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2013年3月31日日曜日

1978  新宿 ミスターサマータイム


1978 新宿 ミスターサマータイム

あの年の夏は暑かった。1978年、70年代も終わろうとしていた夏。

焼けたアスファルトにワラビーのゴムソールがグチュグチュと嫌な音を立てていた。

若者が地上に出て向かったのは高野フルーツパーラーだった。建物の上階にワールドレストランという世界中の名物料理を集めた施設があった。若者はそこで生まれて初めてカネロニを食べた。その料理が旨いのか不味いのか判断する舌さえ持ち得ない初めての経験。新宿はまだ混沌としていた。

あの頃新宿にはコンパという安居酒屋があった。代官山に実家を持つ裕福な先輩が後輩を良く連れて行ってくれた。先輩がボトルキープしてある酒を飲んだ。酒は角瓶だったと思う。なにせオールドは高級品だったから。

その店はコンパエアラインと言った。店内はカウンターがいくつかあって、それぞれが別の航空会社の制服を模した洋服を着た若い女性がカウンターの中に入っていて、お酒を作ってくれた。私達はオニオンスライスを頼んでただ酒を飲んだ。私はSASと書かれたカウンターが好きだった。スカンジナビア航空の模倣。

当時はサラサラの長い髪が流行りだった。それに反してそのカウンターの女の子は短い内向きのカールしたショートヘアだった。何となく一時代前のような髪型に惹かれた。あの店は幻だったのだろうか。しばらくするとその女の子は店を辞めていた。体を壊して実家に戻ったと聞いたが、妊娠して休学したという噂が流れた。

東京はある意味物凄いスピードで変化していた。新宿西口の暴動も反戦運動も何事も無かったように消し去られ新しいものが作られていった。

キャンディーズは普通の女の子に戻りたいと解散した。普通と普通でない境界線、正気と狂気の境界線が曖昧だったあの頃、ミスターサマータイムがどこからともなく流れて来たあの夏。

若者の部屋には緑の植物が描かれた薄い化学繊維のカーテンが吊るされていた。目の前の道路を大型車が通るたびに地震のように揺れた。共同の台所で誰かが包丁を使って野菜を切っている音が廊下に響いた。

若者はこの穴倉から笹塚まで歩き新宿で乗り換えて四谷に向かう生活をまるで時計仕掛けの人形のように繰り返した。真田堀でテニスに興じる女子学生は自分とは違う生物だと思って睥睨していた。

若者は実家から通う学生が羨ましかった。思う存分食べる事の出来ないその辛さは若者には堪えたからだ。だが、実家には戻ろうとしなかった。それでも夏と冬は戻らなければならない。戻ると気持ちが弱くなった。出来れば東京には戻りたくなかった。電車が浅草に近づくにつれ気持ちを入れ替えた。鐘ヶ淵、曳舟と駅を通過するたびに若者は鎧を重ねた。

あの暑い夏は二度と来なかった。焼けつくような暑さと腐った果物の様な匂いが充満していた東京の夏。

秋になると若者の部屋の壁に貼ってあった小林麻美のポスターが剥がれおちた。テープの跡が日焼けしている。

若者の留守の間にテレビドラマの撮影で使われた部屋は整然としていた。ただ、お礼の手紙と中身が無くなってしまった空の菓子箱が置いてあった。

若者はその秋引っ越しをした。


1974 乾いた夏 正露丸とトマト


1974 乾いた夏 正露丸とトマト

少年はふらふらだった。夏休みに入ってバスケットの練習はさらに過酷になっていった。

体育館を使える日はまだ良いのだが、バレー部と入れ替わりなので外で練習する日がある。土で固められたコートはところどころ砂が混ざってとても滑りやすい。

少年のオニツカのキャンバスのバッシュは砂と埃で灰色になっていた。そのバッシュが滑る。体育館の様な訳にはいかない。

真夏の太陽の日差しが容赦なく照りつける。

少年は中学2年生だったが、ゲームでは先輩に混ざりスタメンに入っている。先輩の檄がとぶ。ルーズボールは地獄だ。それが3セット。腰に力が入らない。相手ともつれて倒れ込み膝や肘には無数の切り傷があった。

