年の初めに内田先生のブログにfiduiaryのことが取り上げられていましたので、その話題の続きです。
FIDUCIARYとは信託される、またはその受託者のことです。
私の昨年、オルテガを読んでいてcivilについてオルテガの言い分を理解していました。
社会的共通資本としての土地はその通りですが、私には利己的、利益追求の一切ない動機において土地の元来的意味がなされるという記述には、そんなんありかなーと懐疑的に思ってしまいます。
なぜならcivilのほとんどがその意味において無知であり社会的共通資本としての土地の利用についてなす術を持ちえません。それをCivilに委ねるということは社会的共通資本を無知の闇に投げ捨てるようなものです。
内田先生は全く興味のなかったものが、あるとき叡智に満ちてその使い方を知らしめてくれたとばかり記述していますが、それはオルテガの言う社会と個人の在り方とは別の方法です。
私のように家守を生業としている者にとって、利益のない公的立場というのが一番胡散臭いと思っています。多少の利益を得ることを前提に己の欲に打ち勝ち、社会的な利益=公共性とを平仄にならわすことが土地の公共性を社会にフィットさせることになるのではないでしょうか?
それとて「贈与」に他なりません。天賦の才は確かに「贈与」です。還元されるべきです。同様に財物もその所有者の自由意思によって社会に還元されるべきだと思っているのは私だけでしょうか・・・
私は、先生の言うそれと、リバタリアンのちょうど中間的位置関係が信ずるところです。
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