主は知り合いのワイン商やレストランのコック達に片っ端からこのワインがあるか聞いて回ったが、そんなものあるわけないといった反応がほとんどで誰も店主の話を真面目に聞こうとはしなかった。もっとも年代物のワインというものは特に当たり年のワインは値が張るがまだ市場に存在する場合がある。しかし、当たり年でないものはさっさと市場から消えてしまうからだ。
男が日本に着いてから5日目の日だった。酒屋の店主から男に電話が入った。リヨンにある小さな知り合いのレストランで1本だけこのワインがあるという。それも石造りのセラー内で定温貯蔵されていた状態のよいものだった。それをレストランでは譲っても良いという話だった。男は値段を聞くまでもなく、店主にこのワインを買うように伝えた。
男は早速酒屋の主人に代金を払い、ワインについてあれこれ説明しようとする店主の口を塞ぐようにさらに手の中にチップをネジこんだ。店主は何も言えず笑みを浮かべただその男が乗る白いルールスロイスを見えなくなるまで見ていた。
男はそのワインボトルを労るように隣のベージュ色のコノリーレザーのシートの上に寝かせ、上から小さなドキュメンケースをボトルが揺れ落ちないように被せ、運転手に注意して運転するように指示してから目を閉じた。
車はつづれ折りの山道をゆっくりと駆け上がり、雪を頂いたモンブランが遠くに見える頃にはアヌシー湖は眼下に小さくなっていた。



-つづく-



2013年11月6日水曜日

洋服について


 私はどちらかというとお洒落ではない。ブランドにもほとんど興味が無い。ではどんな服でも良いのかと問われれば否である。Tシャツ一枚でも着たくないものは着たくない。そこは頑固である。

物心ついて初めて自分の洋服を買ったのは小学生の時だった。それまでは洋服は親が用意するものを着ていたからだ。第一そんなことを言う余裕なんてなかった。初めて買った(買ってもらった)のは何の変哲もないサックスブルーのカッターシャツだった。新宿の小田急百貨店のシャツ売り場である。それ以来シャツにはうるさくなった。

高校生の頃、お洒落をしていることがかえってかっこ悪いと思うようになった。恐らく当時の高校生のほとんどが読んだであろう庄司薫の小説の影響からかもしれない。その後テレビでは主人公が裾が敗れたフレアーのジーパンに下駄、そしてカーキ色のアーミージャケットを着て吉祥寺の街を闊歩していた。田舎の高校生はその姿に憧れた。

上京してアメ横の中田商店に通った。アミーテイストが好きになったのはこの店のせいかもしれない。ただ、私には純粋な軍物よりも当時アメリカから輸入されていたカジュアルな洋服が気に入っていた。厚手のチェックウール生地で裏地にキルティングが施してあるTPOジャケットは私のお気に入りだった。その後、上野は遠くなり、渋谷に出かけるようになった。百軒店のミウラ&サンズ、公園通りバックドロップは必ず立ち寄った。パルコはまだ元気だった。

社会人になるとカジュアルな服と並行してスーツが必要になった。ほとんどは百貨店の社販で済ませたが、懇意にしていたテナントの店長から安くしてもらって気に入ったジャケットやパンツを買った。グレーフランネルのスーツやブラックタータンのパンツ、オリーブのウールギャバジンのストレッチパンツに絹と麻の混紡のトロピカルジャケットを合わせた。ジャケットもパンツもAVON HOUSEのものだった。

その後日本はバブルの絶頂期に入っていく。洋服は海外のブランド物ばかりになって、値札も10倍に跳ね上がった。この頃こうしたヨーロッパのブランド服は一切買わなかった。どう見ても似合うとは思わなかったからだ。そしてスーツのラペルの幅は猫の目のように太くなったり、細くなったりした。建築でもそうだけれども少し前に流行ったデザインというものが一番ダサい。だから流行遅れになるとそのままゴミ箱行きになる。

今好きなのはストーリーのある服。どんな人に着てもらいたいかはっきり主張する服が好きだ。フィッツジェラルドは嫌だけれどヘミングウェイには着てほしい服とか。

屋根裏にあった厚手のカーキ色のマーガレットハウエルのダッフルコートを出してみた。20年前に買ったものだ。ところどころ虫に食われているがまだまだどうしてカッコいい。
今一番欲しいのはオールデンのブーツ。
そのブーツにサンドベージュの太畝のコーディロイパンツとオフホワイトのハイネックのセーター、そしてその上にハリス・ツイードのジャケットを着て、葉山のデニーズのテラスでケルアックでも読みながら午後の曳航を楽しむ・・そう男は皆、ナルシストなのです・・