シュートにはスナップが必要だ。スナップを効かさないとゴールに嫌われてしまう。逆にスナップが効いていればザッという良い音がしてシュートが決まる。少年は手首を痛めていた。旨くシュートが決まらない。でも怪我のせいにはしたくない。遠くから打てないなら、ドリブルで突破してランニングシュートを決めようと焦っていた。焦れば焦るほどディフェンスがこちらの動きを読んで、目の前に立ちはだかる。

入道雲が真っ青な空にもくもくと湧きあがっていたあの夏。蝉の声が恨めしくなるほどの乾いた夏。親戚の実家で作っているトマトを持ってきた部員がいた。冷たい水で冷やしていたあのトマトの赤。

失敗するとランニングが待っている。校庭を1周2周と走らなければならない。
さらに時折上級生の雷が落ちた。ビンタを受けた事もある。1年生の中には気分が悪くなるものもいた。こんなとき正露丸を飲んだ。何が効くのか分からぬまま少年も飲んだ。今でも正露丸を飲むとあの夏を思い出す。

今だったらいじめでやり玉に挙げられただろうが、当時はそれが当たり前だった。
考えてみるとその後の人生であんなに乾いた夏は訪れなかった。夏に強いのはそのお陰だろうか・・





2013年3月29日金曜日

エピジェネシス


エピジェネシス

私は大人になるまで大方の大人は私と同じように好きでもない勉強つまり強制された受験勉強を乗り越えて何とか大学に入りそして社会に出る。程度の差こそあれ同じようなコースなのだろうと思っていた。ところが妻の友人の家庭は違っていた。親二人が医師である事もさながら、その父親(祖父)は裁判官、そして二人の子供も全員東大である。東大が偉いと言う訳ではないが、門外漢の私からしても日本の学問の最高府であることは間違いない。私には手の届くどころか志望校とさえ口に出来ない代物だった。確かに二人の子供の優秀さは窺い知ることは出来たので遺伝的要素と言ってしまえばそれまでである。
ダーウィンの親戚フランシス・ゴールトンはその事を「遺伝的天才」と言う本の中で、人間の能力は生まれつき決まっていると書いている。
しかしながら反対の事を言う人もいる。孔子先生は其の書の中で犁牛の例えを説いている。ご存知であろうが犁牛とはまだら牛のことで、その牛でも立派な牛になる事から、人は家柄や身分で決まるのではなく、その後の人生であると言っている。またバラス・スキナーというアメリカの心理学者も人間の能力は教育と環境が全て決定するという同じように学説している。どうなのだろう、どちらが正しくてどちらが間違っているのだろう。
こんな二つの例がある。
一つは経済力、教育環境の優れた家庭にやってきた養子の話。生まれて間もないその子の実父は麻薬中毒で刑務所に入り、母はすでに疾走し、施設に預けられていた。実夫は養育を放棄し、NPOが里親を探していたら、子供の居ない大学教授の夫婦が手をあげもらわれていった。子供は其の夫婦に何不自由なく育ててもらった。物語は残念ながらハッピーエンドではなく、その子は20歳を待たずして、人を殺害し父親と同じ刑務所に入ったという話である。
もうひとつは貧しいニューヨークのスラムの環境に暮らし、乞食同様の生活をしていた子供が独学で勉強し、見事大学に入り輝かしい研究成果をあげて、数学界のノーベル賞と言われるフィールズ賞を受けるという話だ。
極端な話であるがこの話は前述の意見がどちらも正しくかつ間違っていると言う事になる。つまりは遺伝的要素も環境的要素も関係するということになる。
友人の脳外科医に聞いた話だが、脳には可塑性というものがあるらしい。どこか一つが壊れても他の別の場所が補完し、失った能力をカバーしようとする。
それと面白い事を言っていたのは時々脳というのはこの可塑性がオーバーランするらしいのだ。何かを欠いたことで別の何かが特別に強化される。
確かに天才と呼ばれる人の中にはこうした一つの特別な能力が強化された人がいる。他の事は出来ないのに特別の能力を備えた人だ。現代社会になってこうした人は天才と言われるようになったが、昔はどうだったのだろうきっと差別の対象だったのではないだろうか。
話を先の東大の家庭に戻そう。彼らは決して何かが出来ない天才ではない。何でもできる秀才なのだ。そうジェネラリストだ。そうしたジェネラリストの秀才はどうして作られるのか。
ある夏休み、日焼けしてハワイから日本に戻る機内で妻がこんな事を言っていた。あの家庭では夏休みに九州に行くらしいというのだ。何のためかと聞くと、子供に阿蘇の外輪山を見せたいということらしい。さらに、裁判官を定年で退官した祖父母は事あるごとに孫に虫や観天望気の事を細やかに話すそうだった。
私の中でパチンと音がした。決して血管が切れた訳ではない。()そう、環境はやはり大切なのである。もちろんある程度の遺伝的優秀さがなければこれとて旨くはいかない。
エピジェネシス、この言葉は簡単に言ってしまえば環境が遺伝子の発現を制御するという意味だ。この言葉を知った時には溜飲が下がる思いだった。つまり、元々の遺伝的優秀さも何もしなければ100%開花することは難しい。花壇の花のように必要な時に必要な分の水やりが欠かせないということ。つまり環境は遺伝的能力を開花させる触媒のようなもので、細胞内のプロモーターのような役割なのだと。大切なのは時期、方法、強度である。時期を間違えれば根が凍る。やりすぎれば根腐れする。多すぎても同様である。
で結果はどうだったか。それは言わない事にしよう。





2013年3月28日木曜日

オーセンティック(真正性)


オーセンティック(真正性)について

この頃この言葉を気にする。ネットワーク社会が広がり始めて個と個の結びつきは脆弱になった。その代わり仮想空間でやりとりされる情報は増え、情報の受け手としてその真贋を見極める目が必要になった。当然嘘は排除される。帰結として正しいものだけが残る。
私が初めて目黒通りにインテリアショップを導入しようとした時に、とある家主がそれは無理だと言った。あれから20年、その手の店が林立し今ではマーケットで言う回周り性が向上した。私が先見の目があったとは思わない。あの時、ただマーケットの声に耳を傾けただけなのだ。私も昔は企業にいた。企業は利潤追求が目的だ。その結果効率性が求められる。ショッピングセンターのような箱の中でも同様だった。ところがそうでないものもあらわれる。渋谷の雑貨を集めたSCを作る時、店子に言われた。そちらは3.4年で古くなるとお考えのようですが、私達は10年いやずっと愛される店を作るのです。そういって普通の倍の厚さのコンクリートで床を作った。それはサザビーだった。
先月、ロスアンゼルスに行った。シルバーレイクにあるFORAGEというレストランに行った。何の変哲もない白い平らな建物だった。季節外れの寒さの中、コートの襟を立てながら多くの人がシンプルなプレートランチを食べていた。野菜は裏庭でとれるようだ。
鉄道ファンから聞いたのだが、鹿児島空港からほど近いか嘉例川という無人駅が話題らしい。なんでも個数限定で売られる駅弁が人気でほとんど乗降客のいなかった駅に休日には200人を超すファンが詰めかける。売られている駅弁は特別に贅沢な材料が入っている訳でもない。ただ、全てが安心できる手作りの本物だ。
これだけ聞くと本物なら何でもよいのかと思うかもしれないが、そこにはネットワーク時代だからこその妙薬が隠されている。つまり、それらを真正な情報としてマーケットに伝えるとうことだ。
知り合いに素晴らしい椎茸を作っている農家がいる。どう見ても手間を掛け、他のものより美味しいのに市場では評価されないと嘆いていた。当たり前である、市場では作り手の個人的な情報は割愛されてしまう。需要と供給による価格メカニズムが優先されるからだ。
必要なのはその椎茸にどれだけ手間が掛り、美味しいのかと言う個の情報発信なのだ。
街づくりにも同じ事が言える。私の居る中目黒は幸いな事に大資本にいまだ食い物にされていない。隣の代官山や恵比寿を観る限り、こうしたマーケットのオーセンティク性を欠いた開発は街を活性化しない。中目黒は小さな商店主が駅から胞子の手を伸ばすが如く少しずつ開発されていった。20年前と比べるとその広がりは雲泥の差である。
ニューヨークに行くと分かるが、よりニューヨークらしいものが光っている。あそこにあるイケアほど似つかわしくないものはない。恐らく日本から行く観光客でイケアに行く人はまずいないと思う。何故なら、ニューヨークらしくないから。
私は一緒に仕事をしている建築士に言う。一番カッコ悪いのは少し前に流行って廃れたもの。だから普通の物を作ってほしいと。赤プリが出来た頃、ネオパリエという新建材が盛んに使われた。いかにも大理石風と言う手合いの物。大嫌いだった。カーテンウォールがもてはやされた。さほど大きなビルでもないのによく使われた。今では漏水の温床になっている。建物はその制約から来る面白さを最大限に生かせばそれでいい。そして化粧は出来る限り薄く。もっとも蜑戸を良しとする私だから経済的制約も大きい。これが結果、オーセンティックになる。
おそらくオーセンティクというのは座り心地のよい代物だと思う。邪魔にならず、周囲にすっと溶け込んで違和感のないそんな真正性。偉大なる商店を目指す当方としては無視する訳にはいかないのだ。