2013年11月5日火曜日

居心地の良い店 CoCoMo

このお店は大切なお店で人にはあまり教えたくないのですが、この文章を読んでくれる方ならばきっとこの店の良さが分かっていただけると確信し紹介することにしました。
この店には不思議な魅力があります。通年供される生牡蠣と白ワインが美味しいのは当たり前としてもその引力とも呼べるお店の魔法についぞ引き寄せられてしまいます。

その店の名前はココモ=CoCoMoといい、比ヶ浜海岸の真ん中134号線沿いにあります。冬場はお休みが多いの(後で分かります)でいつも振られてしまい中々入ることが出来はなかったのですが、数年前、運良く入ることが出来た初秋の夕陽に完全にノックアウトさせられてしまいました。

湘南には綺麗な夕陽を眺められる店は多くあります。この店もそんなお店の一つですが、ここの特徴は窓がいつも開け放されていることです。開け放つことの出来ない季節はクローズとなるので営業しているときはいつもオープンなのです。やや薄暗い店内と相まって、大きな木製の窓枠がまるで絵画の額縁のように前面の景色を切り取って見せてくれます。その表情は刻一刻と変化し太陽が沈み夕闇に包まれるまで続きます。先程まで砂浜ではしゃいでいた修学旅行生がいなくなり、代わって恋人たちが浜辺に座り込み、さらにその二人もいなくなり、トビが太陽の方に向かって鳴きながら去っていきます。ガラスが無いということだけでこれほど景色と自分が一体になるとは知りませんでした。

そしてこの美しい景色にマッチしたシンプルで飽きのこない牡蠣を中心とした料理もこのシチュエーションの一部のようです。

お店の内装も自然体です。新しいピカピカしたものは一つもありません。時の経過とともに自然のものが自然に帰っていくごくふつうの事がここではインテリアになっています。
店もそうならギャルソンの女の子もとても自然体です。いつも明るく海のような穏やかさで、一言二言話すうちに地元のサーファーであることがすぐわかります。目の前の海をいつも眺めながら働いていると小さなことなどどうでも良いと心の芯が太くなるのかもしれません。一本頼んだデキャンタの白ワインもなくなり、追加をオーダーしながら今週の波の話題が続きます。

昼間のサーフィンを終えて疲れた身体にこれほど癒しの空間はありません。白ワインが身体の隅々まで染み渡る頃には肩の筋肉痛もなくなり、景色は月を抱えながら夜の静寂が降りてきます。サーファーにとってこれ以上何が必要なのでしょう。







2013年10月31日木曜日

TENTATION DE JIBIE

正式にはgibierではなくsauvageです。何故ならgibierには一定の条件下で飼育された獣肉も入ってしまうためで戴いたこれは正真正銘の野生だからです。
フランス語で鹿はcheveuil=シュヴルイユといいます。野生の肉の中でもすぐに血抜きしないと血が回ってしまう扱いの難しいものなのですが、我が家にはこの季節になるとこの嬉しいこの贈り物が届きます。もちろんこれとてご主人のハンターの腕のなせる技でしょうが、
この美味しい贈り物を届けてくれるのは黒のラブラドールを飼っている横浜在住のご夫婦です。セプとさくらに感謝。犬がいなければ出会えなかった縁だからです。
ご主人が狩猟し、奥様がそれを捌くというなんとも仲睦まじいご夫婦であります。
昨日も新鮮な蝦夷鹿のもも肉と貴重な心臓を戴き、家族で美味しく食べさせていただきました。
飼育された獣肉との違いは何と言ってもその肉の持つ生命力です。肉を噛みしめれば今まで生きていたその動物の命を感じます。私達がいかに多くの動物達の犠牲の上に成り立っているのかつくづく考えさせられます。それだからこそ骨まで大切に味わいたいと思うのです。
ということで今回は蝦夷鹿のもも肉のグリエのレシピです。もし手に入ったら是非チャレンジしてみてください。秋の深まりとともにこのジビエでとったフォンは格別でありますから。