2013年3月27日水曜日

最後の晩餐


最後の晩餐

友人(私よりずっと先輩で東大法学部出身の博覧強記のS谷さんの事を敢えて友人と呼ばせて戴く)と一緒に食事をしている時に、突然、最後の晩餐は何を食べたいか聞かれた。これはもう先制攻撃以外の何物でもない。1ラウンドの金が鳴ったと同時に左フックを食らったようなものである。さらに三食挙げよとの命令である。炊き立てのご飯、納豆、お味噌汁・・そこまでは答えられたが次が出てこない。いや、出てこないのではなく、この陳腐な頭のCPUがある事を思い出させた。それはフランスかどこかのシェフだったと思うが、「あなたが食べたものを聞けば、どんな家庭に育って、どんな考え方を持っているのか全て分かる」と言うくだりだった。尤、平民平素の私の生い立ちなど既に先刻ご承知で今更逡巡するなど愚かな行為であることは分かっていたが、結局のところ浮かばなかったのである。
凡人が述べるまでも無く、食通の開口健がこんな事を書いている。
「味覚は一瞬のうちに至高に達し、それを展開するが、しばしば一生つきまとって忘れられない記憶ともなる。幼少時に覚えた味となると、それはもうどうしようもない一瞬の永遠で、たとえオニギリにオカカだろうと、弁当のすみっこの冷たいタラコだろうと、めざしのほろ苦い腹わただろうと、これには易牙やエスコフィエなどの料理の天才諸氏も歯の立てようが無い。だから幼少期におぼえた味というものは、手術後の一杯の水や、山で食べるヤマメや、飢えの一歩手前でありついたカレーライスなどと同じように料理として取り扱っていいものか、どうか。広義としてはこれらも料理のうちに入るのだろうけれど、むしろ超越的な天恵と考えなければならないのであって、いくら他人に説明したところ通ずるものではなく、ただ黙っていつくしみ愛撫するしかない決定的瞬間である」
ここで開口はその代表がおふくろの味と言っている。
私の場合、母の味と言うのはあまり記憶がない。いや、母の名誉のために説明すれば、当時の私の住んでいた北関東の外れの砂塵舞う街では新鮮な魚が手に入らなかった。関越自動車道が開通するずっと前の事である。輸送手段も限られ、魚屋の店頭に並ぶものは既に化石のように硬くなった干物や塩鮭程度だった。そんな街での食卓にはまず魚は並ばない。
肉屋はといえば、鶏肉、豚肉、牛肉と一応揃ってはいるが、牛肉に関しては奥に鎮座し申し訳程度に見え隠れする神格化されたものだった。
私が住んでいた住宅は祖母が満州から引き揚げた後に市から譲ってもらった平屋建ての粗末なものだった。粗末とはいえ、あたり一帯同じようない家だったので貧しさを感じたことはなかった。家の右隣は自転車にお菓子やらティッシュを満載してパチンコ屋に卸す仕事をしていた。左隣の家には玄関を開けるとそこは土間になっていて、小さなカウンターがあった。玄関には赤い提灯が下げられ、おでん” “お酒と書いたあったが、客がいた事を記憶していない。
問題なのはもう一件右隣である。家の一階は食堂に改築され、白い暖簾に中華料理と書かれていた。東京の大学に通っていた息子が家業を継ぐと言う事で帰ってくることになり、父親は張り切って店を改築したのだろう。