蝦夷鹿のもも肉のグリエ

■用意するもの■
蝦夷鹿もも肉 塊、蝦夷鹿の骨、クズ肉
香味野菜
セロリ、人蔘、エシャロット、タマネギ、パセリの茎、にんにく、ローズマリー、タイム
お酒
赤ワイン、ポルト酒、ブランデー
調味料
塩、胡椒、キャトル・エピス、バルサミコ酢
その他
バター、網脂、ピーナッツオイル
付け合せ
きのこ各種、じゃがいも、根セロリ

■作り方■
①    血や筋を掃除した肉に赤ワイン、香味野菜(半量)を入れ一晩マリネする
②    骨、屑肉、香味野菜(半量)にピーナッツオイルを掛けてオーブンで焼く
③    大鍋に半量の水を入れ②をこそげ落とすようにして入れて、灰汁を掬いながらよく煮込む
④    ①の一晩マリネした肉を取り出し、水気を拭きとり網脂をかぶせる
⑤    ①のマリネした野菜、ワイン、さらにバルサミコ酢を大鍋に加えさらに煮込む
⑥    煮汁が1/3程度になったら野菜や浮遊物を漉す。これでソースの基本が出来上がり。
⑦    千切りにしたじゃがいもと根セロリに塩コショウしピーナッツオイルで片面ずつ焦げ目がつきカリッとするように炒める。
⑧    きのこはバターでさっと炒め塩コショウしておく(肉が出来上がる寸前)
⑨    網脂の上からバターを塗り、塩コショウ、キャトル・エピスを振り、肉の表面をさっと色づく程度にフライパンで焼く
⑩    肉の上にステンレスのボウルなど被せて10分休ませ、次に200度のオーブンで5分焼き、さらに同様に被せて10分休ませる。これを5回から6回繰り返す(肉汁が出なくなって肉が膨らんできたら出来上がりです)
⑪    ⑥の基本のソースにブルベリージャム、ポルト酒、ブランデーを加えアルコールを飛ばし、バターを加えモンテする。最後に塩コショウで味を整える。(ジャムはお好みで加減してください)






2013年10月30日水曜日

サーフィンが教えてくれたこと

 30代のはじめサーフィンから離れていた時期がありました。離れていたというよりサーフィンをやっていることをあからさまに公言しなくなったのです。子育てや仕事でそれどころではなかったという理由もありますが、サーフィンをやっているというとみんなが怪訝な顔をするからでした。ある年配の人に「そんな若者のスポーツより紳士的なゴルフをやりなさい」と勧められたこともあります。要するにサーフィンは世間の目からすると「そんな若者の」スポーツだったのです。

私が初めてサーフィンを知ったのは19歳の夏でした。正確には初めてその時サーフボードを触ったのです。それから6か月が過ぎた頃、アルバイトで貯めたお金を握りしめて中古のサーフボードを買いました。タウン&カントリーのデーンケアロハモデルのボードはところどころリペアの跡が黄ばんでいてお世辞にも綺麗な板とは言えませんでした。あの頃、日本ではサーフボードがロングからショート変化し、ボード自体にもコンケーブやチャンネル、ツインフィンにトライフィンと新しい性能がどんどん取り入れられていきました。

ノンシャランを気取った自由な学生生活も就職というごく当たり前の工程表の中で忘れ去られていきました。リーのジーンズにTシャツの生活から、紺色のリクルート用の背広に着替え生活は次第に海から離れていきました。
あの頃、なぜ自分が実力もないのにあれほど過信していたのか分かりません。分からないですが絶対に自分は志望企業に受かると思っていました。その世間知らずの確信は一日であっけなく崩れました。

私にとって教職を諦め企業就職を決めてからそれが人生初めての挫折でした。私は折れた心を携えて友人とサーフボードを車に付けて西浜に出かけました。しばらくぶりの海でした。オフショアの風に飛ばされる水飛沫きを見ていて、ちっぽけな自分が何かに固執していることに気がつきました。その固執こそ自分を視野狭窄にしているのだと。それまで企業の就職担当者から志望理由を聞かれて、紋切型に暗記した内容を答えていた自分が馬鹿らしくなりました。それから知名度や売上でなく好きな事に携われる会社を候補に入れました。
おかしなぐらいにこちらはトントン拍子に運んでいきました。そして数社から内定をもらいました。その中でも蓄音機と犬のマークのレコード会社では、何が得意かと聞かれ、謝ることですと伝えると担当部長が大笑いして、「それゃうちに向いているよ、君は洋楽より演歌の方がいい、きっといい仕事をする」とも言われたことがありました。

私のサーフィンは少しも上手くならないのは今に始まったことではありません。当時もショートになってからろくに海に入っておらず、新しく買ったアイパのツインフィンは浮力もなく、時々サーフィンをする鈍った身体には扱える代物ではなかったからです。
それから数年が経って二人目の子供が生まれ、仕事は相変わらず二足のわらじどころか三足のわらじで多忙を極めましたが生活の息苦しさは変わりませんでした。
ちょうどその頃ロングボードが復権し始めていました。ロングボードの最後の時期にサーフィンに触れた私にはこの復権には全く抵抗がありませんでした。

初めて買った新品のロングボードは9フィートの水色のティントの美しいサーフボードハワイのものでした。シングルフィンではなく、小さなフィンが付いていました。それから数本を買い換えているのですが一向に上手くならない。いつになったら大きくて深いボトムターンが出来るのだろうと上手い人を見ると羨ましくなります。それでもサーフィンを続けています。どんなに風で波がぐしゃぐしゃでも、小さくてテイクオフが精一杯な波でも笑顔で楽しむことにしています。海に入った以上嫌な顔でサーフィンをしたくないと思うからです。だって、好きな事をしているのですから。

 海の上から陸を見ると、陸から見える風景とは全く違うものが見えます。ハワイだって海の上からワイキキを見ると自分が違う世界からやってきたと錯覚を覚えます。

 それにしてもこの古い写真はサーフィンを始めた当時のものです。場所は伊豆の大浜です。断っておきますがTシャツをトランクスに入れているのはシャツのコーラが溢れたからでいつもではありません。()いくら田舎者でもその程度は理解しておりました()

そんな昔も懐かしみながらもそれでもいつかはサーフィンもできなくなります。でもそれまで何とかサーフィンを続けたいのです。だから無理は禁物ソローリソローリと様子を伺いながら身体と相談してサーフアップをするのです。ただし、みんなにサーフィンを続けているとこれからはしっかりと公言しながら・・






2013年10月29日火曜日

大局と小局


大きなスタジオを運営している人が売上が減少しているのは若者の雑誌離れが顕著でその煽りを受けているのだと言った。その時はなるほどそうなのかと思った。
その後知り合いのプロカメラマンのスタジオは震災で多少の落ち込みはあったがその後は順調に推移していると聞く。この違いが何故なのか分からなかった。そしてつい一昨日、仕事を一緒にしている設計士さんが大手の雑誌社のスタジオの回収を手がけているという話を聞いた。全体はコーディネイトするがスタジオの中味はその雑誌社の人たちが手作りで行うという。
このスタジオをつくるには理由があったそうだ。まず、既存のスタジオの中に自分達が使いたいスタジオがないということ。そしてとても高額な使用料に辟易していること。だから自分達で作ったという。

私は仕事をしていて同じようなことに遭遇する。それは物事をすぐ大局で済ませてしまう評論家のような人が多いことだ。こうした人達は自分の足元のことに気づかない。スタジオは箱だと思っている人がいたらそれは大間違いである。スタジオがただの箱の時代はもう終わったのだ。単純な写真ならばPCで好きな様に加工できる。どうしてもそこでないと撮れない写真は海外に出かけて撮ってくる。その間を埋めるときだけ必要なのだ。そしてカメラマンが劣悪な環境で作業する時代も終わったのだ。考えてみればスタジオに集うすべての人が酷い環境だと思っているのならばそのスタジオには明日はない。

つい最近テレビで大阪の有名ホテルがメニューの偽装をしたと報じられた。残念ながらあそこで出されていたジュースが搾りたてだとは私は思わなかったからいいのだが、本物を飲んでいたらすぐ分かるはずだ。この問題の芽は彼ら自身の経験のなさにつきる。前述のスタジオもそうだが運営している本人達にプロとしての自覚も興味も感じられない。だからこんなものでいいだろうと思ってしまう。

親戚筋に当たる人が長らくアパレルメーカーを経営している。昨今の経営環境を考えると驚きである。もっともその人は小売からの叩き上げの人でたとえ息子であっても好きでなければ続けられないと会社には二人の息子は入れていない。そして今も黙々とデザインを研究している。

これは人ごとではない。私のところも貸しホールを運営している。オーナーの懐具合や経営環境をつい考えてしまうと利用者側に立った助言が遠慮がちになってしまう。それではいけないのだ。絶えず利用者の目線に立たなければ明日はないのだ。自戒も込めて。