この店は中華と書かれてはいるが、何でもある街の食堂だった。ケチャップいっぱいのチキンライス(チキンライスと言ってもチキンは入っておらずハム)に透けて見えるような薄い卵焼きのオムライスが好きだった。中には必ずグリーンピースが3粒入っていた。私の洋食好きはここに天恵を得たりなのだ。
もうひとつ腹ペコの私に必要だったのはバターである。隣の家からこっそり分けてもらった醤油せんべいがいつもあった。何も無い空腹を紛らわすのにこのせんべいだけでは飽きてしまう。そこでせんべいをストーブで軽く炙りバターを削り取るようにして口に入れるのである。今ならいつでもジャーの中に白いご飯ぐらいはあるだろうが、当時は保温出来ず、さすがに冷や飯にバターとは行かなかったのだ。と言うわけで卑しい私の口の出所を説明したので本題の最後の晩餐のメニューである。
    炊き立ての白いご飯
    納豆(くめ納豆・・小粒でなければならない)、白ネギ、青葱、和からし、醤油
    明太子
    味噌汁(玉ねぎとジャガイモの味噌汁 味噌は信州味噌)
    おつけもの(野沢菜と茄子の浅漬け)
    ベーコンエッグ(ベーコン2枚と玉子2個 玉子は半熟 キャベツの千切り)
    ハンバーグ(妻が作る煮込みハンバーグ これは絶品)
    ソースかつ丼(ヒレ肉を丼の中に4枚 志多見屋風)
    鯛茶漬け
    餃子(焼き餃子)
    シャリアピンステーキ
    海老マカロニグラタン
    牡蠣フライ
    ピーマン炒め
    オムライス

これじゃ最後の晩餐じゃ済まないだろう?いいんです。朝昼晩三食分ですから()それでも足りなければ翌日に・・







2013年3月26日火曜日

おふくろの味 おにぎり 浅草 宿六


おふくろの味 おにぎり 浅草 宿六

 正確にはお袋の味ではない。お袋の作るおにぎりはもっと小さくてかたい。本人には言わないが本心で美味しいと思ったことは残念ながらなかった。

 正式にはお握りではないらしい(S谷さんから聞いた)おむすび(お結び)らしい。米と米、米と塩を結ぶからお結びと呼ぶらしい。なるほどぎゅうぎゅうこれでもかと親の敵のように握ったのではお結びならぬお握りになってしまう。

 おむすびは簡単な料理であるが美味しいおむすびは本当に難しい。昨今、変わり種を扱う店が多くなった。私の居た恵比寿でも通りの並びに、この手のものを売るはしりの店があった。手軽に済むのでつい買い求める事もあったが、さほど驚くようなことはなかった。今は姿を消してしまった。

 20年近く前にお世話になっている人に浅草に連れて行ってもらった。目黒から浅草と言うのは中々遠く、足繁く通うとなると大ごとである。

 その店は言問通りに面した小さな店だった。売り物はおにぎりのみ。この店はおにぎりと書いてあったので忠実に表現するが、中身はお結びである。カウンターにおにぎりに入れる具が並んでいる。私は迷わず塩辛を選んだ。

 熱々のご飯をさっと握り、パリパリ海苔に挟んで出される。一口噛めばお米の甘みと旨みが塩辛と混然となって得も言われぬ旨さである。熱々のご飯を口の中で冷ますためにホウホウと空気を入れると旨さが鼻に抜ける。今まで食べたどのおにぎりより美味しかった。
蜆の味噌汁も色の割に、塩っぱ過ぎず旨かった。

確か当時は夜しかやっていなかったが、今はどうなのだろう。もし昼やっているならば、おにぎりを3.4個作ってもらって上野公園で花見をしながらパクつくなんてのはどうだろう。花粉症さえなければ、恨めしい季節である。








2013年3月25日月曜日

大人の読書感想文


大人の読書感想文

子供の頃学校で夏休みの宿題に必ずと言っていいほど読書感想文の提出を求められた。
12.3歳の子供が本を読んで書くのだから、そこには12.3歳の経験からしか物語を読み解くしかないのだが、艾年を過ぎてもう一度読み返すとなるとそこには50年を超えた経験と知識が含まれる。もっとも全てにおいて経験と知識が優位だとばかり喜んではいられない。少年の頃のキラキラした夢や希望が滓に沈んでしまったことだってある。
友人が本を薦めてくれた。私よりずっと年上の先輩であり友人と言っては失礼にあたる先輩であるが、いつも私に知の刺激を与えてくれる。この年になって嬉しい限りだ。
紹介してもらったのは四方田犬彦の「ハイスクール1968」である。著者の事もこの本も読んでなかった。しかしながら、矢作俊彦は読んだことがあった。彼は息子の学校の先輩でもあり、歯に物着せぬ彼の物言いには好き嫌いが分かれるであろうが、私は好きである。実はこの四方田犬彦も同学なのである。
先輩よりお借りした文庫本を一晩で読了した。尤、推薦された当日に新書を発注していたのだがまだ届かなかった。(私は本にマーカーや印を付けて読むことがあるので)新書と文庫版では装丁が異なるが、私としては文庫版の表紙に使われたモンキーパンチの絵柄の方があっていると思うが。
その文中に庄司薫著の「赤ずきんちゃん気をつけて」が登場する。(頁163)実はこの本は私が高校生の頃、友人たちと愛読したベストセラーだった。恐らくクラスの中でこの本を読んだことのない者はいなかったのでないだろうか。私は彼より6つ年下なので彼が読んでいた5.6年後に読んだ計算になる。ところがこの本の感じ方が全く違うのだ。彼は最初すっと受け付けなかったと書いている。ところが私達(少なくとも私)はこの本に大いに共感し、本の主人公に自分たちを投影していた。ところがあれだけ愛読した庄司薫の3部作は数回の引っ越しの間に無くなってしまった。結局、先の矢作俊彦著「ららら科学の子」「赤ずきんちゃん気をつけて」も購入して読むことにした。つまり、3冊を併読した訳である。
私は息子が通ったのである程度分かるようになったが、あのような学校があること自体知らなかった。私の育った市では進学校といえども1年に一人東大に受かれば良い方で、それくらい東大は遠い存在だった。だから毎年120名程度の生徒数から100名近い東大合格者を輩出する学校など考えられなかった。数でこそ開成や灘に負けるものの生徒数の絶対数に比すればダントツの合格率である。
四方田犬彦の「ハイスクール1968」の書評の中には、このような知が存在する事を評価し、彼の優秀さに驚嘆する読者も多いようだが、今の教駒(筑駒)も同じようだから私は驚かなかった。当時も今も変わらずに各進学校の一握りのトップが集まる。彼も言っているように中学組と高校組は確かに分かれる。高校組は将来の希望が東大への進学であるのに対し、もっと詳細な設計図を公言する。つまり東大は経過の一つに過ぎないのだ。
数学が出来る人間は物凄く出来る。息子を見ていても大数、数オリを中学から解いていたし、数オリでもメダルを獲ったが、それでも上がいると知り、数学への道は諦めた。四方田犬彦も出来たであろうが、そんな中の一人だと思う。
彼は下馬から浜田山の100坪の家に引っ越したと書いている。彼は近くの三井のグラウンドとか新日鉄のグラウンドの入場券を何とか手に入れプールで泳ぐのが好きだったと書いている。奇遇だが私はそこでアルバイトをしていた。企業の保養施設だから社員やその家族が使うのは当然であるが、彼のように一人でやってきてプールサイドで本を読み日がな水泳と日光浴を楽しむ若者をときおり見かけた。彼らは決まって自分は特別だというオーラを放っていた。私は労働者階級として彼らを観ていた。
息子の通っていた頃の筑駒生の家庭は彼の時と同様、裕福な家が多かった。そんな彼らもこの学校に来ると勉強が出来なければ始まらない。逆に言えば、そこそこ勉強が出来た位でここに来ると大変な目にあう。これは教師も同じだ。全ての事はここに収束される。
息子のように全くの運動音痴でも勉強が出来ればなんとかなるのだが、逆は否なりなりなのだ。彼が勉強をそっちのけで遊び呆けていたのも、私にはエクスキューズに感じる。じゃお前はどうなのかと言われれば、私も大いにエクスキューズしたのだから彼を糾弾するつもりもないし、彼の行動には共感すら抱く。ただ、いえるのは井の中の蛙ということだ。彼も私も。
本書の中に出てくる映画批評や文芸評論はどうでもいい。何故なら、それらはほとんど後天的に知識の後付けだからだ。
本書の中にもう一つ重要なテーマが隠されている。それは音楽である。彼は幼い頃クラシックを聞いていたと書いていたが、その後、マイルスデイビス、コルトレーン、ビートルズに変遷していく。この音楽趣味が好き嫌いは別にして、とてもポピュラーだと思う。
つまり万人が愛した音楽なのだ。読んでいた本や彼が観た演劇や映画の内容に比べるとあまりに普通なのだ。実はこれこそ彼を読み解くカギなのかなと思っている。
もう一つのこの本の楽しみ方は当時の世相が散りばめられている点である。もっとも彼とは6歳離れているので全てが同じ時期という訳ではないが、私も渋谷の田園には行った事があるし、私が就職を決めたのも当時の西武のアバンギャルドさに惹かれてのものだった。西武のB館の地下のBE-INは忘れられない。ファッションに興味を持ったのもあそこからだった。
では彼とはこうした事物を共有しているのに何が決定的に違うのだろうか。前出した「赤ずきんちゃん気をつけて」が私にとってすんなり受け入れられた理由はその何年間の間に大きく潮目が変わったからだと思う。私が高校の頃には学生運動は急速に下火になり、高校2年の時に東京を訪れた際、大学には学生運動の姿は無かった。無かったと言えば嘘になるが、私立のいくつかの大学にプラカードが立っていた程度である。
氏も書いている通り、「赤ずきんちゃん気をつけて」はドライフールの所業だと思う。庄司薫は既にその当時、攻撃的にわめき散らし周囲を罵倒する全共闘がビターフールつまり道化だと看破している。だから数年間の遅れが私達を十分承知させていたのであると思う。
渋谷の街も変わった。東横線の駅舎は地下にもぐり、プラネタリウムはとっくに姿を消した。西武のA館とB館も当時の面影は観る由も無くつまらなそうな大人の空間になってしまった。アルバイトでカウンターを打ち続けたパルコパート1とパート2の交差点もパート2はなくなり、行きかう人は全身ユニクロづくめだ。
姿を消してしまう前に、百軒店の階段を上ってムルギーでランチでもしようか、それとも暗くなってから麗郷の蜆のにんにく醤油漬けと腸詰で一杯やりながら当時を思い出して定点観測してみるのも悪くないかもしれない。

音楽はレディマドンナからサムシングに変わったところだ・・